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ギフト

 目次

 さあ、と風が高みを目指して吹いている。
 木々の枝葉や地面の草花に声をかけ、その幾つかを一緒にいずこかへと連れていく風は、これから最初の羽ばたきを空へと見せつけようとしている小鳥にも同様に吹き抜けていく。さあ。ふと、視線をもう少し上へやってみれば、そこでは雲一つない空の中、数羽の小鳥たちが親鳥と一緒に青の中を柔らかく旋回していた。
 真っ白な花を付けているユキノキの枝に一羽残された小鳥は、空を見つめたまましばらく固まったり、また、巣の方へと行ったり来たりをくり返している。さあ、と言う風がユキノキの白い花びらを青い空へと連れていった。そんな風の声につられるようにして、先に飛び立った兄弟の一羽が、未だ勇気の出ない小鳥のために高い声で歌を歌っている。
 さあ。風が空に道をつくった。自分を取り巻くすべてに、再び枝先まで歩み出た小鳥のからだが少しだけ震えたように見えた。風がほんのちょっと強くなる。白い花びらが舞い上がり、道が更に鮮明になった。小鳥の乗る枝が少し軋んだのは、その一歩のためか、それとも風の呼びかけのためだろうか。
 風が更に強くなる。さあ! 一際声の大きいその風に、思わず髪を押さえれば、小鳥はとうにその一歩を踏み出し、不格好ながらもなんとか空で泳ごうと青の中で藻掻いていた。そんな小鳥の下に花びらを連れた風が入り込み、ふわりとその体を持ち上げてやる。
 そのとき、はっきりと、小鳥が息を吸ったのが分かった。
 落ちないためではなく、飛ぶための小鳥の羽ばたきが、太陽の強い日差しによって輝く白の輪郭を纏って見える。
 家族のところへと真っ直ぐに飛んでいくその姿が眩しくて目を細めていれば、さくり、と草を踏む音が耳に入ってきて、緩やかに視線を落とした。振り向けば、少し駆け足にこちらへ近付いてくる少年が、片手に持った木の杖を軽く上げて笑っていた。
「——にいちゃん、どうだった?」
 小鳥の背を押した風はもう元の緩やかさを取り戻し、牧草地の淡い緑をさらさらと揺らしている。少年の問いに再び視線を空へと向ければ、澄みきった青空の中で光を浴びた鳥たちがはじまりの歌を歌っていた。
「あ、やった。あのちびっこも一緒に飛べたんだな」
「ええ、ついさっき。風が強く吹いたんですよ」
「あの風かあ! じゃあほんとについさっきだ。でも、なんとなくそんな気はしてたよ」
 先ほどの風は、まるで指揮者のようだった。しるべ風の月。その名の月に相応しい風に導かれて空へ舞った鳥たちは、太陽の光冠をなぞるようにくるりと旋回し、そのまま更に高く、更に遠くへと飛び立っていった。それを見送ってから視線を戻し、目の前で、ふうと息を吐きながらどさりと木陰に腰を下ろした少年の方を見る。
「手伝いの方はもういいのかい?」
「うん、だいじょうぶ。ちょっと休憩!」
 そう言って一つ伸びをした少年は、座ったままずりずりとこちらが背にしている木の幹のところまで移動し、そこに立て掛けてある大きな画板を両手をめいっぱい広げて、木の杖と交換に掴んだ。画板の大きさは彼の背丈と同じくらいか、或いはそれよりも大きい。純粋に一枚の大きな紙ではなく、大小様々な紙切れを繋いで大きなそれとしている画板の紙には、黒と赤と青の鉛筆で無数の計算式と覚え書き、そして何度も書き直しの後がある設計図が引かれていた。
「ほんとはさ、正装があるんだぜ、発明の! でもさあ、やっぱり、思い付いたら早く描いちゃいたいから」
 言いながら身に着けていた手袋をぽいと外し、芯の丸くなった鉛筆をくるりと回しながら、少年はわざと肩をすくめさせてそう笑った。それからその頭には未だ少し大きく見える茶色のキャスケットを彼は被り直すと、首に掛けていたゴーグルも帽子のつばの上につけ直した。
