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 溶けない氷だ。
 辺り一面に広がる光景を見て、ミシオンは単純にそう思った。
「……なんなんだよ、此処は……」
 自分以外には聞こえない程度の声量で呟いて、ミシオンは鎧の上にしんしんと降り注ぐ白い粉を気持ちが悪そうに払う。しかし、粉ではない。頭上から絶え間なく振り続けているのは、柔らかく凍った水蒸気——つまり、氷の結晶なのであった。その別名を、〝雪〟という。
 ミシオンがもつ赤灰の瞳、その視界いっぱいに映り込むのは、白、白、白。ただひたすらに白の色。
 彼は、昼間の陽光が煌めく白に照り返すさま目の前にし、その異様なまでのまばゆさに苦々しく目を細める。晴れと誰もが呼べる天気の中に降りしきる真綿のような雪と、木々ごと呑み込んでは青く凍って輝くつららたち、そして、歩くたびにぎちりと軋むような音を立てる足元の雪の塊——そのどれもがミシオンにとって新鮮で物珍しく、だからこそひどく鬱陶しかった。
 しかし、そんな心持ちでいるのは何も彼だけではない。それもそのはず。ミシオン含む〝世回り〟第十三番小隊の人間たちのほとんどは、生まれてこのかた雪なるものなど見たことはなかったのだから。
「——次回の討伐は、呼白(こはく)渓谷にて行う」
 レースラインがそう発したのは、ほんの二週間前。時期にして、件の半日休暇を経た次の日のことであった。
「呼白渓谷とは此処から北西に三日。そこはなんらかの前時代技術によって一年中絶えることなく雪という天候に晒され、川どころか木々すらも凍てついてそこかしこにつららが生じ、大地などは降る雪が積もりに積もって歩行すら困難な土地と化している。そしてそこに、熊が出る」
「熊?」
「無論、魔獣だ。その魔獣たちを一掃するよう、命令が下った」
 訊けば、近くに町はおろか村里すら存在せず、その降り続ける雪という異常気象の影響でとっくの昔に不毛な土地と化した呼白渓谷周辺は、そもそも人が無防備に寄り付けられるような場所ではないのだと、レースラインは言う。木々がまるごと凍るのだ。まるで虫を内包する琥珀のように。その寒さは尋常ではない。むやみやたらに肌を晒せばたちまち凍傷を引き起こし、吐いた息は空に溶けることなく凍り付いて地面に落ちる。古より雪を呼び続ける大地。人が近付く理由もなければ、そこで生きるすべも皆無に等しかった。
 ならば、そのような土地に潜む魔獣を、何故、わけもなく討伐に向かわねばならないのか? 誰も近付かず、誰も住まないのならば、呼白渓谷の魔獣によって人の生命が脅かされることはない。無理に刺激せず、放置しておくのが最善なのではないか。隊員の一人が、レースラインに向かってそう問う。
「つまり、理由ができたということだ。まずはそれに尽きる」
 浅くかぶりを振り、口元に表情を乗せないまま目を細めたレースラインは、ほとんど興味がなさそうに言葉を続ける。
「宮廷魔術師たちが、この土地における異常気象の原因を解明したいらしくてね。前時代技術によって痩せきったこの場所は、見目こそ美しいが放っておいていい代物ではないと彼らは仰っている。だが——」
 レースラインの唇が、今度は薄く笑みを形づくる。瞳の奥は先ほどよりも冷えた光を浮かべて、彼女は自身の隊員たちの顔を見た。
「そこに魔獣がいる。それだけで十分、我々が討伐に向かう理由になるとは思わないか?」
 ミシオンは彼女のその言葉を聞いたとき——その声色が体内に入ったとき、ぞわりと自分の肌が粟立ったのを未だに憶えている。いつも通りの言葉遣い、いつも通りの声色。けれども一つ、何か一つがいつもとずれていた。それはレースラインの目の奥に浮かぶ光だろうか、その光が発する冷えきった気配だろうか。聞いているこちらはまるで階段を踏み外し、あわやなんとか持ち堪えたというような気分になる。
 隣に立つカイメンの顔を盗み見てみれば、少年は真っ直ぐなまなざしでレースラインの顔を見つめていた。よくもまあ揺らがないことだ。レースラインの言葉に何か思うところがあるような色を浮かべるその目は、あまりにも偽りがないためにどこか刃の鋭ささえ秘めている。ならば、その向こうに立っているジーフリートはどうか。ミシオンは視線を滑らせる。見る前から分かりきっていたことだが、かの老兵はただ目を細めて薄ら笑いを描くばかりで、レースラインの言葉を特段否定も肯定もしないようであった。笑んだ沈黙。それは肯定にかなり近い。
 ——怖くないのか、こいつらは何も?
