見出し画像

トワイト

 目次

 炎は燃えているか。
 夕暮れ、斜陽に照らされる小さな里で、しかしその彼女の白い髪ばかりは色に染まらず、ただ激しくその存在を放っていた。
 黄昏の風に煽られる赤々いマントにすら隠れない、彼女の銀色の腕もまた陽の色には染まらずに、地平の果てへと沈みゆくもののまばゆい光の咆哮を受けて、きんと鋭く輝いている。
 此処は、夜明けを謳い、日の出を抱く鷹獅子の王國、〈ソリスオルトス〉。
 そして、この王國の守り人——〈ソリスオルトス王國騎士団〉、通称〝騎士団〟。その騎士団の中で、主に民間人保護と魔獣討伐に重きを置き、百数の部隊を組んでは部隊ごとに各々がこのあまりに広大すぎる王國を、ただ馬ばかりを用いて巡回する〝世回り〟隊は、こんにちも昨日と変わらずこの世界を巡り、そうして魔獣に脅かされる民を護っていることだろう。
 しかし、そんな世回り隊の一人——〈ソリスオルトス王國騎士団〉世回り第十三番小隊の長であるレースライン・ぜーローゼは、その背で部下を率いることもせず、また、愛馬すら今日は預けて、たった一人でこの果てしのない大地を旅していた。
 彼女は今、騎士として人前に出る際、平常纏めることのなかった腰ほどまである長い白髪を、けれどもうなじで一つに結い上げて、自身の両手に小さな花束を抱いている。
 一種類の小ぶりな花だけで設えられた白い花束は、彼女の部下の一人がかつて好きだと言っていた、その者自身の故郷の花で形づくられてあった。だが、レースラインはそれを眺めやることは今はせず、自身が叩いた扉の向こうから出てきた、一人の女性の目を見つめていた。指にたくさんの皺が刻まれた、四十路ほどの女性である。
 そして、その目を見て、レースラインは己の呼吸を止めていた。或いは、詰まっていたと言うべきか。扉から出て、自分を目にしたときの女性の目。その目に、最早二度と癒やすことのできない傷が、傍目にもくっきりと残されていたのだった。
 ——覚悟はしていた。いつも、覚悟はしているはずだった。
 それがどうして、このように心を震わせるのか。どうしてこのように、恐れを自覚するようになってしまったのか。気を抜いたところから、膝が笑い出しそうだった。おのが真実を貫くとは、このようなものか。失った者の前に立つことが、こんなにも恐ろしいと感じることなのか。
「この道を……」
 女性の口がそう言葉を紡ぐまで、随分長い時を過ごした気がする。
 けれどもそれは、自身の目を相手の目に合わせてほんの数呼吸の間。褪せがちな金の睫毛をそっと伏せて、ついと視線を逸らした女性は、ほとんど呟くようにして言葉を発していった。
「この道を、半日歩いて。そうすれば……」
 言いながら、しかしそこから顔を背けるようにして、彼女は家の裏手から東へと延びる、平らだが細いばかりの土の道を指差した。
 レースラインは、そんな手の先を見やるようにそちらへと視線を向ける。まるで小動物が何度も駆け抜けてできたかのように続く、家の裏から牧草地の真ん中を行くその土道は、細いながらも、しかし延々と先へ、また先へと延びていた。
「——ありがとうございます」
 息を吸い、吐き出すそれの勢いで、レースラインは落ち着き払って聞こえる声色で、目の前の人へとそう告げる。
 すれば、つと、逸らされていた視線が再びこちらへと戻ってくる。掘り出したままの紅簾石のような、微かに赤みがかった灰色の瞳が——そのかろうじて砕けなかった最後のひとかけらが、一瞬だけレースラインの勿忘草の瞳を見つめた。
「もう、顔は見せないで」
 それからまた視線を逸らされる瞬間、彼女は開け放たれている玄関扉の取っ手を強く握り締め、レースラインに向けて確かにそう言った。その静かな声に、怒りは滲んでいない。それと同じように、悲しみや憎しみもそこには聴こえず、彼女の声は冷えきっているわけでも、また、熱く滾っているわけでもなかった。
「隊長さん、あなたを憎んでいるわけじゃないの」