 先ほど小鳥が飛び立ったユキノキの幹を背に、ふんふんと鼻歌を歌いながら、しかしそれとは対照的に真っ直ぐなまなざしで、設計図を画板が微かに軋むような筆圧で描いては消しをくり返す少年は、こちらが隣に腰を下ろしたことに気付いたかも分からない。彼の隣でなんとなく見上げた空は、色濃い青をその身いっぱいに宿し、太陽は昼下がりの熱をまばゆい温度を以ってこちらに放っている。
「ギフト」
 ふと、目に映るものが在って、隣の少年の名を呼んだ。呼ばれた彼は目線を上げず、鉛筆と練り消しで大きな紙にがりがりやりながら、緩い声で返事をする。
「んー?」
「ギフトが言っていたのって、あれですか?」
「あっ、見える? どれどれ?」
 少年は顔を上げて、こちらの視線を追うように空を見上げた。そんな彼を横目で見やれば、空の青を滲ませた灰色の瞳がまるで硝子玉のようにきらきらと輝いていて、その眩しさに思わず目を細める。
 ——ギフト。
 それがこの少年の名前だった。
 先日の夕暮れ、緩やかな下り道を歩き続けて辿り着いた低地の森。その中に在る古びた農村にて宿を借りた自分は、優しい宿の主人と穏やかながらお喋り好きな宿の主の母親に、この村に来たならば、と決して広くはない牧場を紹介された。牧場と言うよりは、牧場を営む両親の手伝いをしているこの少年——ギフトのことを。
「ああ、ほんとだ、今日は見えるね」
「でも、ほとんど点みたいに見えますが……」
「これでもよく見える方だよ。ん、ていうかにいちゃん、これ使ってみる?」
 帽子のつばを上げて遠く空を見つめていたギフトは、ぱちりと瞬くと、その帽子に引っ掛けているゴーグルを取り外してこちらへひょいと放り投げた。宙に舞ったそれを両手で受け取り、ギフトの方を見れば、彼はそのさらりとした淡い小麦色の前髪を揺らして、にい、と楽しげに笑った。
「それ、ちょっと前に造ったやつでさ。目ぇ悪くなっちゃったばあちゃんにもあげたんだ」
 悪戯っぽく片目を瞑って、ギフトはゴーグルを身に着ける動きをしてみせた。そんな少年を見やりながら、我ながら慣れない手付きでゴーグルを着けて空へと視線を向けてみれば、ぐん、とまるで引っ張られるように空との距離が近くなって、
「——う」
「あは、酔った? 慣れない内はそうなっちゃうんだよ。改善点だなあ」
 ギフトの笑い混じりの言葉を聞きながら、なんとか近い空に慣れようと目を瞑ったり開いたり、息を吸ったり吐いたりをくり返してみる。それから、少し動いただけでぐらりと揺らぐ視界をゆっくり滑らせて、先ほどまでずっと遠くに見えていた〝それ〟を目に映した。
「あっ」
「どう? けっこうよく見えるだろ」
 見える。
 息をするたびに震える視界に、それでも確かにはっきりと見えた。
 濃い青の中に浮かぶ島——すう、と息を吸ってよく見れば、それは様々な石が重ねられて造られた、きわめて人工的な島であることが分かった。島と言うよりは、遺跡と呼ぶべきだろうか。ともかく、浮いている。空の中に、浮かんでいるのだ。鳥だってずっと飛び続けることはできないし、宙に留まり続けることもできない。それでも、あの遺跡は浮いている。澄みきった空の中で、ひとつも揺れることなく、ただ。
 驚きのままにゴーグルを外し、思わずギフトの方を見れば、彼はなんだか自慢げに胸を張ってにやりとした。
「びっくりした? びっくりしただろ! おれも初めて見たときびっくりした! 十数年に一度、世界をぐるっとまわる古い風が、古い雲を一緒に連れてあそこまで来て、そのたびにあの遺跡はちょっとずつ、ちょっとずつ動いていくんだ」
 言いながら、陽光を受けるその瞳をきらきらと輝かせて、ギフトは両手を広げた。
