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グロリア

 目次

 青白い月が照っている。
 シュトルツ・ミシオンは冷えようとする夜に、しかし汗ばんだ身体を以って、ただ一心に的へ向かって木剣を振るっていた。
 的は、前時代〝かわたれの時代〟、その叡智の結晶と名高い機械人形。しかしミシオンが相手にしているのは、前時代遺跡から出土したものを、宮廷術師たちと工房都市の技師たちが改良してつくり上げた、現代の機械人形である。
 前時代の機械人形に比べて完成度は未だ劣るが、けれども彼らとて騎士たちの練習相手くらいにはなれる。と、いうより、そのために生み出されたのだ。一定の範囲から出はしないが、彼らは魔獣の動きを模してこちらに攻撃を仕掛けてくる。
 その姿は狼と豹を足して二で割ったようで、どちらかと言えば顔が狼、体躯が豹といった様子だった。攻撃の型は大きく分けて二つ。肉食獣が魔獣化したときの動きを模したそれか、或いは草食獣のそれか、である。そして今、ミシオンが戦っているのは肉食獣の方だった。
 ミシオンの所属する〝世回り〟が実戦でやり合う相手のほとんどは、獣の魔獣である。人相手に打ち合うよりも、こうして機械人形の魔獣を相手に模擬戦をした方が、騎士たちにとっては良い練習になるかもしれない。
 ただ、機械人形というものは、なるほど前時代の叡智の結晶と呼ばれるだけあって、つくり上げるために必要な素材も時間も多く——たとえば鍛冶師ならば、その時間と労力と材料で、新たな剣を二百は鍛えられる——機械人形を動かす心臓となる〝竜核〟は、前時代遺跡からしか出土しない上に、機械人形を動かすとなればそれなりに大きさのあるものでなくてはいけなかった。
 そのため、騎士団全体で数百在る小隊に対して、この模擬魔獣の機械人形は、修練場の裏手にたった三十という数しかない。修練時間中の使用は予約制で、大抵はその隊の長が使用の一月前ほどに予約を入れるものだが、今のように修練時間外ならば予約は必要なかった。
 時刻は懐中時計の針が九を過ぎた頃である。時計を確認したのは、もう大分前のことだったが。ミシオンは、自分だけが機械の魔獣と打ち合う中で、先ほど食堂で聞いた老兵の言葉を思い出す。
 ——〝副隊殿なら、まだ自主練中でしょう〟……
 ミシオンの緩やかな巻き毛がつむじ風に巻き上げられ、ぶわりと一瞬だけ月を目指した。
 彼の振りかざした木剣の鋭い一閃は、しかし機械人形にかけられた魔術の薄い膜のせいで、きんという音を立てて弾かれるばかり。革手袋越しに、びり、と微かな衝撃が伝わった。ミシオンは心の中で舌を打つ。
(……カイの〝力〟が有れば、こいつに傷一つくらいは付けられるかな)
 足裏に力を込めて、少しばかり体勢を低くする。機械人形の足下からつむじ風が起こったが、しかしそれには人形を浮かび上がらせたり、地に倒したりするほどの力はなかった。ミシオンは舌打ちの代わりに、今度は胸の内だけで小さく笑った。
(ずるいよな、あいつの力……)
 刃の力。まるで剣を持つために——騎士となるために差し出されているような力だ。
 そのような力を世界から借りられるにもかかわらず、カイメンときたらこれ以上の昇格は特に望んでいないなどとのたまっている。自分は王室騎士隊を目指す上の過程としてこの〝世回り〟に所属しているが、カイメンははじめから己で望んで世回りに入隊した。
 いいや、彼が望んだのは世回りという部隊ではなく、〝レースライン・ゼーローゼのいる、世回り第十三番小隊〟か。カイメンが隊長の熱心な支持者というのは、彼のことを見ていれば誰にでも分かることだ。それはべつに構わない。自分だって、隊長のことは決して嫌いじゃあなかった。そう、構わないが……
 ミシオンは唇を噛んで、思い切り剣を振りかざした。
 ——ただ、気に入らない!