 それでも、すべてが宿っていないわけではない。むしろ、抑え付けた静かな声から、そのすべてが聴こえるようだった。
「恨んでいるわけでもない。ただ……けれど……」
 再びこちらをちらりと見やった瞳と、レースラインの瞳がかち合った。
「けれど——赦せないの。だから」
 密やかに宙へ向けて呟くように、しかし確かにレースラインへと向かってそう発せられた言葉に、彼女は全身を透明な棘で突き刺されるかのような心地がした。
 レースラインは銀色の右手を一瞬だけ握り締め、そうしてまた開くと、すうっと息を吸って自身の前に在る、赤光に照らされたような灰色の目を見た。今、軋んで聞こえたのは己の肺か、或いは右の義手か、それとも。
「……彼は」
「え?」
「彼は、騎士で在りました。最期まで」
 目の前の彼女が発したそれとは、しかしまた違った静けさを以ってレースラインがそう告げれば、扉の取っ手を握り締めていた彼女の目が微かに見開かれる。
 それから彼女の手のひらが取っ手から離れ、ほとんど伏せていたその睫毛がゆっくりと上がった。
「……騎士?」
 金と呼ぶよりは茶に褪せた彼女の睫毛が、暮れの光を受けては確かに黄金に輝いた。こちらを見上げる彼女の睫毛の間から覗く瞳に、今、めらりと火が宿っている。
 それを見て取りながらレースラインは、斜陽が与えられる右半身がじくりと痛んだ気がした。
「だから、なんなの? 死んでしまったら終わりじゃない。なら、そこに意味なんてないじゃない。あの子はもう誰も、何も守れはしないのよ」
 目が逸らされることはなかった。
 怒りや悔しさが表に滲み出した彼女の言葉を聴きながら、レースラインもまた、自身の瞳を彼女の瞳から逸らすことなく見つめ続ける。
「あの子は、わたしを守りたいと言って騎士になったわ。それがいちばん格好良い守り方だろって、そんな風にばかを言って笑って……」
 それから彼女は、確かに、と呟いてレースラインから一瞬だけ目を逸らしたのち、しかしその視線をすぐにこちらへと帰って来させた。牧草地の方から緑のにおいがする、けれども気配の褪せた風が吹いてきている。
「あの子が戦地で亡くなったって、殉職したって騎士長さまから聞かされた後、確かにわたしは騎士団からたくさんのお金と、余るほどの食糧を貰ったわ。騎士長さまは葬儀も手篤く執り行う、家も建て替えさせようと申し出てくださったけれど……」
「家は立て替えず、葬儀は家族葬に」
「そう。家族って言っても、あの子とわたしだけなのだけれどね。だからこそよ。だからこそ、家もこのままにした。此処は……あの子のことを育てた、唯一の家だから」
 彼女は言いながらかぶりを振って、レースラインの方を見つめながらその目を細める。
「……ねえ、でも、分かるでしょう?」
 くしゃりと歪められた、彼女の泣き出しそうな笑みに、レースラインは再び自身の息をひゅっと止めていた。無意識に噛み締めた奥歯から、ぎり、と悲鳴を上げている。それでもこれは自分自身以外、誰にも聞こえはしないだろう。きっと、そればかりが救いだった。
 見えない手に叩き付けられた心臓を、その身に抱えるレースラインの前で、彼女が——〝彼〟の母が、溢れ出しそうになった何かを呑み込むように、しかし音は立てずに大きく息を吸い込んだ。
「あの子の命は、お金でも、食べ物でも、家でもないのよ。わたしは、あの子に……ただ、あの子に……」
 風が吹いた。
 彼の母は、思わずそれが吹いてくる方へと顔を向ける。牧草地の中央をかき分けて続いていく獣道にも似た土の道を、まるで短い歩幅で駆けるように、その風は吹いてきていた。
「生きていて、ほしかった……!」
 道が続いてゆく方向を見やりながらそう発した彼女の呟きは、内側に嗚咽を宿して、悲痛な叫びとなってレースラインの胸まで届いた。母の洩らした吐息が、今や慟哭にすら聴こえる。
 しかし、レースラインは左腕で白い小花の束を抱えたまま、その手のひらできつく心臓の辺りを掴み、銀の手もまた同じくらいに強く握って背と回した。
