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なぜあなたのnoteは読まれないのか


「9人」。



これ、私が初めて書いたnoteの閲覧数。

掲載してからもう3日も経ってんだよ? 3日も経ってこれ?


というかこの9人の閲覧数って、絶対に私の閲覧数も入ってるでしょ。だとしたらもう読んでくれた人って実質3人とかなのでは。

あまりに辛くてもうそのnoteのアカウントは更新してないんだけど、私この時、本気で考えた。


「なんで私のnoteは読まれないのか?」



9人という数字があまりにショックでちょっと本気出して考えた。

水曜日の夜。
仕事終わってお風呂入ってパジャマに着替えてビールぷしゅっと開けて本気で考えた。確か「のどごし生」だったと思う。節約中でエビスとか買えなかった。

夜、ビール片手にA3の紙を机に広げて「なんで読んでもらえないのか」その理由を書きまくった。
一通り書き終えた後、私が書きだしたある文字が目に飛び込んできた。

「読まれる努力をしていないから」


これじゃない?私のnoteが読まれない理由って。

だってnoteではものすごい数のコンテンツが毎日掲載されてる。まるで滝だよ、滝。
その濁流の中に、私が書いた原稿が掲載される。
私の書いたnoteは、そのほかの人たちが書いたすごい数のnoteに埋もれるわけだ。



毎日掲載されるすさまじい数のnoteから


「自分のnoteを選んでもらう努力」を


私はしたのか?




してない。秒で断言できるわ。してない。絶対にしてない。
noteを書いている何十万って人達の中で私が一番してない自信ある。
胸はって言える。


タイトルは適当につけたしサムネイルも適当に選んだフリー素材だし冒頭のつかみは失敗しているし読み手にスクロールさせるだけのコンテンツ力も勢いも熱量もまったく、ない。

これでなぜ、「自分のnoteを誰かに読んでもらえる」って思ったんだろう?

そう思うくらい、分析してみるとひどかった。



非公開にしちゃったからもうタイトルさらしちゃうけど、こういうnoteを書いてた。

「最近買ってよかったもの」
「転職することにした理由」
「今月読んでよかった10冊の本」

誰が読むん?


って、今見ると本気で思う。

私がもし日本を代表する超人気アイドルとかだったら、まぁこのタイトルでも読む人はいっぱいると思う。
でもこのnoteを書いた時の私は、noteを始めたばかりの初心者だ。フォロワーだってたったの3人。
読まれるわけがない……。


毎日noteでは怒涛の数の原稿が掲載される。その中から自分のnoteを選んでもらう努力をしなければ読まれることは当然、ない。そんなことも気づかず

「閲覧数9人じゃないか!なんで!?(号泣)」

ってわめいてた自分がちょっと恥ずかしい。


私この時思った。なんかもう

「だれも自分の文章を読みたいと思わない」


という前提で書いたほうが良いんじゃないかって。
だってその前提で原稿をかけば、「どうしたらクリックしてもらえるか」を死ぬほど考えるようになるから。


文章は書いて終わりじゃない。

届けるまでだ。

読者に届けるまでが書き手の仕事だ。




だから、どうやったら届けられるのかを死ぬほど考える。頭パンクしそうになるけど大事な仕事だと思う。

だって届けられなかったら文章は読まれない。読まれなかったら書いた意味がない。だから、「届けるまで」が私ら書き手の仕事なんだと思う。



じゃあ具体的に何すればいいのか?

めっちゃ考えたんだけど、私ね、コレだと思う。

タイトルに9割の全力を注ぐ。

残った1割で本文を書く。


だってクリックされなかったら読まれないじゃない。
だからクリックが全て。クリックが、全てだよ。


そのクリックをしてもらうためには、やっぱりタイトルが一番大切だと思う。
タイトルに9割の力を注いで、残った1割で本文を書く。
これが私が出した正解だった。



だって見てよコレ。

さっきとったnoteのキャプチャ

noteってマジですごい数の原稿が続々とアップされてるじゃない。この大量のnoteの中から「自分のnoteをクリックしてもらう」という難関を突破しないといけないんだ。

「おっ、なにこれ面白そう」


と思ってクリックしてもらうには、やっぱりタイトルに労力を全振りするべきだと思うんだよね。


クリックされなかったら書いた文章は日の目を見ない。

せっかく書いたわが子のような文章が、生まれることなく死んでしまう。


だから、その文章を生み出した母として。
読者に届ける責任を負った書き手として。
タイトルを練りに練りまくらないといけない。

それこそ、書き手としての、命を削ってでも。そうしないといけないと思う。



ここが紙とは決定的に違うところだと思うんだよね。

紙だとほら、買っちゃった後は前のページがおもしろければ「次はどんなことが書いてあるんだろう」とワクワクしながらめくってもらえるじゃない?で、そのまま読んでもらえることが多い。多分。知らんけど。

でもWebは違う。クリックされないと、書いた文章はもう日の目を見ることがない。


クリックだ。

クリックされることが全てなんだ。


だから、ガチで本気出して最初のnoteを書いた。タイトルに9割の労力を注いで。

そうして生まれたnoteがこちら。


どう?