 ミシオンは鳥肌の立った自分の皮膚を鎮めるために、心の中だけで深く息を吸って、吐いた。いいのか、これで。いいのだろうか、殺すために殺すような隊で在って。ああ、嫌だ。おれは嫌だ。こんなことではみんな死ぬ。誰も彼もがつまらない死に方をする。嫌だ。死にたくない。死ねない。おまえたちはどうだか知らないが、おれは死ねない。まだ。まだ。まだ。抜け出したい。抜け出さなければ。こんな処から、一刻も早く。そのためには、だが、そのためには——
 武勲が要る。
 だから、ああ、戦わねばならない。殺さねば。殺せる。おれは魔獣も、己すら。
「——ゼーローゼ隊長。歩くのも難しいそんな土地で、自分たちは一体どう戦えば?」
 そう指示を乞うた自分の声は、やけに遠くから発されたように思えた。それを聞いたレースラインの音のない瞳が自分の目を捉え、彼女は笑うように首を傾げる。ゆらりと白い髪ばかりが揺れていた。
「もちろん、雪の積もった場所では戦わない。呼白渓谷には一箇所、雪の降らない場所が存在する。上が考えるに、おそらくその地中になんらかの前時代遺物が埋め込まれているのだろう、とのことだ。雪を降らせ続けるための、な。雪の中を自由に歩けない我々は、そこでしかろくに戦うことができないだろう。だから、今回はその雪が降らない一帯のみで魔獣とやり合う」
「そこに魔獣を誘い出すということですか?」
「ああ。単純な話だよ。やつらも我々と同じ環境にしてやればいい」
 今度こそ、彼女は笑った。
「〝そこでしか戦えなくする〟というわけだ」
 ミシオンはレースラインの言葉を思い出し、静かに、しかし深く息を吸った。こんにちの討伐で身に着けている鎧は〝竜核〟を用いて魔術を仕込んだ、内側で常に熱を放つ防寒鎧だったが、それでも如何に辺りが極寒かは風の気配で分かる。
 辺りのにおいを身体に纏える〝自然吸〟——錬金術で生み出されたこの香水は、魔獣から身を隠すのに適している——を隊員全員が身に吹き付け、レースラインの〝借りものの力〟、すなわち静寂を借る力を遣い、隊が発する音をすべて消し去るため、隊員たちは皆自身の手首に腕輪をはめた。それはほとんど目には見えない伸縮性の糸でレースラインの身に着けている腕輪へと繋がっている。これは、彼女が自分に関わっているものの音しか消し去ることができないためであった。
 そうしてどうにか魔獣に勘付かれることなく辿り着いた無雪地帯は、話に聞いていた通り、この地が呼白渓谷と呼ばれる所以が唐突にすべて消えていた。降りしきる雪、積もり積もった白、青く凍り付いた木々、鋭く輝くつららたち、そのすべてがである。
 第十三番小隊の面々は腕輪を外す。そうしてみれば自分たちの足音、呼吸音、存在を表す音すべてが彼らの手元に戻ってきたが、それでも気配は未だ潜め、隊員たちは自らの持ち場についていく。外側、内側、中央と、三重の層になった方円の陣である。そんな中でミシオンは、隊長のレースラインをはじめとしてカイメン、ジーフリートと共に陣の中央へと配置についた。
 ミシオンは心の中だけで目を閉じて耳を澄ませる。風の様子は先ほどと変わらないが、隊員たちの中に流れる空気は、行軍の頃よりも段違いに張り詰めたようだった。そちらへと視線を走らせることはないが、おそらくレースラインの瞳は底冷えし、カイメンは心でその刃を研ぎ澄ませ、ジーフリートは今日も変わらず薄ら笑いを浮かべていることだろう。
