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書店の減少や資本主義の持続可能性についてあれこれ

書店の減少というニュースをあちこちで聞きますが、この流れについて、どう考えますかね。

ある意味、資本主義が成功している証拠でもあるのかなと。

需要が飽和した「高原社会」(山口周)では、認知資本主義みたいな動きが強まる。認知的格差こそは差異を生み、したがってカネを生むわけです。

産業の高度化が極まると、知的格差が付加価値の源泉になる。そういうところでしか「稼げない」ようになる。

資本主義の持続可能性という点では、したがって、本の文化は衰退した方がいいし、というか現に、出版されている書籍や記事の方も、どんどんクオリティを切り下げている感も否めません。

専門家信仰が昂じて、解像度の低い、根拠の詰められていない雑な話ばかり溢れ、しかもそういうのが公式の物語として、権威を帯びて通用してしまう。

その辺りを推し量る指標が、「それは陰謀論だ!」判定の拙速さですよね。中身も見ず、公式見解と異なるというその一点でもって盛り上がって陰謀論認定してしまう。

その程度に公共空間で知が雑に扱われるぐらいが、資本主義の持続可能性にとっては居心地がいいんだと思います。そういうのをある程度放置し、追認しないと、自分のとこのビジネスも成り立たなくなる。そういう予感の集合が、現代社会の知的水準を低位に調整している。

教養とは金を使わず人生を楽しめることですからね。みんながミニマリストや僧侶になったら、経済は成り立たない。

逆に、本の良さは、わかる人にはわかるわけで、多少値上がりしても買う人は一定数いるんだと思うんですよね。スタバのコーヒーが 500 円になったら行かないという人でも、本が値上がりして 2000 円、3000 円になっても頑なに「俺は買うよ」という人はいるでしょう。本のような官能的奥行きを湛えた代物は、金銭的な値上がり耐容度が高い気がします。いずれにせよ、曲がりなりにも文化としての「本のある風景」は守られると。

一応、図書館やメルカリというサービスもありますしね。僕も、本はなるだけ地元の本屋で買うようにしてますし、キャッシュレスだと店側の手数料負担もあるっぽいので、なるだけ現金で支払うようにしております。

今後は、投資家や富裕層が読書階級を形成して、自宅に立派な蔵書があるだけで、ブルジョワだ庶民の敵だ認定がなされる世の中になっていくのかもしれません。というかすでに、Zoom とかで後ろに本棚が映ってたらハラスメントらしいですし・・(泣)


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