 自分より強い力を借り、それを自分より巧く操り、余すことなく遣い、そうして自分の目の前で自分より多くの魔獣を討伐し、自分の目の前で持ち前の正義感を以っては多くの人々を救い、自分の目の前で副隊長の座を掻っ攫っていた彼が、未だ自分の目の前で燻っているのが気に入らないのだ!
(……もっと……)
 もっと高く往けばいい!
 どうしておまえはこんな処にいるんだ。十五歳、入隊してたった三年目で簡単に副隊長の座に就いたおまえなら、このまま騎士長の座を目指したっていいだろう。どれだけ焦がれたとて、自分には得られない力を借ることができるのだ。どうせなら、焦がれる気も起きないほど高く、届かない処まで上ってくれないか。
 機械魔獣の行動範囲内である、決して大きいとは言えない円の中で、ミシオンは身を低くして烈火の如く襲い来る尖った歯の猛攻を躱す。こちらの肩に噛み付こうとしたそれを、彼は木剣で受けた。衝撃を緩和するため、剣の表面に纏わせた風が、自身の髪をふわりと揺らす。
 ——三等だ。
 そう、三等なのだ。単純に魔獣の討伐数だけで言えば、十三番小隊の中で自分は三等。一等は言わずもがなの隊長レースライン、そしてその後ろにぴったり続くのがわが相棒カイメン、それから少し差があって、自分だ。この間までは四等だったが、先月はジーフリートを抜いた。
 騎士の評価は魔獣の討伐数だけではない。それは人命救助と魔獣討伐を主にする世回り隊でも同じことだ。分かっている。分かってはいるが、それでも、隊長はともかく少なくともカイメンの討伐数は超えなければ、自分の元に此処より上の部隊からの引き抜き話は舞い込んでこないのではないか。そういった話を振られるのは、今のところカイメンばかりである。彼はすべて断っているようだったが。
 ミシオンは右手に有る木剣で機械人形の首元を一閃した。一定以上の攻撃を与えることができれば、こちらの勝利の証として機械人形の活動が停止する。円から出ると待機状態となり、また円の中に入れば再起動となるため、この鍛錬は一人であってもくり返せるのが良い点だった。ただ、そう易くはない。機械魔獣は素早く身を引いてミシオンの一閃を躱した。
 額に汗が流れ、目に入りかける。戦場ならば命取りだ。だが、それを吹き飛ばす風を呼べる余裕もない。
 ——自分に時間がないわけではなかった。
 しかし、故郷はどうだ。そこに住む、たった一人の母はどうだ。
 此処は〝たそがれの國〟、〈ソリスオルトス〉。今は〝たそがれの時代〟、人が滅びを眼前に控える時代である。故郷は未だ森も川も生き生きとしているが、この地を蝕む黄昏は、近年になって進行が加速しているという。それにあれは、予兆もなく唐突に地を侵すこともあるのだ。それは、魔獣の大群というかたちを取って。
 こんな時代だ、すべてに備えておかなければ。自分の故郷は緑豊かな土地だが、辺境である。水涸れ、不作ならばまだ故郷を捨てるという選択ができるだろう。だが、魔獣は。あれらに襲われたら、今の村ではひとたまりもない上に、救援も物資も届くのにひどく時間がかかる。
 だから、まず、何も起こらないよう、今出来うる中の最善を尽くすしかない。
 今回の仕送りでは、村には魔獣除けの獣香を三つ送った。中くらいの設置型で、届いたであろう時期を考えると、あと二月は持つはずである。
 その前は発火玉と発煙筒を各家庭に一つずつ分。発火玉は、黒みがかった硝子に見える球体のてっぺんに在る突起を折り、何かにぶつけると瞬時に軽爆発を起こすため、こちらは万が一、魔獣と出くわしたときに使える。発煙筒はその名の通り、大量の煙を出す小型の筒である。使用方法は筒を半分に折るだけなので、簡単に自身の危険を周囲に知らせることができる代物だ。枝をかき集めて火を起こすのは、そろそろ時代遅れだろう。
 ミシオンは故郷を想い、心の中だけで笑った。どれもこれも間違って使って、辺り一面を焼け野原にするやつがいなければいいが。あの村の中で、そんなへまをしでかしそうなやつは一人しか思い浮かばない。おれだ。
 息を短く吸い、短く吐く。そう——
 時間がないのではない。
 時間があるのか、分からないのだ。
 だから焦る。故郷まで、母の元まで、黄昏はやってくるだろうか。やってくるのだとしたら、それはいつだろうか。十年後か、五年後か、一年後か、半年後か、一月後か、半月か、明日か、今日か。どれくらい持つのだろうか。自分はどれだけ、その時間を長くできる?