 呼吸を一つ。レースラインの借りものの力を借りなくとも静かな処だ、とミシオンは心の隅で淡く思った。雪の白に無数の音が吸い込まれているのだ。今自分たちが立っているこの場所は呼白渓谷で唯一雪が降らないだけでなく、草木すらも生えずに地面だけが在るぽっかりと穴の空いたような空間だった。視線を遠くにやればそこここで凍り付いた青い木々が生い茂り、辺りは積もる雪と降る雪で白んでいる。
 空から雪は降ってこない。また、地面も普段自分たちが立っているのと同じ土ばかりの茶色いそれだ。本来、この場所の風景として正しいのはこちらのはずなのに、あまりにも此処以外が銀世界と化しているからか、この一帯こそが或る種異端で、どこか虚ろな場所にも思えてくるものだった。
 神経は研ぎ澄ませたまま、ミシオンは少しだけ視線を上へと向ける。呼白渓谷の四方には、渓谷全体を見下ろせる峠がぐるりと存在している。呼白渓谷の規模は狭くはないが、しかしそこまで広くもない。この谷に起こる降雪現象がこれ以上の広がりを見せなければ、だが。
 第十三番小隊は此度の討伐で、誘導班と討伐班の二つに分かれて呼白渓谷へと出発した。誘導班は罠師と銃手が各一人ずつ、その組み合わせが四組である。その四組の誘導班がそれぞれ東西南北の峠を目指し、討伐班より早く、夜明け前に拠点を出立した。峠から呼白渓谷へ向けて、罠師が紐状の投石器に括った〝獣香〟を投げ込み、それを炸裂させるために銃手が空中の獣香へとあやまたず弾丸を撃ち込む。
 獣香とは、一般的に魔獣除けとして遣われる香の総称である。今回任務に使用するのは、魔獣の嫌う、朝焼けと共に花を咲かせる品種の精油をたっぷりと調合して作られた強力なものだ。液状にした獣香を大きな球体に詰め込み、銃弾を撃ち込まれて破裂したそれは、空気中への拡散力が非常に高い。
 討伐班の待機する無雪地帯——無雪地帯は呼白渓谷の中心に位置する——を除いた呼白渓谷の四方すべてに獣香を撒布し、錯乱した魔獣どもを無雪地帯へと誘い出すという算段であった。獣香が撒かれず、雪も積もっていないこの場所は、魔獣どもにとっても、また自分たちにとっても唯一の抜け穴なのである。
 しかしながら、峠へ向かった四組の誘導班は、魔獣などに襲われることなく無事に目的地へと辿り着いただろうか。討伐班としてこの無雪地帯で誘導班が獣香をばら撒くのを待っているミシオンはふとそのように思い、未だ動きのない呼白渓谷の様子に微かな不安と焦燥を覚えた。ど、ど、と音が大きくなった鼓動を鎮めるため、集中を深めて辺りの風を聴く。そうしてみれば、先ほどの己の考えが杞憂であったことに気が付き、彼は自身の姿勢を少し低くした。
 ミシオンは息を吸い、腰に差している剣の握りに淡く手をかける。
 それは、風が変わる気配を自分の中のいずこかで感じたためであった。始まる。そう直感すると同時に、呼白渓谷の遠方から、ダン、という爆発音が複数聞こえてきた。次いでバン、という破裂音。投げ込まれた獣香を銃手が撃ったのだ。凪いでいた風が乱れる。十、二十、三十。迫りくる気配に腕が本能で剣を抜こうとしていた。まだ早い。こちらへとやってくる魔獣の影が段々と近付くにつれ、隊の仲間たち——特にレースラインとカイメンが纏う空気が片方は冷たく、もう片方は熱く、しかしそのどちらも同等に鋭くなっていくのがミシオンにはありありと感じられ、彼のうなじはざわりと鳴く。
 ざり、と地面を踏む音。背後のレースラインが一歩前に出たのだ。彼女は自身の軍刀を抜き去りながら、
「——取れ剣!」
 と、目が覚めるような大音声で隊へと号令を発した。
