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だらしがないからではなく、完璧主義すぎて片付かない人へ。

私と同じタイプの人はきっとたくさんいると思うのだけど、どうだろうか。

私は「ちょっとずつ、ひとつでも片付ける」ことがとても苦手だ。
片付けだけでなく、タスクをこなして「片付ける」ことも苦手だ。

私が5分ダッシュできないわけ

ライフハック、タスク管理界でとにかく言われる「5分だけでも手をつける」。
これが、私にはできない時がままある。

5分ダッシュとは、とにかく手をつけてしまえば思いのほか進むよ〜っていうやり方。

もちろんできる時もあるし、できれば効果は高い。
とくに、たすくま(行動記録をとり、それを元にタスクや時間の管理をしていくツール)に助けられている私としては、たすくまでスタートボタンを押すこと自体が5分ダッシュに近い効果を生み、「タイマー押しちゃったし、やるか」という感じで動けたりすることもある。

ところが、ある種のタスクはそれができない。できないというか、むしろ、それをするのが怖いとさえ感じてしまう。

手をつけたら最後、高い山が目の前を阻む

それは、取り掛かったが最後、ものすごく高い山を登り切るまでやるしかないのではと感じてしまう種類のことや、
あるいは、
突っついた途端に、ものすごい量の類似タスクが溢れだしてくるんじゃないかと思えてしまうようなこと。

たとえば仕事なら、手をつけたら4時間くらいはずっとかじりついて手を動かしつづけなければならない作業がある。
目も手も疲れるし、最後には必ず偏頭痛がするとわかっていると、取り掛かることそのものにエネルギーがいる……。

あるいは、広範囲の掃除や片付けもそう。
押し込めていた澱が噴出して、一度手をつけたらいろんなことが気になりだして、
こんなにもタスクが山積みなのか、という現実に打ちのめされてパニックになるんじゃないかと、手をつける前から震え上がる。

手をつけたが最後、長く重い作業に身を投じることになってしまうように感じると、手をつけることそのものが難しいのだ。

「ちょっとやったって、他のことが全然出来てないんじゃ意味ない」の呪い

「そんなん意味ない」という言葉を浴びせられてしまったことがある人、案外いるのではないだろうか。

人なみのことをこなすのが難しい人にとって、このハードルは途方もなかっただろう。

必死で必死でこなした2とか3を「100やれてあたりまえ、2じゃやってないのと同じ」と言われてしまうと、本当に悲しい。

自分にとって厳しすぎる道のりに絶望しつつも、3を4、4を8、12……と段々増やして、努力によってなんとか(他の人の最低ラインである)100を身につけた人もいるだろう。

100か0かの私たちは、100やりきることよりも50や15でやめることが苦手

1や2じゃ褒められない、褒めてはいけないと思い込んでいる人々にとって、5分ダッシュはただの5分ではなく、長い長い100へのスタート。
だからときに、とても強い覚悟が求められてしまう。

100か0かしかない人は実はやり遂げることが苦手なのではなく、50や15でやめることが苦手なのだ。

私たちは、だらしがないから出来ないんじゃない。
完璧主義すぎて手を出せないだけなのだ。

とにかく、私は同胞にこれを言っておきたい

1だけやってやめてもいいんだよ。
100に到達しなくても価値があるよ。
全部クリアしなきゃ自分は実質0、って考える自分に気づこう、そして手放そう。

まずは一緒に、「途中でやめる練習」しませんか?
だらしがないからではなく、完璧主義すぎて片付かない人へ。

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