 鋭く引かれたミシオンの一閃が、機械人形の片目を捉えた。ぎっ、と軋むような鳴き声を上げて、機械魔獣の動きが鈍くなる。ミシオンはそこを突いて、さながら叩き付けるように剣を振るった。
 母と故郷を守るためには、先立つものが必要なのだ。金。世回りの騎士へ与えられる給金はそれほど多いとは言えないかもしれないが、しかし王室騎士隊の〝鷹の羽〟ならば、また話は別。
 鷹の羽は、騎士団の頂に位置する部隊だ。彼らほどの騎士となれば、たとえその隊のいちばん下っ端だとしても、給金は少なくとも今の五倍は跳ね上がる。それがどのようなことかは皆分かっているから、一部例外を除いて騎士の誰もが王室騎士隊を目指すのだろう。騎士団は、残酷なほど実力主義である。
 自身の熱に当てられて、毛先がちりちり焦げるようだ。
 そんなミシオンが機械人形に向けた少々力の込めすぎな一振りは、しかし狼のものか豹のものか、機械魔獣のもつ尻尾によって鋭く弾かれる。木剣が短い音を立てて宙を舞った。
 つい上へ向けたくなる視線と腕を理性で抑える。目も胴体も甘くなっては敵わない。ミシオンは脇を締め、視線は機械人形を向けたまま、低い体勢で剣が落ちてくるのを待った。
 けれども、剣が降ってこない。
 地面に落ちた音もしなかったのに、落ちてくる途中でぷつりとその気配が途絶えた。まさか途中ですっかり消えてしまったわけではないだろう。まるで誰かが自分より速く、音も立てずに剣を受け止めたかのようだ。
 ——誰か?
「……機械人形は、おまえの憂さ晴らしの道具ではないのだけれどね」
 ミシオンがはっとして振り返れば、喉元に木剣の切っ先が迫る。真っ白な髪が夜に眩しい。彼は自分の予想通りの人物が目の前にいることに口元をひくつかせ、それから両手を上げては肩をすくめた。
「た、隊長……」
「おまえはいつも背後が甘いな。魔獣は一対一では戦ってくれないぞ」
「そんなの、隊長に対してはみんなそうですよ……そうやってこっそり忍び寄るの、どうにかなりませんかね」
「悪いが癖でね」
 そう意地悪く笑むレースラインが、木剣をくるりと回して握りの方をミシオンに向けた。
 ミシオンはそんな彼女にやれやれとかぶりを振ると、自身を囲っていた円の中からひょいと出る。
 そうしてみれば、機械人形が水浸しになった犬のように身を震わせ、それから伏せの体勢を取ってはその動きを止めた。それと同時に、円の中に入ると自動的に明かりが消えるようになっている水晶燈の灯が、ぱ、と点いた。明かりが落ちるのは自然光の中で戦う練習のためである。
 ミシオンはレースラインの方を見やりながら、自身の首筋を痒くもないのに掻いた。
「——隊長、今何時です?」
「日付はとうに変わっているよ」
「訊かなきゃよかったですかね。それを聞いた途端どっと疲れが出てきました」
 長い溜め息を吐くミシオンに、レースラインは仕方なさげに目を細めると、またその唇に皮肉っぽい弧を描かせた。
「おまえが疲れていようがいなかろうが、朝の鍛錬はいつも通りだ」
「……隊長は贔屓をするたちじゃあなかったでしたっけ?」
「そうだね。だからこそだよ」
「愛が重いなあ……」
 ミシオンの汗が滲んだ肌を、夜風がさらりと撫でていく。自身が呼んだ風ではない。風か。彼はなんとなく王城の方を見上げた。
「……今日は午後休にしようと考えているのだが」
「えっ?」
 ミシオンは瞬いてレースラインの方を見る。
「……え、ほんとうにですか?」
「私とて、そんなつまらない嘘は吐かないよ。世回り長から休みをもぎ取ってきた」
「でも、急にどうして?」
「自分の顔を見たことがあるか、ミシオン?」