 それと同時にすべての人間が自身の得物を抜き身の状態にする。剣が鞘から抜かれる金属が擦れる音、銃口が雪の積もる方へと向けられる音、盾持隊の盾と突槍隊の槍が地面から持ち上がる音、各々が扱う得物がすべて戦うための体勢へと整えられた。騎士団の中で、剣とはすなわち武器の総称でもある。取れ剣。ミシオンもまた、自身の剣を抜き身にしていた。
「全隊構え! 目標、全方位前方! 前列銃手、盾持共に東は一歩前へ、南は半歩後ろへ! 後列突槍は半歩前、刀剣は半歩後ろ!」
 呼白渓谷の魔獣が他のそれらと比べて殊に怯えるという松明の火が、吹きはじめた風に煽られてごうと唸る。レースラインが視線を動かさないまま、ミシオン含む方陣の中央に位置している三人へと、先ほどとは打って変わって彼らだけに届くような、しかし一抹も揺るぎのない声色で言葉を投げかける。
「逃がすな。一匹たりとも」
 その言葉が聞こえると同時に、ふ、と一瞬、すべての音が消えたように感じた。
 これはミシオンにとって、戦いを始める直前にいつも聞こえる無音だった。レースラインの借りものの力ではない。これはきっと、この地の風から送られた警鐘なのだ。その瞬きの静寂は、さながら魔獣が駆けることによって身を切られた風の悲鳴のようである。段々と濃くなっていく魔獣の気配を追うようにして、雪が踏みしだかれる音が聞こえてきた。来る。ミシオンは据わった目で前方を見やった。
「前列銃手、撃ち方はじめ! 盾持は銃手を防護しろ! 後列! すぐに来るぞ、備えろ!——全隊、攻撃はじめ!」
 レースラインの号令が飛ぶとほぼ同時に、凍てついた木々の間から熊の魔獣が躍り出、前列に構える銃手隊へと襲いかかる。
 レースラインの張り上げた声すら掻き消えそうなほどに激しい銃声が一斉に鳴り響き、耐性のない者ならば耳を塞いで地面に蹲るような音音音がミシオンの鼓膜を荒々しく叩いた。この音に怯んだ者から死んでいくが、そのように柔な人間は少なくとも第十三番小隊には存在しない。ミシオンは鳴り響く銃撃音などは気にも留めず、抜き身の剣を手に地面を蹴った。
 呼白渓谷に棲む熊の魔獣——呼び名は〝氷食爪〟。氷食爪は、元々この地方に生息している日輪熊という種類の熊が、呼白渓谷の途切れることのない異常気象に耐えかねて魔獣化したものであるらしかった。此処には食べるものもなければ、おめおめ冬眠ができるような気候でもない。見知らぬ雪に凍える日輪熊たちに待つのは魔獣化か、死か。
 ミシオンは思う。もちろん自分は死ぬわけにいかないが、しかしそれでも、このような姿になってまで惨めに生を保つくらいならば、自分は魔獣になどならない。眠れないために赤々く充血した瞳、元々の毛並みは見る影もなく青白く染まり——凍てつくといった方が正しいか——牙や爪はそこらに連なるつららの如く、作り物のようにぎらりと煌めいている。日輪熊特有である首元の模様は、天上に輝く太陽のような円形からそこここが欠けた歪な雪の塊のような形へと変わってしまっていた。
 日輪熊は主に山菜や木の実、そして昆虫を食べ、進んで肉を食べることはない。あっても沢のイザリ蟹程度である。それが今ではどうだ。餓えから魔獣と化し、魔獣と化したことによって更に餓えている。氷食爪に堕ちた彼らは、人の肉を喰らうことさえ厭うことはないのだろう。
 そんなもの、最早元の存在とは別の何かだ。
 もうやつらは、自分が何者かさえすら分かってはいない。己が己で在るまま死ねないのは、なんとも不条理な運命ではないだろうか? だからと言って、同情の余地ははないが。魔獣は人を殺す。それに、魔獣と堕ちることを選んだのは、きっとやつら自身だ。世回りの剣には、いつも人の命が懸かっている。それをこんなぬるい情で鈍らせていいはずもなかった。おれは人なのだから。人で在るのだから。