 そうして彼女は正しい姿勢を更に正すと、平常とは逆向きの——〝彼〟が死したときに行った騎士の礼を、彼の母へと示す。
「彼は、騎士で在りました」
「だから、それが——」
「私は彼の隊長です。そしてそれは、昨日も今日も、また明日も変えようのない事実として、此処に在ります」
 風が、その言葉を聴くかのように凪いだ。
「私は——私だけは、彼の騎士道を否定しません」
 焼ける灰色の瞳が声を失い、しかしそれはすぐにぐらぐらと揺らぐ。
 けれども、この静まりかえった黄昏に音を与えたのは、レースラインの方を見据えながら短く息を吸った、揺らぐ灰色を瞳に抱く彼女からだった。
「……わたしには、覚悟なんてできてなかった。自分の子よ? 子どもが死ぬ覚悟なんて、できるわけないわ」
「……はい」
「大体、死ぬ覚悟ってなんなの? 何かを守るために死ぬなら、そんなことなら、ずっとずっと、なんにも守らなくたってよかった!」
 鋭くそう言い放った彼女に、レースラインは、す、と息を吸うと、その直後に自身の腰を深く折り曲げて頭を下げた。
 そんなレースラインの白い長髪は、今は一つに結わえられて、右にも左にも垂れることはなく、彼女が纏う赤々いマントの中心でその存在を放っている。頭上から、かの母が驚愕する気配がした。
「——申し訳ありませんでした」
「……えっ?」
「彼が戦場で亡くなったのは、すべて私の至らなさ故のこと。彼の未来が奪われるに甘んじていたこと、あなたの幸せを奪ってしまったこと、どれほど謝罪したとて謝りきれるものではないと存じております。ほんとうに、申し訳ありませんでした」
「ちょっと……」
「ですが」
 戸惑う母親を前に、レースラインは顔を上げる。それとほとんど同時に風が舞い戻り、しかしそれは先ほどまで吹いていた暮れなずむ風ではなく、どこまでも真っ直ぐに突き抜けるしたたかな風だった。
「彼が騎士となる道を選んだこと、彼が己の騎士道を歩んだこと、そして、これからも騎士で在ることを、私は謝ることができません。そして、誰にも謝らせはしません。これまでも——これからもずっと」
 風に煽られて、彼女の真っ白な長髪と纏う赤のマント、そして騎士のタバードが翻る。
 勿忘草色の瞳の奥に微か見えた、燃える青い松明が——そこから弾けた蛍火にも似た火の粉が、吹く風に母親の目の前を過ぎ、日の昇る方へと運ばれていった。
「……あなた」
 母親は、少しばかり辛そうな呆れ顔をつくった。
「騎士長さまと似たようなことを言うと思ったら、あの方より厳しいみたい」
「……いいえ」
 彼女のその言葉に、レースラインは洩らすように笑む。
「私の部下たちの方が、もっと厳しいですよ。あなたのお子さんも含めて」
「……そう」
 言って、困ったような笑みに顔を歪めた彼女に、レースラインは己の睫毛をほんの少しだけ伏せたい気持ちに駆られた。唇に弧を描かせたまま、しかしその内側を噛んでいるレースラインのことには気付けるはずもなく、母はゆるりと自身のかぶりを振る。
「知らなかったな……」
「——ならば、知るべきです」
 ほとんど反射的にそう発したレースラインの方を見た母親に、はたとしたレースラインは淡く微笑んで、失礼、とどこか申し訳なさそうにその首を左右に振った。
「知ってほしい、と思います。これまで彼がしてきた、〝いちばん格好良い守り方〟を、あなたには」
「……もう、顔を見せないでと言ったでしょう」
「そうでした。でしたら……」
 レースラインは思い悩む素振りをつくりながら、その淡い水色の瞳に一瞬だけ悪戯な光を宿した。斜陽に染まらなかったその光の色に、嫌な気配を感じたのか母親の眉間に皺が寄る。
「——自分の部下を寄越させましょう」
「……同じことよ。結構だわ……」
「彼が腹心の友と呼び、また彼のことをそう呼んだ相手でもですか?」
「あの子の……」
