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良い悪いではなく

「群れない人間」も必要

群れる。

烏合の衆。

人間は社会的な動物なのだから群れないわけがない。

ただ群れたいと思うかどうかに個人差はあるということ。

おっきい群れの方が絶対的に正しいってことはない。

群れて組織の一部になり、組織が生み出すものを、個々が誇りとする。

悪くはない。

しかし。

群れるというのは、想像力でいくらでもカバーできる。

そもそも物理的に近接していたって、群れに属しているかどうかは個々人の理解・想定の問題だ。何か確たるお墨付きがあるわけではない。常時触れ合い続けているという事実の積み重ねだって状況証拠に過ぎない。

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ふと思ったんですよね。イミグレーションで長々と待たされながら。

なんで世界平和を真面目に祈ってるのに、仕事してるか?稼いでるか?証明しなければならないんだろう?

ポルトガルのボーダーコントロールのお仕事は、私がリスボンで観察する限りにおいてはフレンドリーだ。

勿論規則や書類にはうるさい。

別に愛想がいいということでもない。

それでも話はできる。

ただ、なんでこんなことしているのか?といえば国家なるものが当たり前のものになっていて、ほとんど全員、どこかの国家の管理下に置かれざるを得ない。ばかりか、国家の側で働く人々もかなりの数存在する。つまり、管理する側もされる側も(特に前者)、所詮国家という強大な何かのイヌでしかない。

フレンドリーさというのは、そうした、管理する側として働いている人たちが、日々(管理されに)やってくる人々と、国家に管理されるということに生死の大きな部分を依存せざるを得ないという点において、それほど違わないと感じるかどうか?に大きく左右されるのだろう。

私たちはお金を使って生活している以上、国家のイヌだ。国家に忠誠を誓っておる。

イヌイヌと言ったって、幸せならば文句などないだろう。

これほど多くの人間が忠誠を誓っているのだから、国家が発行を保証しているお金だってもっと上手に使えるのではないか?

乱暴な言い方をすれば、カネさえ与えれば、忠誠を(誓わなくとも)誓っているかのように振る舞ってくれる。つまりは統治下に大人しくおさまってくれるのだから。

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現代ってギャンブル性がないようにないようにとマネージする傾向があるように見受けられるけれど、それって逆なのではないか?

真にギャンブルを愛し、理解している人というのは、当然デカいリターンを狙う。けれども、負けも含めて愛しているのだから、守銭奴の如く儲けを安定的に得て無限に増やそうなどとは思わないものなのではないか?カネは天下の周り者。

ギャンブル(投資)はどんどんやらせる。

でも儲けはぶんどる。所詮あぶく銭でしょ?ということで。

真のギャンブラー(投資家)ならそれでもギャンブルは続ける。そしてぶんどられ続けても頓着しない。ギャンブル自体が楽しいのだから。結果、ベーシックインカムの財源は確保される。はず。

難題は。当然ながら守銭奴。

守銭奴の厄介なところは、守銭奴と気付いていないところ。

気付きさえすれば人間、それなりに自制は利く。

逆に、気付かないと、全くもって際限がない。文字通り無限の欲望。。。

ローリスク・ローリターン。できればリターンはハイを希望。または、ギャンブル好きにリスクを負わせ、ハイリターンをかすめ取る。合法的に。

この体制を敷くため、徒党を組んで様々な制度を張り巡らせる。勿論道義的にも正しいことをしていると信じ切って。誰だって混沌より安定を求めるよね?

そもそもローだってリスクなんて負えないって人生があることを、彼らは知らない。ローだろうがハイだろうがリターンなんていらない。まずは衣食住を賄える状態でいたい。現実は賄えていないんだけれども、その現実を淡々と受け入れる以外のやり方はない。

安定を求める心は誰にだってある。

それ自体は非難には値しない。

ただ、報酬を求める心には注意が必要だ。

労力を費やすなら相応の報酬を得ようとするのはごく自然。

誰がそれでいいと言い出したのやら。。。

イージーな理屈って本当にろくでもない。

21世紀の現代で、各々の労力に見合った報酬って一体いくらよ?なんて問えば、ただの面倒くさい奴だ。

わしゃそれでも言わしてもらいまっせ。

値段付けるならゼロってのはない、と。

どんなうまい計算方法を考案しようが、オートマチックに決まる報酬額なんてない。

報酬額は時の運。

それでも構わないという気持ちで為すのが努力。費やされる労力はその人なりで全く自由。その時、その場その場に応じる程度。特段報酬に値するような何かでもない。それを努力と呼んでも構わないけれど、どんな人だって常識的に調整はするってだけのこと。

なんだかんだ言って報酬額を計算可能・予測可能だと言い張るのはパワーの濫用。

報酬が一定額保証されなければ努力もできないってんなら、支払い可能な報酬が出たところで貰える権利なんて無いといっていい。頂けるものを当然と考えるような人間にモノを与えれば、たちまちモノの流れが悪くなる。当然の報酬を求めるような”努力”なんてしようとしなくていいから、ベーシックインカムを要求しなさい。それが自他共々(社会)のためだ。

たまにではあっても定期的に顔を合わせなきゃ群れへの帰属意識が湧かない、というのも妙な理屈・風習だ。

そりゃ幼子にずっと一人でいていいなんてことは言えない。できるだけ多様な人間と触れ合うべきだ。

それでも、二十歳にも三十歳にもなって直に会った人のことしか理解できないなんてのは未熟にも程がある。

全く会う可能性もないような人のことなら、敵視したり、小ばかにしてたって構わないってことですか?

もっと言わせてもらえば、成熟したというのなら、実際に知っている人を通して、決して会うこともないだろう人々のことを想像できるぐらいにはならなければね。

いい年して群れよう群れようとしている人間は、守銭奴の素質があると疑ってみて間違いない。

特に社会的規範に則っているような顔をしている人々は要注意だ。

それができるパワーを持っているからそうする。当然の権利だという顔をして。

より力のあるものが徒党を組んで形成・維持できるものである以上、社会規範なるものに正義などない。

必要性は勿論ある。

でも、規範の内側にある(難なく規範を守れる)者は、外側に置かれざるを得ない(どうひっくり返ったって守れない)人間について思いを致すべきだ。

そうでもしなければ、永久にそちらへモノが流れないことに気付きはしないだろう。

せき止めているのはあなた方の安定を求める心。

それは非難しない。

でも報酬はダメだ。

ルールを守ってんだから報酬頂戴とか。

あり得ない。

ましてや自分たちが守りやすいように作られたルールなんて、守って報酬要求できるようなもんではないでしょう。

過度なギャンブルに警鐘を鳴らすのはいいけれど、一生を通して一切ギャンブルに打って出ることがないと頑なに信じているような人間を大量に生産するのは破滅的だ。そういう人間は決して本当の意味で自らリスクをとる、無条件で責任を負う、ということを理解することがないからだ。

生まれてから死ぬまで快適に囲われた庭で、当然の報酬を貰い、人生の悲喜こもごもを弁えたつもりでいる。

皮肉なことに、そうして守られている人間ほど、群れの価値を知らない。戯れに卑下なんかしてみちゃったりもする。

群れの外を想像しないんじゃあそれも当たり前。

群れは私たち一人一人の想像の仕方一つで形や境界を変え得る。

同時に複数の群れにだって属すことができる。

物理的な近接や相似などを頼る群れから卒業して生きてみる。

十分にトライしてみる価値があるように思われる。

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