 ミシオンは銃手隊が撃ち洩らした内の一頭に狙いを定め、その氷食爪の鼻を刃で斬り裂く。体躯は通常の熊と同等、動きは凍り付いた毛皮によって鈍足。ただ、そのつらら爪での一撃は、鎧をも容易く貫きそうなほどな鋭さと重みをもっているようだった。一撃でも受ければ致命傷になりかねない。ミシオンは急所を斬られてのけ反った氷食爪の心臓を剣で穿ち、そこから斜めに身体を斬り裂いた。硬い皮膚を破り、確実に息の根を止められるように深く。
 ばらばらと紅水晶が魔獣の傷口から零れ、風に吹かれて雪の積もっている方へと消えていく。けれども、今しがた屠った相手が黄金の砂となっていくのを見届ける暇などあるはずもない。ミシオンは再び地面を蹴る。響き渡って鳴り止まない銃声や爪と刃がぶつかり合う剣戟音、槍の穂先が魔獣の躰を貫く刺殺音、それらに囲まれながら、彼もまた別の氷食爪の元へと斬りかかった。一頭、五頭、十頭、十五頭——
 遺らない屍を重ね、斬っても斬ってもまた湧いて出てくるような氷食爪たちも、段々とその勢いをなくしているようだった。これ以上続けば混戦状態に陥ることが危惧されたが、どうやらその心配もなさそうである。無論、最後の一頭まで気を抜けはしないが。
「——待てジャルキィ、深追いをするな!」
 無雪地帯でもう片手程度にしか存在しない、残りの氷食爪を目で追っていれば、突如としてレースラインのほとんど怒号に近しい警告が場に響き渡って、ミシオンを含む自身の周囲に魔獣がいない者たちは思わずそちらへと注意を向ける。
「一匹でも逃すと後が面倒でしょう! だいじょうぶです。おれは火の力を借りられる!」
「だめだ、此処から出るな! この土地は——」
「隊長! 左です!」
「分かっている!」
 盾持のジャルキィが、無雪地帯の外へと逃げ出した一頭の氷食爪を追って駆け出す。そんな彼に何事かを言いかけながら、レースラインは隊員の一人がそう発したように、左から迫ってくる氷食爪を軍刀の一太刀で真っ二つに切り離してみせた。彼女は舌を打ち、どこか焦ったような色を瞳の奥へと浮かべる。そんなレースラインの様子を嗅ぎ付けたのかもしれない。氷食爪の残党が一頭、また一頭と彼女のことを取り囲んだ。
「ゼーローゼ隊長!」
「私はいい! こんな雑魚ども、すぐに片せる! おまえたちはジャルキィを止めろ!」
 吼えるようにそう発するが早いか、レースラインは迫った魔獣の一頭を早々に斬り捨てていた。彼女の圧倒的な強さに胡座をかいてジャルキィの方を見てみれば、彼は無雪地帯のいちばん外側で深く息を吸っている。それからちらりと燃える松明の方を見やっては少しだけ目を細め、ジャルキィは胸の上辺りで手のひらを上向きに握り締めた。
 彼の足元から風が起こる。熱い風。力を呼んでいるのだ。そう察するや否や、開かれたジャルキィの手のひらの中で、ごう、と音を立てて炎が咲いた。彼はその手で、自信の得物である大盾を撫でる。そうしてみれば、彼の持つ大盾の表面が炎を纏って、朱の色に染まり上がった。
 その炎の熱を受けて、近くの雪がいとも容易く溶けていく。ジャルキィが彼を追う隊員たちに追い付かれるより早く、雪の降る方へと向かって足を動かした。氷食爪は動きが遅い。このように辺りの雪を溶かしながら追いかければ、簡単に追い付くことができるだろう。
 雪解けの水溜まりから、ジャルキィの放つ熱が遠ざかっていく。それと同時に、ぱきり、という硝子が欠けるような、物が軋むような音が響いて、ミシオンははっとしてジャルキィが溶かした雪の方を見た。
「——ジャルキィ!」