「おれも、その古い風に連れてこられた古い雲を一度だけ見たことがあるんだけど、他の雲とはぜんぜん違って——とにかくすっごいんだぜ! あの遺跡にね、大きな羽が生えたみたいになるんだ。——あーあ! そのゴーグル! もっと早く造っとけば、あの雲だってもっとよく見えたのに!」
「へえ……! それは僕も見てみたかったなあ」
「また、もう十何年か経ったら見れるよ。そのときはにいちゃんのこと、迎えに行ったっていいんだぜ」
 帽子のつばを片手の鉛筆で少し上げて、ギフトは白い歯を見せて笑った。迎えに。彼のその言葉にふわりとした疑問が乗る。けれどもそれを声にする前に、ギフトは鉛筆をくるりと回して、その芯でとん、と画板の用紙を叩いた。
「何処にいたってだいじょうぶだよ。だって、その頃にはおれ、空を飛んでるから!」
 さあ、と草の香りを運ぶ風が吹き抜けた。
 その風は更に遠くまで吹いてゆき、もう少し向こうで草原ヤギの世話をしている少年の父親にも声をかけたらしい。からん、こらん、とヤギたちが身に着けているベルが鳴った。此処からでは、草原ヤギたちはまるで牧草地の中に在る白い雲に見える。だが、ふ、と彼らが空を見やり、ギフトの父もまたそれにつられるようにして抜けるような青空に視線をやったことは、此処からでも分かった。
「おれ、あそこまで飛んでいける乗り物、絶対に発明するんだ」
 ギフトは、そうはっきりと言葉にしながら、その硝子玉の瞳、何物にも遮られることのないそのままの瞳で、ずっと遠くに浮かんでいる空の遺跡を見つめた。
 まるで、目の前に在るものを見ているようなまなざしだった。
「できねえことはやるなって父ちゃんはよく言うけどさ」
 父親の声真似をしながら肩をすくめたギフトは、しかしそれからこちらを振り返って、
「——ばっかだよな! できるからやるんじゃなくて、〝やるからできる〟んだってのに!」
「やるから、できる?」
「そうだよ。父ちゃんだって、母ちゃんだって、にいちゃんだっておれだって、みんなそうなのに、なぁんで気付かないのかなあ」
 少しやさしくなった風が、ふわりとギフトの淡い茶髪を揺らしている。その横顔が昼間の光を受けて、ほのかに白の輪郭を纏っていた。幼くて小さな顔に備わる丸い瞳には、そこから溢れてしまいそうなほど強い意志と希望と、そしておそらく闘志までもが輝いている。
 ——ギフトは、発明家だ。
 実家の牧場でその手伝いをしている、訊けば先日十二になったばかりの少年は、この農村では誰もが知る有名人だった。それは先日此処に訪れたばかりの自分に、宿屋の親子がその存在を話したくなってしまうほど。
 何故ならば、ギフトを語るために必要な発明家という肩書きの頭には、〝小さな〟という言葉の他に、もう一つ別の言葉が付くからだ。
 村の人々や少年の両親が語るに、ギフトは言葉を声にするよりも早く、笑顔と一緒に紙での読み書きを覚えたらしい。そして二歳、村人たちの名前を口にすると共に、物の計り方を覚え、三歳では服の脱ぎ着と同時に、思い悩む流れの学者との会話で解決の糸口を見付け、その学者から計算式の読み解き方を学び、そうして自らで設計図の引き方を覚えた。四歳、家畜たちとの心の交わし方、木登りの仕方、特に嫌いな野菜——喉がいがいがするほどに苦い、あのトゲウリである——からの上手い逃げ方、そして部品の組み立て方と分解の仕方を覚える。
 そのようにして、発明家の才と呼ぶにはあまりに他と比べがたいその頭角を隠すこともなく、また隠されることもなく育てられたギフトは、たった五歳にして、肌寒い風の吹く朝焼けの中、木の板での洗濯に毎朝苦しむ母のために、村で余っていた樽と豊かな沢の水流を利用して使う、洗濯機なるものを発明した。氷のような川の水にほとんど触れずに洗濯ができるその機械は、霜焼けとあかぎれの酷かった母の手をみるみる内に癒やしたという。
