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回遊魚

 むかし、カツオだかマグロだか、そんな魚に喩えられたことがあったことを、そういえば急に思い出した。
 泳ぎ続けていなければ死んでしまう魚の話だ。

 それはもうずいぶん昔のことのような気がする。私は立ち止まったら死ぬ、ほんとうにそう思っていた。それは、頼る人も帰る場所もなくて、どんなにブラックでも当時の仕事にしがみついていないと生き延びていけないという経済的な逃げ場のなさのことでもあったし、また同時に、自分がいい子、いい人でなければあっという間にひとりになってしまう、という恐ろしさでもあった。


 当時の仕事先に、ものすごく意地の悪いパートさんがいた。

 若い頃はそれなりに可愛いと持て囃されたのだろうと思える容姿。旦那さんと、中学生になる息子さんがいて、VOLVOに乗っていた。
 一見、人当たりはいい。だけど、一度気に入らないことがあると自分から気に入らないネタを拾いに行っては、聞こえよがしに悪口を言う。
 悪口を吐き出す相手をキープするために、気に入った子にはやたらにやさしくする、そういう人。

 なにしろ、たまたま同じ場所にものを取りに行ってすれ違っただけで、親の仇のように悪口報告がはじまるのだ。
 いわゆるいじめ・嫌がらせというより、とにかく目に入る一挙手一投足が気に入らなく不快になるらしく、口振りはまるで被害者そのもので、彼女の言うことは二言目には「常識がない」「気が利かない」「わざとやったに違いない」そんなことだった。

 今思えば、そういう人が幅をきかせられる職場というのは全体に「そういう空気」が醸成されていて、つまり、とてもぎすぎすしていた。
 皆その人の標的になりたくなくて機嫌を取るというだけにとどまらず、同じように標的を見つけて欠点をあげつらい、被害者のようにふるまう人が、もう2人や3人はいた。
 被害者のようにふるまう、というのはつまり、「やられる方にも原因がある」の上位互換だ。
 標的は私であることもあったしそうでないこともあった。すべての大義名分は「常識」「空気読め」で片がついた。


 そのとき私がぼんやりと感じたことは、嫌だとか嫌いだとかクソババア(これまでの人生で、「クソババア」呼びをしたのは誓ってこの時1回きりである。心の中でだけど……)とかいろいろあるけれども、そんなことよりも、ああ、この人たちにも家族がいて家庭があって、きっとそういう態度を許してくれる環境があるんだろうな、ということだった。

 家でもおなじふるまいをしているとは限らないけれど、家に帰ればちゃんと妻として母としての役割をまっとうしていることは見て取れたし、「スイッチ」が入らなければ家族の話をしていることも多かった。その雰囲気から、多少ワガママで我慢のきかない性格も「母さんだから、しょうがないなあ」で済ませてくれる人間関係があってこそ、外でそういう言動がナチュラルにできるのだろうと感じた。
 そう、それはいじめというにはあまりにナチュラルで、たとえば家庭でのストレスをぶつけるとか、捌け口をさがしてわざとやっているというより、それが当然で、配慮されるべきで、私が正しい、というふうに見えた。
 そしてそのことを、少しだけ「うらやましいな」とも思った。

 だって、私がそんなことしたら一瞬で人が離れていくもの。

 「家族だから」「うちの子だから」という繋がりがない者にとっては、ある意味すべてが「条件付き」なのだ。人が愛してくれたり、優しくしてくれたりするのは私の性格や人間性がその人の基準に適ったからでしかない。
 それって正しい基準なのだけど、でも、無条件の愛とは違う。
 ただ私である、というだけで「居ていいよ」と言ってくれる人がひとりもいない世界では、居場所をつくるために自分が頑張って「良い人間」にならなければならない。
 そのこと自体には自分なりに納得もしていたけれど、彼女たちのような無自覚な奔放を目の当たりにすると、少しだけ、さみしさのようなものもよぎった。


 もちろん、母だって妻だって子どもだってその立場に胡座をかいて、あまりに自己中心的なふるまいをすれば最後には人が離れていくことは同じだ。むしろ、許される環境が拍車をかけて歯止めがきかなくなり、矯正できなくなることだって多い。
 そういう意味では、善し悪しだなとも思う。
 きっと私は、ああいう性根にはならずにすむ。


 いつしか、あの頃のように「がんばって泳いで『いい人間』をキープしていないと、生き残っていけない」というような焦燥感は薄れたように思う。

 いまは、私にも新しく「安心できる」家族ができた。信じられないくらいあたたかくて、「子どもがもう一人ふえた」みたいに受け入れてくれる人たち。悪意ではなく人を信用することからはじめられる人たち。言葉を言葉通りに受け止めてくれる人たち。
 私自身がなにかと頼るのが下手だったり、ひとりでなんとかしようとしがちなところはまだまだ残るものの、コミュニケーションコストがうんと低くて、控えめに言って、らくちんだ。
 ……あぁ、私、ワガママになってないかな。怖い怖い、気をつけよう。

 いつかの日か、止まっても息ができるタイプの回遊魚になれることを願って。

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