 そして思わず、ミシオンはそう発して彼の方へと駆け出す。
「だめだジャルキィ、〝凍る〟ぞ!」
 おそらくもう、彼に言葉は届いていなかった。ジャルキィは周りの雪を溶かして、ほとんど無雪地帯と同じように、遅れを取ることなく眼前の氷食爪に向かって突き進んでいく。そして、彼は気付いていない。自身の背後が——己が溶かした雪の水溜まりが、熱の離れた処から次々に凍り出していることに。
 そうだ、当たり前のことだ! この呼白渓谷の気温がどれほど低いと思っている? 此処は雪が止まず、川も木々も凍り、何もかもが青白く染まる地だ。水など! 一瞬の熱に溶かし出された水など、ほんの一息で凍り付くに決まっている。ジャルキィが振り返ったとき、退いたとき、魔獣から攻撃を背後へ逃れたとき、そこに在るのは柔らかな雪ではない。凍てついた、歩くどころか立つこともままならない氷の道だ。だが、おれは、隊員たちは、ジャルキィはそれに気が付かなかった! それは防寒の鎧のせいでもなく、命を賭して戦い、頭に血が上っていたせいでもない。ただ、己の落ち度だ。どうする? ミシオンは積雪の中へと進んでいってしまったジャルキィを半ば呆然と見やり、立ち止まって剣の柄を握り締めた。
 援護に向かおうにも、目の前に在るのはただ二択。積もり積もった雪の山と、凍てついた氷の道である。それだけで、ミシオンを含めた刀剣隊や突槍隊、また盾持隊の面々は尻込みをした。雪の方では間に合わず、氷の方では戦えない。ミシオンはジーフリートなら或いはと彼の守備する方を見やったが、ジーフリートはジーフリートで他のものより大きな氷食爪と対峙していた。おそらくこの騒動にも気が付いていないのだろう。彼の目元がぎらりと燃えるように笑んでいることだけが分かった。
 ならば銃手隊はと言うと、ジャルキィの追う氷食爪は銃弾を撃ち込むには遠い距離だった。それに、降る雪で視界が悪すぎる。下手をすればジャルキィを貫いてしまいかねなかった。此度の討伐で使用している銃弾は、硬く硬く凍結した氷食爪の皮膚を一発で穿てるような代物である。騎士の鎧など、きっと簡単に貫通する。だから今回、銃手は誤射を防ぐためにも前列での配置なのであった。
 ジャルキィが燃え盛る大盾を手に、追い付いた氷食爪へと対峙する。ジャルキィ自身が後退することなく魔獣の息の根を止められれば。だが、ジャルキィの武器は大盾。攻撃に用いれるのは、内側に取り付けられた篭手とそこから伸びる鋸歯の短槍、そして、腕と平行に取り付けられた剣身——そう、盾持は仲間の守護、そして支援を主としている。つまるところ、決定力に欠けてしまうのだ。
 今、ジャルキィの火纏いの剣身が相手のつらら牙をあわや避けて、氷食爪の胸元を刺した。それを見やって、ミシオンは喉元がひやりとするのを感じる。やはり浅い。浅いのだ。まだ生きている!
 魔獣の中でも、中途半端に傷付けられ、生殺しにされている魔獣が一等恐ろしいものだ。ばきり、と聞きたくなかった音が聞こえてくる。氷食爪が、ジャルキィの刃を折った音。おそらく恐怖に、ジャルキィの炎が震えた。ジャルキィの周りに在った、火の気配を纏った猛るような風が鎮まっていく。
「ジャル——」
 そう発したのは自分だったか、仲間たちの誰かだったか、或いは魔獣を斬り捨て終えたレースラインだったかもしれない。ただ、その言葉を裂くように風が吹き、それに遅れて足音が聞こえてきた。地に足が着いている時間の方が短いような駆け方。ミシオンは今しがた吹き去った、あまりに鋭すぎる一陣の風に、身のどこかを斬られたような錯覚さえ感じて、は、と短く息を吐いた。
 ——今、何が通った?