 母親は呟いて、その褪せた睫毛をそっと伏せた。そうして、それからすぐに押し上げた黄昏色から覗く赤の灰色は、レースラインの方を見やりながら、静かにその瞳で息をする。その呼吸が肺まで届いて、母親は微かに音を立てて唇で息をした。
「その人……あの子が亡くなったとき、どうだった?」
 差し出された問いに、レースラインは少しばかり切なげにも微笑んだ。
「それが……分からないのです。愚かしくも自分はそのとき、延々と眠りこけていましたから」
 かぶりを振って言いながら、レースラインは自分の右肩より下をちらりと見やった。そこに在る銀色は、こんにちの黄昏を受けても尚、やはりしたたかな銀色を湛えたままである。
「訊かなかったのです。訊けば彼は答えるだろうし、それに、自分自身を必要以上に責めることも分かっていましたから。しかし……こうして一人になった今は思うのです。或いは、訊いてやった方がよかったかもしれないと。必要以上に自分を責めた方が、彼は楽になれたかもしれないと、今は」
 レースラインの義手へと自身も視線を向けた母親は、そこから何を感じ取ったのか、その顔を太陽が沈んでいく方へと向け、そうして与えられるまばゆさに目を細めた。
「あなたとよりは、気が合いそうね」
 身を沈めてゆく陽を見つめる瞳は、まるで痛みを堪えているかのようだった。
「——泣かないあなたとよりは」
 その言葉を聞きながら、レースラインもまた太陽の沈む方を見やり、しかし彼女は遠く果てに在る赤々い光の塊よりは、その光を受け取るままにしている左腕の花束へと視線をやった。
 そこに在る小花たちは、レースラインの髪よりは色のある白を身に湛えたまま、降り注ぐ橙色の光を受け止めている。白に薄く橙の膜を纏った花たちが、見つめるレースラインのまなざしを得て、一瞬だけ金の色にさざめいて見えた。
 それを目に留めただろうか、彼女は顔を上げて母親に淡く笑んでみせた。
「騎士が泣くのは、おかしいでしょう?」
「そう……だからあなたは、そうやって笑うのね」
「騎士ですから」
 曖昧にかぶりを振りながら、どこか自分自身に呆れるようにそう言ったレースラインに、彼女のほんの少しばかり冗談めかした様子に、かの母親の顔がくしゃりと歪む。
 その表情にレースラインが音もなく息を詰まらせたことも、またレースラインの様子に母親の心臓がきつく握られたことも知らないまま、或いは気にも留めず、こんにちの夕焼けは二人の半分を強く照らしている。
「どうしてあなたは騎士で在れるの? どうしてあの子は、騎士で在れたの?」
 光と影の真ん中で、彼女がそう問うた。
 レースラインは東へ導く風に吹かれながら再びその姿勢を正す。柔らかく揺れ動きながらも、王國の強い意志の色を宿すレースラインのマントと鷹獅子のタバードは、それでも彼女が受けた真白い傷跡までその色に染め上げることはなかった。
 そして、黄昏の火を受けて時折じり、と痛む彼女のまだらな傷跡もまた、自身が纏う騎士装束に守られている。
 レースラインは右半身に黄昏の光を、左半身にはその影を連れ、瞳には目の前の傷付いた熾の灰色を映し、そうして痛いほどに柔らかな声で言葉を発した。
「自分が弱いということを知っているからです」
 それから彼女は左の手のひらで心臓を掴むと、右の義手を背へと回し、その途中で一度、自身の右側を暴く斜陽の光を強く掴んだ。
「騎士は、強く在らねばならない」
 そうして右腕を動かすことにより鈍い痛みが己の半分へ轟いたが、レースラインはそれを気にも留めず、光を握り締めたままの右拳を背へ回しきる。吸い込んだ空気に、注ぐ陽光の熱を感じた。
「——けれど、己の弱さを知っている者でなくては、騎士にはなれない」
「……強くなければ死んでしまうかもしれないのに?」
「ええ。おかしなものですね。……しかし、そうでなければ他者や、己自身すら守ることができないのです」
「……分からないわ……」
「いいえ」
 悲しげに眉をひそめる母親に、レースラインはかぶりを振った。