 ミシオンは片手でくるくると木剣を回しながら、おどけるようにゆっくりとした速度でその辺りを歩いた。
「それについては中々の美形だと自負しておりますが、隊長」
「隈だらけの顔が美しいと呼べるのならな」
「……胴乱塗ってるんですけど、よく気付けますね」
「もしかすると、きみは演習終わりに顔を洗ったんじゃあないかな、ミシオンくん? この自主練でさぞかし汗もかいたろう。……大方落ちているぞ」
 ミシオンははたとして、革手袋を外して自身の顔を触る。触ったところで自分の顔が見えるわけではないが、胴乱——油性の練り白粉が溶けて、指先にべたりと言うべきかぬるりと言うべきか、決して好くはない感触が伝わってきた。
 なるほど、これは落ちてるな。いや、カイに見られてないだけまだましか。
「私はご存じの通り贔屓をするたちだからね」
「隊員全員を贔屓してちゃあ、もう贔屓って言わないですよ」
 レースラインは、ふ、と小さく息を洩らす。水晶燈が灯っても未だ薄暗く、彼女の白ばかりが映えてよくは見えないが、おそらく笑ったのだろうとミシオンには思えた。
「明日は寝ていろ——と言いたいところだが、おまえはカイメンと遊びにくり出すなどと言い出しそうだな」
「そういう盛りなもので。カイの方が寝ると言って聞かなそうですね。まあ、無理やりにでも連れ出しますよ」
「それが済んだら休めよ。カイメンもおまえも、今日の午後は自主練をするな。これは隊長命令と受け取ってもらって構わない」
 レースラインの言葉を微笑んで聞きながら、ミシオンの右手が焦りにぴくりと揺れた。彼は木剣を左手に持ち替えて、汗の滲んだ右の手のひらを服の裾で拭う。今日の午後がだめでも、明日へ日付が変わった直後なら——
「……明日の朝練の時間まで、自主練は禁止だ。分かったな」
 まるで心を読まれたかのようにそう言い放たれて、ミシオンは驚きに目を見開いた後、隠すこともできずに思わず、げ、という表情をした。
「……ばれてました?」
「ミシオン。自覚はないのかもしれないが、おまえね、けっこう顔に出ているよ」
「ええ?……カイほどじゃあないでしょう?」
「……いや、……そうでもないかな」
「ええ……」
 溜め息にも聞こえる吐息を洩らして、ミシオンはどさりと石膏像の土台へ腰を下ろす。機械人形たちが規則正しく配置されている、この修練場の裏手の中心にて、ミシオンが腰掛けたその石膏像は月光に淡く照らされていた。
 ちら、とミシオンは背後を見やる。
 石膏像の大きさは、腰を掛けたミシオンよりも少しばかり大きい程度だ。座った背に当たるのは、石膏像の中で騎士の兜を象ったもので、その背後には、祈るように兜へ額を当てている犬——とは呼びがたい、狼と豹を足して二で割ったような生き物が、同じく石膏で象られている。
 辺りで待機している機械人形の魔獣たちに肉付けをしたら、ちょうどこのような風になるのだろう。ミシオンはそんな石膏像に、何か思うところがあるように目を細める。
 レースラインはそんな部下の表情を見逃さず、しかし彼の心を汲み取ることまではできずに、正面に顔を戻したミシオンの方をただ見ていた。
 風が吹く。微かに甘い香りが漂った。おそらくは花の香。ミシオンの近くから吹く風は時折この香りを連れてくるが、レースラインにとっても、またそれ以外にとっても、それは彼から以外は嗅ぐことのない香りだった。
「……〝トワイト〟って言うんです」
「トワイト?」
 レースラインの視線が、風の吹いた方を追っていた。それを目に映したミシオンがふとそう発し、レースラインはその声の柔らかさについおうむ返しをする。