 それからも毎年と言わず、毎月とも言えるような速さで様々な設計図を引き、部品を組み立て、近所の子どもたちと遊び、また牧場での仕事も働く両親の姿から学んでいったギフトは、生まれてから今まで、そしておそらくはこれからも、発明家、と呼ばれるだろう。いつか彼が成長して、その頭から〝小さな〟、というかわいらしい冠が零れ落ちても、〝天才〟、という光り輝く王冠はそのままにして。
 そうしてギフトと出会ったとき、そんな話を村の人たちから聞いた、と彼に告げれば、少年はその丸く輝く目を数度瞬かせた後、困ったように肩を少しだけすくめ、それから仕方なさそうな表情をつくって、
「——もう、ほんとお喋りだよな!」
 そう発したギフトの声にはちょっとだけ照れた色が乗り、目尻からは楽しげな光がきらりと溢れていたが、そのときはなんとなく、それは少年には黙っておこうと思ったものだった。
「でもさ、おれ一人の力じゃないんだよ、ほんと。だっておれには部品を一から造ることはできないし、誰かが声をかけてくれないとさ、ごはん食べるのも寝るのも忘れちゃうし、大きな荷物を運ぶのだってまだ難しい。一人じゃぜんぜん、なんにも造れないよ」
 続いたギフトの言葉を今、ふと想い出したのは、先日の太陽がすべて沈みきる前、彼と出会ったときと同じにおいが鼻を掠めたからだろうか。パンの焼かれるにおいと、おそらく、野菜で仕込んだスープが火にかけられるにおい。ギフトの母が作る料理のにおいだ。ただ、先日のは夕ごはんのもので、今風に乗っているのは昼ごはんのものだったが。
「おれ、ニガウリは嫌いだけど、シロニンジンはけっこう好きなんだ。甘いしさ」
 同じにおいを嗅ぎ付けたギフトが、少しばかり得意げにそう発するものだから、夕暮れの中で輝いていた硝子玉に想いを馳せるのはやめにして、視線を彼の方へと向けた。
「僕は春林檎が好きだな。この村では育ててないですか?」
「向こうの果樹園では育ててるよ。大分前に収穫終わっちゃったけどね。——っていうか、林檎って野菜じゃないじゃん! マイロウドのにいちゃんは子どもだなあ」
「でも僕、ニガウリ食べられますよ」
「けど、好きじゃないだろ?」
「まあ……」
「ほらな!」
 なんだか嬉しそうに頷いたギフトに、思わず笑みが零れた。画板を両膝に載せ、ユキノキの幹に背を預ける少年を横目に見ながら、そういえば首にゴーグルを引っ掛けっぱなしだったことを思い出して、それを外してギフトに返そうとする。そして、そんな自分に気が付いたギフトは、こちらを見て、ああ、と何か思い付いたような表情をした。
「それ、あげよっか?」
「えっ?」
「おれとにいちゃんの友だち記念としてさ。予備がも一個あるんだ。おれと……あと、まあ……ばあちゃんともおそろいってことになるけどな、それ」
「い——いいんですか?」
「うん?」
 ギフトの想いと、少年を想う様々な人たちの心がつまっているだろうその贈り物が、照る陽光よりももっと尊いものに思えて、おずおずと聞き返した自分に、ギフトは少しきょとんとした表情を浮かべてから、自身の丸い目を柔らかく細めた。
「——いいよ」
 その言葉に、自分の顔が笑みのかたちに緩むのを感じた。それを隠すこともできないまま、外したゴーグルをもう一度首に掛けて、そのレンズが陽光を反射するのを眺める。そうして顔を上げれば、こちらを見ているギフトの瞳と目が合って、思わず笑った。
「ありがとう、ギフト。壊さないように、たいせつに使いますね」
「大げさだなあ。道具なんだから、使いまくって壊しちゃってもいいんだぜ。壊れちゃったら直すしさ」
「でもギフト、言ってたじゃないですか」
