アナーキズムと知識の民主化

アナーキズムというと無政府主義。

なんだか血なまぐさい。

それもこれも群れようとするから。

アナーキズムは群れちゃいけない。

群れるのは主義に反する。

思想なるものが必ず社会運動にトランスレートされなければならないという理屈はない。

宗教の布教も似たようなところがある。

本来救いのために教えを広める。

それが、広めることが目的化する。

群れる。

群れて影響力を及ぼそうとする。

これを私は「数の論理」とか「数量に負ける」と呼ぶ。

沢山持ってさえいれば安心か?

一理あるけれども、絶対そうとはいえない。

でも大概の人間は負ける。

多い方がいい。

大した根拠も求めることなく多くを求める。

その方が安心だろう、という想定。思い込み。

群れる理由は量だけではない。

思想とか信条とかいうような目に見えないもの。

これらの確かさを確かめたい。

喋って分かってもらいたい。

自分の分かっていることを分かち合いたい。

アナーキズムはそれでも群れない。

群れないのがアナーキズム。

群れることにより行使できる力に敢えて背を向け、ひたすら続ける自己内対話。

答えは常に自ら下す。

独善的に、ではなく、3面ぐるぐる回して

実在、空想関係なく、他者からの答えに頼るというのは、結局のところ責任逃れ。

本を読む場合も同じ。

著者の責任ではないさ。

読む人が何を得るか。何を得たと信じるか。

知識の民主化を目指すなら思想的基盤は断然アナーキズム。

知識とは、私たち人間のこの世に存在する仕方。

存在の仕方は他者に解釈されてリッチにもなるけれど、やはり個々人各々独自のもの。

個々人でそれなりに責任もって愛でられるべき。

そこから育つ相互の存在の仕方に対する尊重の気持ち。

知識を武器にして群れて戦おうとかしちゃダメよ。

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