 やっとのことでその疑問に辿り着くのと同時に、剣が鞘から抜かれる音が聞こえてきた。その音がした方を見やれば、そこに在るのは黒髪の小柄な一人の騎士。纏っているのは、叩かれたばかりの鉄のように熱く、研がれたばかりの刃のように鋭い気配。
 吹き去った風に怯んだミシオンの目に映るのは、しかし紛れもなく、スタラーニイ・カイメン一人の姿だった。
 カイメンは今二振りの剣を抜刀し、全くなんの躊躇いも見せずに氷の道へと飛び込んでいく。左手で持つ剣を凍てついた地面へと突き刺し、駆け抜けた勢いを殺さないまま、彼は氷の上を裂くように滑っていった。
 時を同じくして、氷食爪に剣身を折られたジャルキィが相手から距離を取るために、自身の背後が凍てついていることに気が付かないまま一歩退いた。そこで初めて、ジャルキィは足元の異変に気付き、動揺を深める。その心情と相まって、彼は上手く足元が定められなかった。ざり、ざりり、と両足が存在しない土を求めて氷の上を彷徨う。
 なんとかその場で立ち続けようとジャルキィは奮闘したが、しかし彼はついに凍てついた道に足を取られて転倒する。それをあえて待っていたかのように氷食爪はジャルキィに向け、その鋭く尖ったつらら爪を振り上げた。だが、ジャルキィは盾持の騎士である。自らが呼んだ炎を奮い立たせ、素早く再び盾全体に纏わせると、それで相手の攻撃を真正面から受けた。
「ジャルキィ、そのままだ!」
 がりがりと氷が削れる音と共にカイメンの真っ直ぐな声が響き、ジャルキィはその言葉を信じて氷食爪が叩き込んでくる怒涛の攻撃を受け続けた。おそらく、ジャルキィが火の力の借り手でなければ、彼の盾は氷食爪のもつあの凶刃に耐えられなかっただろう。
 カイメンが突如として、氷に突き刺しては自身の命綱としていた左の剣をぱっと手離す。
 そうして、緩く下り坂だった氷の道の途中で、彼は滑ってきた勢いのまま跳躍し、空中で静かに息を吸ったようだった。思わず、一部始終を見ていた誰も彼もが息を潜める。それに合わせるように、きん、とその場に存在する空気のすべてが研ぎ澄まされた。
 その瞬間、カイメンの持つ長剣の刃が、今再び打ち直したかのように赤く染まり、それから瞬き一つの間にひどく物静かな白光を帯びた。
「ふ――副隊長……」
「ああ、無事か」
 何が起きたか分からなかった。
 カイメンはジャルキィの盾の上に着地しており、先ほどジャルキィの命を奪おうとしていた氷食爪の頭は、地面の上にごとりと落ちている。
 一瞬。
 一瞬だった。
 カイメンの口元から白い息が吐き出され、それはすぐに細やかな結晶と化して地に落ちる。黒い睫毛が上がり、その丸く、しかし鉄と刃の色を秘めた瞳が、こちらの方を静かな温度で見つめていた。それは安堵の表情だったのかもしれないし、或いは疲労を表すものだったのかもしれない。けれども、ミシオンは思わず一歩背後へ退いた。まるで喉元を切り裂かれたような気分だった。心の中で思わず否定する。
 違う。
 違う違う違う。
 おれたちは、おれは、ジャルキィを見捨てたわけじゃあない。何をすればいいか分からなかっただけだ。実際、あの状況では、自分たちには何もできなかった。違う。間違っていない。おれたちは間違っていない。おれは。おまえにしかできなかったことだよ、カイ。今のは、おまえにしかできなかった。そう。そうだ。そうなんだよ――やっぱりおまえは、特別な存在なんだ。
 そう、なんだろう?
 雪は未だ降り続けるが、風は止んだ。
 ――その日の討伐で、戦死者は出なかった。

20190513
シリーズ:『たそがれの國』〈ごしきの金〉

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