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ジャユス

 目次

「おいミュオン、何処へ行くんだ」
 城下町〈シュペルリング〉での昼下がりは賑やかなものだ。
 世回り第十三番小隊隊長、鬼教官ことレースライン・ゼーローゼから午後の半日休暇を命じられ——もとい、頂いた第十三番小隊の皆々は、この短い休日を無駄にはしてなるものかと、それぞれが思い思いの場所へとくり出していた。或いは、次の日に備えて、一日部屋の中で熟睡を極める者もいる。身体の中に残る疲労感を少しずつろ過しては、まるでそれを蒸発させていくかのように。
 そんな銘々の休日を過ごす隊員たちに違わず、スタラーニイ・カイメンは僚友であるシュトルツ・ミシオンに半ば無理やりに連れ出され、ろ過待ちの泥になろうとしていたところを、こうして城下町の大通りを何処に向かっているのかも分からず、ミシオンの隣に付いて練り歩く羽目になっていた。
「ええ? 特に決めてないけど。目的がないとだめか?」
「いや……、でもミュオン。おまえ、休みの日はいつも出歩いているみたいだが……疲れはしないのか?」
「ずうっと寝てる方が疲れると俺は思うがね」
 前を向いて歩を進めるミシオンの視線ばかりが、どことなくからかうようにちらりとカイメンの方を向いた。
「……私だっていつも寝ているわけじゃあないぞ」
「まっ、そうだな。こうして俺に付き合ったりとか」
「そういう日もあるが、部屋の中で剣を研いで過ごすときもあるんだ。落ち着くから」
「おいおい、それは十五の少年が休みにやることか……?」
 呆れたようにかぶりを振って、ミシオンは息を吐いた。大通りに点在する出店や花車、そいったものに集まる人たちや呼び込みを慣れたように避けて歩くミシオンが、くありと欠伸を洩らしている。そんな彼につられて、カイメンも欠伸を噛み殺した。
 空にはいつも通り雲が浮かんでいるが、それも太陽や青空をすべて覆い隠すほど分厚くなく、水晶の絹のような白色は、うっすらと青天井の色を透かしてさえもいる。休日の午後に相応しい、暖かな陽気であった。
「あ」
 ふと、ミシオンが聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう呟いた。道の途中で唐突に立ち止まったミシオンに、カイメンも似たような声を上げながら立ち止まる。ミシオンの視線の先には、小さな出店——カステイラ焼きの店が、その柔らかく甘い香りで人々を引き寄せている姿が在った。
「カステイラか。あれ美味いんだよな」
「そうだな。まぁ……少し高級品だとは思うが」
「って言っても端っこの方は安いだろ。俺、ちょっと買ってくるわ」
 言って、ミシオンはその金色の髪を揺らし、カステイラ焼き店に集まる人たちの中へと消えていく。カイメンはそんなミシオンの背を見やりながら、行き交う人々の邪魔にならなさそうな道の端に寄って、辺りの出店をぼうっと眺めた。
 そうしていると、カイメンの瞳に或る一つの店が他のものよりも輝きを放って映り込む。少年はちらとカステイラ店を見やり、人だかりの中から未だミシオンが戻る様子がないことを確認すると、硬貨袋を手首に括って歩き出した。
 ややあって、カイメンはほんの少し重さの減った硬貨袋と、まだ温かみの残る紙袋を片手に、カステイラ店の方へと戻る。昼食は修練の後すぐに摂ったものだが、しかしながらこの大通りに漂う様々な食べ物のにおい、出店に集まる人々の活気、そして穏やかな昼間の陽気もあって、自分の胃は小腹が空いたと異議申し立てをくり返しはじめたのだ。
 そのためである、焼きたてと謳われたパンを二人分買ってしまったのは。
 カステイラ店の近く、その雑踏の中で思ったよりもすぐにミシオンの姿を見付ける。向こうはまだこちらに気付いていないようだった。
 そう、たくさんの人が行き来する通りの中でも、彼は存外目立つのだ。柔らかい金の髪に、少しばかり赤く煤けたような灰の瞳。彼のもつそれらはそこまで珍しいと言える色ではなかったが、しかしその優しげに整った顔立ちと、いつも身だしなみに気を遣っている小綺麗さは、彼の存在感を他よりも頭一つ分秀でるものにするには十分だった。実際、彼はこうして立っているだけでも、よく女性に声をかけられる。これは、自分には到底起こりえないことだった。