 一人じゃぜんぜん、なんにも造れないよ。昨日の夕暮れにそう言ったギフトがその後続けた言葉を、その表情を瞳の奥に想い浮かべながら、それを自分の声でなぞっていく。ああ、そうだ。あのときのギフトの声は、少年らしく澄み渡り、しかし少年とは思えないほどに柔らかかったのだ。
「言ってたでしょう——みんなが〝やる〟って言った自分を信じて協力してくれるから、自分は〝やれる〟んだって。だから自分の発明品は、いろんな人からいろんなものを受け取ってつくる、贈り物みたいなものなんだって」
 それを聞いたギフトは、何故だか鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、それからぽろ、と取り落としたかのようにその口を動かした。
「そ、そんなこと言ったっけ」
「うん、言ってましたよ。……って、ほんとうは覚えてるくせに」
「な——なんだよぉ、からかうなよ」
「やだな、からかってないですよ。いいなって思っただけ」
 そうギフトに笑いかければ、彼は唇をきゅっと引き結んでしばらく黙った後、手元の鉛筆をくるりと回して頬を掻きながらはにかんだ。
「まあね。……ありがと。じゃあ、それ、ゴーグル……大事にしてよな」
 その言葉に頷けば、ギフトは少し息を吐いて青空を見上げた。彼は話しながらも時折設計図に手を入れていたから、手袋を外したその小指側の側面が鉛筆の黒色に若干染まっている。牧場の作業着であるオーバーオールの肩からずり落ちてしまったサスペンダーを掛け直しながら、ギフトは吸い込んだ昼下がりの空気をふうっと吐き出したようだった。
「——夢ってか、もう目標なんだ」
 彼の目を見れば、それが何を指しているのかはすぐに分かった。光の輪郭を保っているその横顔を目に、首に掛けているゴーグルに指先で触れ、それから少年の視線を追う。
「あのさ、にいちゃんのこと、乗せてやってもいいよ」
 ふと、ギフトが隣に座る自分を振り返って、そんな風に言って笑った。しるべ風がひゅう、と少年の柔らかな小麦色の髪をすり抜ける。ふわりと浮かびかけた大きめの帽子をなんとか押さえて、ギフトは風の通り道へとその硝子玉の瞳を向けた。
 こちらの目と、手元の設計図、牧場の景色、そして空へと何度も行き来する少年の輝く視線に目を細めながら、けれど、と思わずかぶりを振った。
「僕、ギフトに返せるもの、なんにも持ってないですよ」
「ええ? べつにいいよ、友だちだし。そういうものだろ。……あっ、でも」
「なんですか?」
「……じゃあさ、ちょっと訊きたいんだけど、マイロウドのにいちゃん。空を飛ぶなら、何に乗りたい?」
 なんか見た目があんまり思い付かなくてさ、と零すギフトに、こちらも少しだけ唸ってしまった。
 風は柔らかく、しかし確かに吹いている。低地の牧草や木々の枝葉を揺らしていくその風は、今、誰のための道をつくっているのだろう。誰が為の風に乗って、からんころんというベルの音と、草原ヤギの少しだけ高い鳴き声が聞こえてきた。ギフトが乗って、あの空中遺跡まで走るもの。さくりと、蹄が淡い緑を踏みしだく音も聞こえてきたように思える。ギフトと乗って、あの場所まで走るもの……
「——ヤギ」
 それから聞こえてきた声が自分のものであることに気付くには、ほんの少しだけ時間がかかった。
「えっ、ヤギ?」
 自分の返答を聞いて困惑したようなギフトの声には、けれども少し、笑いのようなものが滲んでいる。それにつられるように少し笑って頷けば、ギフトはもう一度、ヤギね、と呟いていた。
「ヤギなら、どんな道でも登っていけるかなって思って。それにギフトは……牧場の仕事も、好きでしょう?」
「ヤギかあ……」
「や、やっぱりだめかな? 難しいですよね。すみません、機械にはまったく明るくないもので……」