「故郷に咲く花なんですよ。白い小振りの花で……森の奥に在る、小さな湖の周りに群生してて」
「聞いたことがないな……この辺りでも咲くのか?」
「いえ。故郷の近くでしか咲かないみたいです。詰め所に置いてある図鑑にも、小さくですけど一応載ってますよ。トワイトの花。別名には金色花、黄昏謳花などがある……」
「黄昏謳花? 随分と殊勝な名前だね」
「ああ、この花、面白いところがあって——」
 発したところから発した数だけ故郷の味が濃くなっていくようだ。時間はどれだけあるだろう。
 唐突に言葉を切ったために、怪訝な表情をこちらへ向けているレースラインを尻目にして、ミシオンは再び背後の石膏像をちらりと見やった。
(……いつやってくるか分からないんだ、黄昏は。お前だって、そうだったんだろ……)
 ——〈ソリスオルトス〉初代騎士長フリードリヒは、自身の相棒として、常に一匹の犬をそばに連れていたと云う。
 その犬の名前はシヴァル。燃えるような金色の瞳に、赤みがかった輝くような黒の毛並みをもつ、細身だが筋肉質の大型犬だったと史実は語っている。
 余談として、現騎士長のトゥールムは世界の各地でご婦人方から絶大な人気を誇るが、それは金茶の瞳に艶やかな黒髪をもつ彼の見目が、気高く優美で、時に獣らしく荒々しかった忠犬シヴァルを彷彿とさせるからだろう。
 そう、忠犬である。シヴァルは聡明で忠誠心が強く、けれどもフリードリヒの横にぴったりと張り付くわけではなく、有事のときには瞬時に行動できるよう、適切な距離を保って彼のそばにいた。
 しかし彼は、その名を持ち前の怜悧さでなく、悲劇的な最期を遂げた者として轟かせることになる。
 それまでフリードリヒとシヴァルは、幾多の魔獣を討ち、その亡骸を黄昏へと還してきた。
 フリードリヒの剣の一閃はあやまたず相手の骨を断ち、シヴァルの爪と牙は相手の息の根ごと躰を穿つ。阿吽の呼吸で黄昏の大地を駆け抜け、魔獣の群れをかいくぐる間に、それらをすべて紅水晶の散る黄金の砂々に変えていった彼らに敵と呼べる敵はなく、まさに天下無双と言うに相応しかった。
 だが、或る日。
 或る日、いつものように部隊員たちを率いて、シヴァルと共に野山へと魔獣討伐に向かったフリードリヒは、やはりそこで普段通りにシヴァルと息の合った連携を以って魔獣を一匹、二匹、十匹、五十匹、討ち取り続けた。
 しかし、彼は五十一匹目を討ち取ったとき、微妙にシヴァルの呼吸が乱れていることを感じ取る。体調不良か。疲れが出たのだろうか。シヴァルは老犬と呼ぶにはまだ早いが、しかし決して若いというわけでもない。
 心の中で首を捻りながら、彼は更に魔獣を討つ。
 視界の端で魔獣を沈めるシヴァルの姿が見えたが、その身のこなしは平常通り敏捷で、どうも乱れているのは呼吸ばかりのようだった。まさか、相手が犬の魔獣だから動揺しているのだろうか。けれど、元が犬だった魔獣のことなど、これまで幾度も、そう、幾度も討ってきた。
 それは、日暮れ前のことだったかもしれない。
 黄昏の訪れた野山には痩せ細った木ばかりが佇み、まばゆいばかりの緑に覆われていたというその地には、まるでそんな面影はなかった。
 身をやつした低木に実っていたのだろう木の実は地面に落ち、腐っては土に褪せた紫色の汁を吸わせている。元々この山に棲んでいた野犬はほとんどが魔獣と化し、その魔獣もフリードリヒが率いるシヴァルと騎士団が一掃した。
 黄昏れたこの山は、在ったすべてを失った。この山には、もう何もなくなってしまったのだ。
 そうしてフリードリヒが赤々い空を眺めていると、それは唐突に訪れる。