 カイメンは更に歩を進め、もうあと少しでミシオンに声が届くという処まで近付く。それとほとんど同時にミシオンは少年の存在に気が付き、また、カイメンの持っている紙袋を認めてきらりとその瞳を輝かせた。そんな彼の様子を視界に映したカイメンもまた、声には出さずに小さく笑った。
「向かいのパン屋か。何買ったんだ?」
「エピ」
「ベーコンの?」
「もちろん」
 カイメンが少し目を細めてそう言えば、ミシオンが嬉しそうにはは、と声を上げて笑った。カイメンにとっても、またミシオンにとっても、麦の穂の形をした堅焼きのパン——ベーコン入りのものは特に——は大の好物である。多少行儀は悪いが、歩きながら手軽に千切って食べられる点も高評価の理由だった。人混みの中での食べ歩きも、少々栄養過多な間食も、あれもこれもすべて休日のせいなのだから致し方ない。ミシオンがにやりとしながら背後を軽く親指で示した。
「よし。じゃ、どっか座るか」
「そうだな……もう少し拓けた処に行こう」
「嘴通りなら多少は空いてるんじゃないか? こうなると何か飲みもんも欲しいけどな、冷たいやつ」
「……高いぞ」
「だなぁ……」
 呟いて、ミシオンは辺りをきょろりと見回す。飲料専門の出店はそこここに並んでいるようだったが、どれも総じてカイメンの持っているベーコン・エピと同じくらいの値段がした。
 冷えた飲み物や食べ物というのは、作るのが難しいというよりは製造機材を用意するのが難しいのだ。冷たい川の上流水を引いて飲食物を冷やしていた頃に比べれば、近年錬金術によって生み出された〝溶けない氷〟を遣っての冷却方法は合理的で、かつてよりは安価だったが、溶けない氷は未だ改良途中もいいところ——要するに加減が難しく、直に手を触れようものなら凍傷を容易に引き起こす代物である。溶けない氷の温度を調整する専用の機材も既に考案され、世に出回ってはいるが、案の定と言うか一般市民が簡単に手を出せるような金額ではない上に、その使用方法もそれなりに複雑だった。
 つまるところ、よほど余裕のある家か、或いはそれがなければ始まらない飲食店などにしか、溶けない氷を使用しての飲料や料理は作り得ないのである。飲食店で出されるお冷だって、ほとんどの店で料理を注文した者にしか出てこない。冷えた飲み物は高価なのだ。身内に貴族か、飲食店の主か、錬金術師がいない限りは。そして短い休日を満喫せんとしているこの若い騎士たちには、そのどれかに当てはまる身内はいなかった。
「……ま、いいか」
「うん?」
 不意にミシオンが、カイメンに聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう呟く。その言葉を拾ったカイメンが隣のミシオンを見上げれば、彼は顔ばかりを少年の方へと向けて、なんとはなしと言うようにさらりと問いかけた。
「カイ、生姜って好きか?」
「え? あ、ああ……」
「了解。ちょっと待ってろな」
 それだけ言って、ミシオンはするりと人混みの中へと紛れていった。そんな彼が消えていった方を眺めながら、カイメンは今しがたのミシオンの行動が掴みきれなくて、ぼんやりと立ち尽くすばかり。雑踏の中から存外早く戻ってきた金色の頭を見るまで、少年は流れるように動き続ける人々の波を見つめていた。
「ん」
 行きと同じように軽い身のこなしでカイメンの隣まで戻ってきたミシオンが、こがね色の飲み物が入った透明樹脂の杯を、さも当然のように少年へと差し出した。麦酒のようにも見えるその飲み物の中では、無数の細かな泡が浮かんでは消えている。差し出されたその杯をほとんど反射的に受け取ったカイメンは、さっそく自分の分の飲み物に口を付けているミシオンの方を見て少し慌てた。
「お——お金、払わないとな。幾らだ?」
「いいよ。俺が勝手に買ってきたんだし」
「いや、でも……」
「それに、年下に払わせるのなんて格好悪いだろ?」