「……いや」
 視線を設計図に落とし、そのまだ空いている箇所に小さく、横から見た草原ヤギを描いて、それから向こうの方に小さく見える自分の父親とヤギの群れたちへと顔を向け、ギフトは声だけでこちらにかぶりを振ったようだった。そうして彼は、ふっと自分の方を見ると、楽しげに目を細めて、ぱっと音も鳴って聞こえる表情で笑ってみせる。
「案外、ありかも!」
 とん、と画板を鉛筆で叩いて、ギフトは風の吹くような口笛を吹いた。彼の返事にほっと胸を撫で下ろすのと同時に、空飛ぶヤギに乗って空中遺跡まで風の道を走っていくギフトの姿が容易に想像できて、知らない内に口角が緩んでいたことに気付く。ただ、それは彼も同じだったらしく、睫毛の先にきらきらした光を乗っけて、ギフトはこちらの目を見て面白そうに微笑んでいた。
「あっ、そうだ」
 ふと、ギフトが思い出したような声を上げたので、笑みを引っ込めて彼の方を見る。そうしてみれば少年は、帽子の位置を正して、首の後ろを軽く掻きながら、ちょっと困ったように咳払いをしていた。
「——でもおれ、好きな子がいるから……マイロウドのにいちゃんを乗せるのはその子の次、な!」
「え、好きな子? 誰です?」
「にいちゃん、すーげえ直球に訊いてくるな……」
 なんとなく呆れたような声色でそう発するギフトは、更にもう一つ咳払いをして、人差し指を口元に当ててにやりとする。
「秘密だよ。惚れられたら困る!」
 そこまで言いきって、けれども自分の言葉が気恥ずかしかったのか、ギフトは少しだけくすぐったそうに頬を淡く染めてはにかむ。そうしてそれを振り払うか、或いは移してしまおうと、少年は肘でこちらをつつきながら、内緒話をするときのように片方の手のひらを口の端に当てた。
「そういうにいちゃんはどうなんだよ。好きな子、いないの?」
「僕?」
「他に誰がいるんだっての」
「さあ、どうかなあ」
 言いながら曖昧に笑ってみせれば、おそらくこの聡い少年は、それだけで何かを察したのだろう。きらりと言うよりはぎらりと光を増した彼の硝子玉が、昼間の太陽よりもまばゆいそれを以ってこちらに問いを投げかけていた。参ったように息を洩らせば、ギフトの目は期待の色に輝く。それでも自分は、人差し指を口元に当ててにやりとしてみた。先ほど彼がやってみせたのと同じように。
「秘密」
 一言、そう発すれば、ギフトは拗ねたように小さく唸った。
 そんな少年の様子に柔い罪悪感のようなものを覚えていれば、きっと陽光のせいであたたかくなってしまった頬を冷ますような風が、無防備なギフトの頭から今度こそ帽子を攫っていこうとする。反射的に立ち上がり、宙に浮かんだそれを片手で掴む。
 そこではた、と風の向かった方を見て固まってしまったのは、それがあまりに夏のにおいを纏っていたからかもしれない。春の散った、夏の鮮やかな風だった。
「この村には、古い風が吹くんでしたね」
「うん、他とは違う感じがするよ」
「今の風も、なんだか違う感じがしましたね」
 言えば、ギフトも頷いた。それからどちらからともなく空を見上げて、遠くに見える遺跡に向かって手を伸ばし、ふっと微笑む。
「——新しい風だ」
 それからしばらくして、からんころんというベルの音に交じって、ギフトの母親の声が聞こえてきた。お昼ごはんの準備ができたよ。その声に大きく返事をして駆け出した少年の背を追えば、さあ、と新しい風に声をかけられたような気がして、少し笑った。
「にいちゃん、早く!」
 さあ。
 さあ、また往こう。
 ——まだ、往こう。


20181129 
シリーズ:『マイロウドの手記

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