 まず、音が在った。はあ、と洩れ出た息が瞬きの間に、ぜえ、という荒い息づかいへ変わり、それはひゅう、と鳴ったかと思えば、月に分厚い雲がかかるかのように、ふっとその存在を消す。
 嫌な予感にフリードリヒは一度目を瞑ると、すぐにそれを開き、しかし瞳は未だ赤い空を見つめていた。
 ばきりと木の折れるような音がする。今まで何度も聞いてきた音だった。動物の骨が、不自然に軋む音に違いない。微かに荒い息づかいが戻り、それはすぐに止まる。終わりみたいな色に染まった空だった。フリードリヒは、ゆっくりと背後を振り返る。
 燃えるような金色と目がかち合う。その目が瞬くと、金色のそれは燃やすような紅色に染まり上がった。狼と呼ぶべきか、豹と呼ぶべきか、輝くような黒い体毛をもつ彼は、少なくとも犬には見えない。体毛の色は違えど、その姿は先ほど討ち取った魔獣たちと瓜二つだった。
 ——シヴァルが魔獣と化した。
 何が彼をそうさせたのかは分からないが、さざ波のように広がったその衝撃はフリードリヒの部下たちを一歩後退させる。逆光の照るその中でフリードリヒばかりは揺らぐことなく立ち、変わり果てた相棒の姿を見つめ——
 そして、微笑みながら諸手を広げた。
 土を蹴ったシヴァルは容赦なく、また躊躇いも見せずフリードリヒの首に自身の牙を突き立て、フリードリヒはその瞬間、未だ片手に持っていた剣でシヴァルの襟首を裂いた。フリードリヒとシヴァルはほとんど同時に地面にくずおれ、しかし先に息を引き取ったのはフリードリヒの方だった。
 彼はその最期の呼吸で赤紫色の空を見上げ、うつ伏せに倒れ込んでは、そのすべてを光に暴かれている身体から半身だけを無理やり起こす。それからフリードリヒは、手甲に覆われている指先をシヴァルの方へ伸ばして、
「私だよ」
 と笑った。
 その指先がシヴァルに届く前に彼は血を吐き、そうして間もなく事切れた。
 シヴァルは自分の方を目指して、けれどもう二度と動くことのなくなった指先を見つめ、襟首から絶え間なく紅水晶を垂れ流しながらも立ち上り、フリードリヒの頭の前に転がった、彼の兜の前まで進んだ。
 それからシヴァルは伏せの姿勢をとり、己の額をフリードリヒの兜へ当て、瞼を閉じた。その目が閉じ切られる瞬間、彼の瞳は黄金の色を宿す。そして、シヴァルは自身の躰が黄金の砂となり、そのすべてが黄昏に還るまで、そこから一歩も動くことはなかった。
 のちに分かったことだが、黄昏に呑まれ、フリードリヒとシヴァルが魔獣と化した野犬たちをすべて討ち取ったその地は、かつて密猟者に捕らえられ、その密猟者を捕らえたフリードリヒの手へと渡る前の——〝シヴァル〟となる前の、一匹の仔犬が生まれ育った故郷だったと云う。
 そう——そのように、史実は語っている。
(それが正しいとしたら、皮肉だよな……)
 振り返らずに、ミシオンは背後の石膏像を心だけで見た。
 この像は、シヴァルの騎士道を讃えるものであり、またそれと同様にフリードリヒの像も存在する。しかしそれは、騎士団が誇る王室騎士隊の鷹の羽の間——詰め所とは別に、宮廷内に用意されている専用の会議室である——へと続く、庭園の広場の中心で、花々と共に陽の光を受けていた。
(お前が一緒にいたいのは、こんな機械人形どもじゃあないだろ。ただでさえ、同じ墓には入れなかったんだから……)
 死した魔獣は、その躰を大地に遺せない。
 血液は紅水晶として砕け流れ、息絶えようとする躰は端から黄金の砂となって、彼らがそこに在った痕跡は、どこからともなく流れてくる風に運ばれていく。