 そう軽く笑うと、ミシオンはくるりと踵を返し、嘴通りに向かって歩きはじめてしまった。そんな彼の背と手元の飲み物を交互に見やって、根負けしたようにカイメンはミシオンの後を追った。
「すまない、ミュオン。ありがとう」
「いいっての。ま、人生の先輩からの奢りってことで」
「はは、有り難く受け取っておく。仕事では私の方が上司だけどな」
 カイメンが冗談めかしてそう発すれば、そこから一瞬だけ間が空いて、少年の前方を歩くミシオンは振り返らずに声を上げて笑った。それもそうだ、だったら今度は何か奢ってくれよ、などと軽く返しながら。
 しかし、ミシオンが生み出したその空白は、端から見ればどことなく奇妙な間の空き方だったかもしれない。けれども、先ほどミシオンから受け取った飲み物に、好奇心から少しだけ口を付けていたカイメンは、そんな彼の様子には微塵も気付くことができなかった。それに、後ろからではその表情を見ることすら叶わない。
「なあ、ミュオン、これ美味しいな」
「うん? 飲んだことなかったのか、ジンジャー・ビア」
「ああ、初めて飲んだ。ミュオンはよく飲むのか?」
「酒代わりにな。ほら……俺、あんまり酒強くないだろ」
 少し歩を速めて、カイメンはミシオンの隣へと並んだ。カステイラの入った手提げ箱を持つ方の手をゆるりと振ったミシオンは、困ったように眉尻を下げて笑う。確かに、ミシオンが酒を浴びるように飲むさまを、カイメンは彼と出会ってから見たことはない。ジーフリートのそんな姿なら、両手の指を使っても足りないほどに見てきたものだったが。
「——ミュオン、前、危ないぞ」
「ん?」
 つと、カイメンがそう発したので、ミシオンは相棒の方へと向けていた顔を前方へと戻す。そうして見れば、まだ遠くの方からだが行き交う人々の間を縫って、小さな子どもが全力疾走で近付いてくるのが見えた。そのもう少し後ろで叫ぶように謝りながら、何者かの名前らしき言葉を発して走ってきているのは、おそらく子どもの母親だろう。
「え」
「おお」
 ざ、と音を立てて道が拓ける。人々が駆ける子どもの勢いに驚いて、ほとんど条件反射で身を引いたのだった。そのおかげで、物凄い勢いで駆けてくるもの、そして突如距離を詰められることにこの上なく耐性のある世回りの騎士二人組だけが、この場で唯一、近付いてくる小さな少年を真っ正面から見据えるかたちとなった。
 カイメンは自分の抱えるパンの紙袋と、手元のジンジャー・ビアが入った杯へと視線を落とす。こう両手が塞がっていては、前方から怒濤の勢いで迫り来る子どもを受け止めるのは難しい。特に、自分の体格では。この小柄な少年騎士は、戦闘面で攻撃を避けることに関しては人一倍得意だったが、しかしながら攻撃を受け止めるということに関しては人一倍不得手と言っても過言ではなかった。
 少しだけ焦ったようにカイメンがミシオンの方を見れば、彼は未だ涼しい顔のまま、駆けてくる子どもの方を眺めやりながら片手のジンジャー・ビアに口を付けていた。それからミシオンは喉を鳴らしてそのこがね色を一気に飲み干してしまうと、杯を口にくわえたまま、前方を見つめてすっと静かに腰を落とす。
「——よっと」
 そうして空いた片腕で、走ってきた子どもをひょいと抱き上げてしまった。
「こらこら、暴れるなって。危ないだろ」
 口元から空になった杯を離して、手提げ箱を持っている方の手にそれを移しながら、ミシオンはばたばたと暴れる子どもを宥める。眉をへの字にして、しかし喉の奥で笑うようにしながらそうする彼は、何故だろう、どこか懐かしそうな表情も浮かべているように見えた。
「ミュオ……」
「ああ! す——すみません!」
 そうしてカイメンが、相棒のその鮮やかな手腕に何事か発しようとすると同時に、必死の表情を浮かべた女性が少し遅れて子どもの後ろから駆けてきて、ミシオンへと向かってがばりと頭を下げた。
「——いえ、とんでも御座いません」
 ふわりと風が吹いて、立ち上がったミシオンの金髪を柔く揺らす。
 優しげな花の香りが漂うと共に、彼の笑みがそれと同じくらい優しい色に染まった。物も言わずに隣でミシオンを見上げているカイメンは、友人の〝ミュオン〟が風を纏って、騎士のシュトルツ・ミシオンになっていくさまをただじっと視界に映していた。
