内面探究の道具

おそらく現生人類が誕生して此の方、一人一人が感じることの一々を、軽やかに表現可能なところまで持って行くようなツールは開発し切れていない。

現代に至ってはそもそもそのようなツールに対するニーズがないことになっているようだ。

一人一人が感じることの一々を表現可能なところまで持って行く。

まずは何故それが必要なのかを説得的に説明しなければなるまい。

心理学が発達するとともに、人が様々感じること(感情や感覚)は、心の動きとして説明されるようになった。

どうして「心」というものがどこにあるのかもはっきりしないのに、「心の動き」の説明が広く求められ、そして、受け入れられたのか?

多くの人々にとって心は動くのだろう。

「心が動く」という表現は今の科学の装いを纏った心理学っぽくないけれど、心理学では、「心」という仮に設定されたとある”場”においては、様々なことが巻き起こっていることになる。快感、怒り、恐れ、コンプレックス、etc.そういう説明でほとんど問題がないのだろう。どこで、何が起きているのか?が分からなくても。

心理学が受容されるには、受け入れられやすさだけでなく、もっと積極的に人々が説明を求めている、ということもある。

とにかく人間というもの、いろんなことが気になるのだ。ほぼ無意識の世界。

そこから徐々にか突然かは色々だけど、意識の世界に入る。

意識の世界で気になることといえば、たいがい言語化される。

それは事実だと思うけど、何でもかんでもが全部漏れなく言語化されるわけではない。

言語は特にそうだけど、それ以外のサインも、その存在というものは既に社会的だ。異なる人々の間で、共有される何かがないと、成り立たないから。

つまり、首尾よく言語化された心的現象、感情や感覚、そこからより理屈や説明が加えられた思考というのは、私的か?公的か?と問うなら、より公的なものといえる。翻ってみるに、個々人が様々感じ取っているであろう情報というものは、かなりな部分が言語化或はその他の手段で形にされることなく流れ去っている、といえるだろう。

物語りやその他のアーティスティックな表現が昔々から欲され続けているのも、そういう事情からなんではないか?と私は踏んでいる。

勿論コミュニティの形成・維持のための祭祀的目的だって否定はしないけれど、そっちの方は、結局時代が科学や合理性全盛になって以降は、資本主義的組織編成・維持・統治や、主権国家とその下部組織(地方公共団体など)からなる法に依る統治、それを運用管理する官僚組織、民主的選挙に基づいた代議制による法律制定・政策に関わる意思決定などなど、というかたちに発展していって、今ではまあ各種お祭などのカルチャー・イベントとして生き残っていたり、死に絶えていたものが何らかの理由により復活させられたり、、というような立場になっている。

どのような形式になっていようとも、そもそも集団の結束やら、社会の運営管理のためになされるような表現というのは、基本的に個々人が各々抱えているプライベートな感覚のお話とは縁遠い。

どんなに、国民主権なんだからと参加を煽ったところで、個人個人が関わっていける要素は非常に限られる。かなり限られた人間の手によって運営管理されるようになって当たり前。語りというか種々説明やそれに必要となる知識の習得なども全部含めて。

伝統芸能やらいわゆる芸術といわれるものにしたって、現代ではとある目的が先に立つ。カネ。名誉も含めてカネ。

いやいや。文化・芸術を愛する人々はカネだけが動機じゃないよ。

そうですね。それは認めましょう。でも。。。

そういう人々でも結局芸術の類は”対象化”してしまっている。批評で食っているような人間なんか特にそう。

つまり、個々人の非常にプライベートな感覚から、意義とか目的とか無しに、本当に純粋にわけもわからずもうやめられないってな具合に従事している人はごく少数だ。

これには明らかにカネ全盛の時代気運というものが作用していて、「個々人のピュアな動機?ふむ。そりゃ立派というか尊重はするけれども。。。で?オタクものになってんの???」みたいなね。。。要するに確たる成果を出している証拠のようなものがなければ、無価値で、もっといえば、まるで”やってちゃいけないこと”のようにとらえられる傾向が強いということ。結果、私たちは各々のピュアにプライベートな部分になんてあまり拘らないように仕向けられている。やるからには体系的に見ようとするし、取り組むにふさわしい技量や知識をまずは得ようとする。これが”対象化”。

#note もその辺のギャップを埋められそうで埋められなさそうという微妙なところがあるよね。

これはしかし、プラットフォームとか運営側のポリシーとかとは無関係に、使う人の物事の捉え方に大きく左右される。

つまり一人一人のユーザーが、どんな心的動き(動機、欲求、目的意識、クリエイティヴな活動というものの捉え方などなど)でもって使っているのか?までは誰もコントロールはできないということ。

個々人の極々プライベートな心的現象。形になっていない諸々のものども。そういったものに拘りに拘ってもいいものなのかどうか??

私は拘るしかないだろう、という立場。

それに何の遠慮が要ることか、とも言いたい。

どんなジャンルの芸術・表現行為にせよ、キレイごとを言うなら、ジャンル・ファーストではないだろう。

ムラムラっときたらやる。

カタチにならないことの方が圧倒的に多いんだから当然稽古し学ぶ。

そういう順序のはず。

このムラムラっていうのは、何も世にクリエイティヴな活動と分類されているものにだけ当てはまることではない。

人生ってそれ自体がアート。

成果が上がるとか上がらないとか、他人に知らしめる何かがあるかないか、とかは本来二の次三の次なのだ。だって生まれて生きちゃっているんだもの。。。

言葉というのはムラムラを芸術作品に昇華させるのみならず、日々の事象と関連付けて意味あるものとして理解するために最も身近にあるリソースと私は考えている。

ムラムラから出発しないんじゃあ、誰が生きたって同じわけでしょ?

そういう一人一人が持たされている唯一無二の価値どうこうも大事だけれど、もっともっと大事なのが優しくなれるということ。

いかに極々プライベートだからって、私たち一人一人はこの世にこうして存在している時点でその他のいろんなものどもと繋がってしまっている。よって、自分が受け取っている諸々のシグナルに注意を向けるといったって、それは引き籠るとかいうことではない。

どーせすぐにはカタチは与えられないんだから。どーせ学ぶんだから。周りの色んな物事から。カタチにするんだ!という気持ちが正直なものであればあるほど人は自分自身と社会・自然環境などと一体となる。

ムラムラに注意を向けるということはそういうこと。

言葉でそれをするってどういうことか?

考えてみましょう。

少なくとも乱暴な言葉遣いなんてできなくなるから。間違いなく。

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