 それは、どんな魔獣にも例外はない。たとえそれが、騎士長の相棒であったシヴァルだとしても。だから、シヴァルは何よりも愛していただろうフリードリヒと共に、大地で眠ることはできないのだ。
 王國は、フリードリヒとシヴァルへの追悼、またその騎士道への敬意を払って、以後の騎士長となった者には代々〝シバルリード〟という名を贈ってきた。これはフリードリヒとシヴァルの名前を掛け合わせたものであるが、それと同時に、いつからかこの言葉は〝騎士道を先導する者〟という意味も宿されるようになったものだ。
 そうして國は王城の敷地内にフリードリヒとシヴァルの石膏像も建てさせたというのに、しかし彼らはそれぞれ別の場所に配置され、周りの景色や浴びる光の色なども違う処に互いが身を置いている。
 ミシオンには、なんだかそれがあまりにも酷で、あまりにも寂しいことのように思えた。シヴァルが自分と重なる部分は皆無に等しいが、それでも思ってしまうのだ。もし、それが自分だったらと。
 最も愛する者を目の前で失い、ただその火を掻き消したのは己だからと、届かなかった指先に触れることも自身で赦さず、そうして死した後も、その後悔に、その懺悔に、此処で独り……
「ミシオン?」
 ふと、気遣わしげな声が聞こえて、ミシオンは顔を上げた。
「……どうした? 具合でも悪いか?」
「ああ……いえ」
 かぶりを振って、ミシオンは立ち上がる。片手の木剣をくるりと回して、レースラインの方を見た。
「——トワイトの花」
「うん?」
「その花、色が変わるんですよ。雨に濡れると、金色に。その色をいちばん輝かせるのが夕暮れの光だから、黄昏謳花と呼ばれるんです」
 言って、ミシオンは欠伸を噛み殺した。
 月は未だ青白く輝いているが、自分やレースライン、シヴァルやフリードリヒの像、そして故郷、そのすべてに与えられる光は果たしてどれもが同じ色をしているだろうか。
 ミシオンはつま先を騎士の詰め所へと向け、数歩進んだのち、ふとレースラインの方を振り返って思い出したように問いかけた。
「隊長、死んだら何処で眠りたいですか?」
 その問いかけに、おそらくレースラインの表情が微かに歪んだ。彼女はミシオンの質問に一拍置き、それから一歩だけ前に進んで、静かな声で答えを返す。
「何処でも。……何故そんなことを訊く?」
「ええ、ほんとうですか? 俺は、自分がいちばん落ち着ける処がいいけどなぁ」
 少しばかり笑いながら言って、ミシオンはレースラインの方へ向けていたその顔を前へと戻した。
「——死に方が分かれば、生き方も分かるかなって、そう思っただけですよ」
 そう発したミシオンの表情は、レースラインには見えない。
 それから彼は柔らかな声色で、おやすみなさい、と呟いて、修練場の裏を後にする。去っていく彼の金髪が月の光に照らされて、淡い白の輪郭を纏っていた。
 思わず引き止めようとしたレースラインの指の間を、ふわりと冷たい風が吹き抜ける。花の香。その香りに何故だか動けなくなったレースラインは、上げていた手のひらをゆるりと下ろし、もうほとんど見えなくなってしまったミシオンの背から視線を外した。
 そうして彼女は背後を振り返り、一匹の魔獣が瞼を閉じ、その額を騎士の兜に当てている姿を目に映す。
 誰が呼んだわけでもない風がもう一度彼女の髪を揺らすまで、レースラインは、月の光を浴びる一匹の犬の石膏像を見つめ続けていた。


20180719 
シリーズ:『たそがれの國』〈ごしきの金〉

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