「このくらいですと、走り回りたい盛りですよね。ただ、この辺りでは人や物が多いので、心から駆けるには少々物足りないやもしれません。そうですね……風切公園なら遊具も在りますし、人工芝なので怪我も少なく済むかと」
 ミシオンに抱えられていつの間にか大人しくなった子どもを見やりながら、カイメンは彼が丸い声色でにこやかに母親の女性と言葉を交わすのを、半ばぼうっと聞いていた。道をあけていた人々もミシオンの対応を見やって、もう解決したも同然と元の騒がしさの中へと戻っていく。ミシオンの片腕に収まっている小さな少年は、彼の金色の巻き毛を触って遊んでいた。
「——左様で御座いましたか。でしたら……」
 ミシオンの声が耳を通り抜けていく。カイメンはふと、先日の夜、食堂で聞いたジーフリートの言葉を想い出していた。
 ——〝カイメン殿、ミシオン殿は少し焦っておられますぞ〟……
 カイメンは、心の中で少し笑った。そうして、内側に響いた自分の声が存外冷えた温度を纏っていたことに多少驚く。おそらくこの笑いは、自嘲にも等しいものだった。
「ほんとうですか⁉ けれど、流石にそこまでして頂くわけには……」
「いえ、私たちもちょうど暇を持て余していたところですので。だろう、カイメン?」
「……ああ……」
「もちろん、ご迷惑でなければ、というお話なのですが……」
「迷惑なんてそんな。ほんとうに、有り難い限りです」
 ——何を、焦る必要があるのだろうか? 生返事をしながら、カイメンはミシオンに向かって、届かない問いを心の中だけで投げかけた。
 青年らしくすらりと高い背、細身だが筋肉質の体つきは、戦場だけではなく、猛進してくる子どもを受け止めるときにもその力を遺憾なく発揮できる。片腕で易々と、子どもの身体を持ち上げられるほどには。小さな少年を抱きかかえて、未だ母親と談笑を続けるミシオンの腕は一度たりとも震えはしない。身体のどこも、ぐらつきはしない。
 彼が今行うすべての動作が、さながら〝これくらい、簡単なことだ〟と周りに告げているようで、こめかみの辺りがちりちりと焦げていきそうだった。実際、容易なのだろう。騎士の男には、容易なことなのだろう。自分以外の、騎士の男には! だが、自分は。自分には、ミシオンと同じ年齢になったとき、今と同じことが容易にこなせるかと問われれば、それをもちろんと断言することはできない。理由は分かりきっている。分かりきっているが、どうすることもできない。分かりきっているからこそ、どうすることもできないのだ。
「……おい、カイ。何ぼうっとしてるんだよ? さっさと行くぞ」
 ふと、こちらに届くぎりぎりの小声でミシオンにそう呼びかけられ、カイメンははっとして前を向く。先ほどまで彼が視線を向けていた場所にはすでにミシオンの姿はなく、青年騎士は未だ子どもを抱えたまま、その母親についていくように歩き出していた。話をほとんど聞いていなかったために、何がどうなっているのかがカイメンにはよく分からず、その場で困惑したように立ち尽くしていれば、歩を進めていたミシオンが再び振り返って、向こうも向こうで困ったように顎をしゃくった。
「……今、行く」
 声が届いたかは分からないが、口を動かしてそう伝えれば、ミシオンは緩く頷いてからまた前を向いた。
 カイメンは、手元のジンジャー・ビアを見やる。いつの間に強く握ってしまっていたのか、柔らかい素材である透明樹脂の杯はその形が歪み、こがね色の液体が幾らか手の上にこぼれてしまっていた。それを視界に映した少年は、眉根を寄せて淡く息を吐く。そうして杯の中に残っているこがね色を一気にすべて飲み干してしまうと、小さくかぶりを振り、ミシオンの背を追うために石畳を蹴った。
 ——何を、焦る必要があるのだろうか?
 優しくて強い、ちゃんと男である彼に。男で生まれてこられた彼に。
 飲み干したジンジャー・ビアはもう、少しぬるくなっていた。


20190421 
シリーズ:『たそがれの國』〈ごしきの金〉

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