「分かるはずです。だってあなたは今、此処に立ち、こうして私と話をしているのですから。分かるでしょう。こんなことに長い間気付かなかった私なんかよりも。あなたはずっと、あなたと——〝彼〟のことを守ってきたのですから」
「わたしが?」
「あなたが」
 そう発すれば、母親は再び、分からないわ、と呟きながらも曖昧に微笑み、そうしてゆっくりと息を吐き出した。
 それから彼女は視線をレースラインから外して、緩やかに家の裏手へと運ぶ。東へと吹き抜けていく風が、今までよりも少しだけ強く吹いた。レースラインは沈みかけの今日を自身の半分で感じながら、母親が視線を向けた方へと己も顔を向ける。
「この道を、半日よ」
 レースラインへと言いながら振り向き、彼女は痛むように微笑んだ。
「——足の速い子どもが駆けて、半日……」
 その言葉にレースラインはほんの一瞬だけ目を見開き、どくりと心臓が鳴ったのを自覚した。
 風が急かすように彼女のマントを翻させる。レースラインは耳の奥で、透明な棘の刺さった心臓から血が溢れる音を聴きながら、その視線を母親に戻して、もう一度彼女に向けて騎士の礼をした。力を込めた左腕の花束が、微かにくしゃりと音を立てる。
 そして、そこからはもう、どちらからも言葉は発しなかった。
 レースラインは顔をゆっくりと牧草地へ向けて、そこに延びる細い土の道を見やる。小さな獣が何度も駆けてできたような道。一度瞬く。小さな影がその獣道に飛び出した。もう一度瞬く。よく見れば、それは小さな子どもだった。誰そ彼。幼い日の〝彼〟、在りし日の——
 目を閉じる。息を吐いた。
 ——すべて、幻だ。
 目を開けて、レースラインは一歩を踏み出す。家の裏手から延びる道、牧草地の真ん中を行く道、かつてこの地で育った一人の騎士が駆けた道、その彼の墓へと続く道、東へ。
 未だ、家の扉が閉まる音は聞こえず、どこか切なげな視線の気配も背後に感じる。
 しかし、彼女は振り返らず、もう、振り返れなかった。
 レースラインは一歩、また一歩とその歩みを平常のものとしながら、道の果て、遠くに在る淡い森の影を見る。風はいつの間にか再び緩やかなそれとなり、彼女の背をそっと押していた。
 背中に感じるものが、視線よりも照らす斜陽の方が大きくなってきたとき、彼女は静かな瞳で前を見据えたまま、左の指先で飾り気のない髪帯をほどいた。
 そうして、レースラインは此処に在るたそがれも、熱く与えられる陽光も、また柔らかな風もすべて見やり、受け止めるかのように緩くかぶりを振っては天を仰ぐ。月の輪郭はおぼろげで、星もまだ光らない。
 辿り着く頃には、夜だろうか。
 それとも、夜明けだろうか。
 早く行かねば。けれども何故だろう。一歩進むたびに、義手だけではない、身体のすべてが軋むようだった。レースラインはそれを振り払うように、引きずる影の重さを、刺す光の痛みを斬り伏せるように、その銀色の手のひらで自身の帯びる軍刀の黒鞘に触れた。
 ——いつから四肢は、このように重くなったのか。
 此処には、松明すらない。レースラインは明かりの代わりに白い花束を片腕に抱き、ただ一心にその歩を進めた。
 四肢が有り、進めること。彼女の中でそれだけが今、ただそれだけが、彼女自身の騎士道を——その〝イシ〟の存在を認めている。彼女は、睫毛を伏せることなく、ただ一心に歩み続けた。
 歩む。
 振り返れはしないが、ふと想う。未だ、太陽は沈んでいないと。
 歩む。
 まだ、炎は燃えているか。
 歩み、想う。
 燃えている。
 西の地平線で、未だ。
 そして歩む。
 炎はまだ、燃えているか。
 燃えている。
 夜の帳が下りた空で、未だ。
 歩んだ。
 炎は燃えているか。
 まだ、燃えているか。
 燃えている。
 まだ、燃えている。
 燃えている。
 ——彼女の瞳で未だ、強く。


20180623 
シリーズ:『たそがれの國』〈ごしきの金〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?