「100万円貯めて、汚部屋から脱出してみた」


このタイトルならクリックしたいと思う人、少しはいるんじゃないかな(いなかったらゴメン)。
でもタイトルに全振りしたおかげで、閲覧数はいまだに伸び続けてすごい数になってる。こんなPV人生で見たことないよ。
いまだにダッシュボード見ると「えっ、何PVなのコレ。いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」って指さして数えてる。


でもさ、タイトルがなんとか書きあがったとしても問題が残ってる。

そう、本文。


クリックしてもらうことに成功したとしても、本文がダメだったら「つまんないな」と思われてあっという間に離脱されちゃう。

自分がそうだもん。

「おっ」と思ったnoteがあってクリックしても、本文がイマイチだったらすぐ閉じちゃう。



だから私、最初の汚部屋のnoteを書いた時に「本文も」マジで全力で書いた。でも、書いていて気付いた。ある大切なことを忘れていることに。

本文ってさ、書くのに没頭するとあることを忘れちゃうんだよね。

それは何か?

「読者にとってのメリット」だ。




私これ本当によく忘れる。

「自分が書いた文章を読むことで、読んだ人にどんなメリットがあるのか?」。これ忘れるとか書き手としてあるまじきだと思うんだけど、油断すると秒で忘れる。



なんで忘れるのか、ちょっと考えてみたんだけど「自分がある重大な勘違いをしているからだ」ということに気づいた。どんな勘違いかっていうと、

「何を書くのかは私が決める」

という勘違い。

いや、このスタイルでも全然良いと思う。
というかそのスタイルが求められるタイプのnoteもいっぱいあると思う。だから一概に、「何を書くのかは私が決める」というスタイルで書くのが間違いだとは思わない。



でもさ、私はまだnoteを始めたばかりのド素人。だから、「何を書くのかは私が決める」というスタイルじゃダメだと思った。

じゃあ誰が決めるのか。

「何を書くのかは読み手が決める」


と思うんだよね。もちろん文章の種類によるけど。




たとえばさ、「新しく買ったスニーカー」のレビューnoteを書くとするじゃん?すると読者は

「他のスニーカーとどう違うの?」
「値段はいくら?」
「どこで買える?」

といろんな疑問を抱くじゃない。

この「読者が持つであろう疑問」に答えていくことで、私ら書き手は文章をつむぐことができると思うんだ。

文章って、書き手が書きたいことを書くだけじゃ成立しない。読者が知りたいことを書かないといけない。
だから私は何を書くのかは書き手ではなく「読み手が」決めると思う。そういう文章を書いてなかったから、私のnoteは誰にも読まれなかったんだ。



だから、全力で読者が知りたいことを書いたnoteを書き上げた。「100万円かけて、汚部屋を脱出してみた」というタイトルを添えて。

書き上げたnoteを掲載した後めっちゃ不安だった。

閲覧数が5人10人と増えていく中「私が書いた文章どうだったかな」って気になった。「大丈夫だったかな」ってマジで思った。



自分が書いたnoteが"大丈夫だったか"どうかを判断するやり方って何かあるかなって考えたんだけど、「あ!このやり方があるじゃん!」と一つ見つけた。

それは「コメントが来たかどうか」。

コメントが来てたら「自分が掲載したそのnoteは"大丈夫だった"」と判断していいと思うんだよね。なぜなら

文章を書くことは、書き手と読み手のコミュニケーションだから。



文章ってさ、伝えたいことがあるから書くわけじゃない。
伝えたいことがあってそれを伝える人がいる。
そして、それを聞く人がいる。



普段の生活では「声」というメディアでそのやりとりをしているけど、それが文章では「文字」というメディアに移行しただけなんだよね。

だから、文章は書き手と読み手の「会話」なんだ。
つまり、「コミュニケーション」だ。コミュニケーションである以上、

「読み手からの反応がない」文章は0点


だと思う。だって相手から反応がないなんて、コミュニケーションとして破綻しちゃってる。一方的に自分が喋って終わりなんてそれはコミュニケーションとは呼べないと思うんだ。


だから私、自分の原稿に反応が一切なかったら

「ああ、0点だったんだな」

と反省するようにしている。



いい原稿って、必ず読み手からの反応があるんだよね。
noteの中を徘徊してると本当にそう感じる。

いいねが1ケタでも、全然バズってなくてもちゃんと反応があるんだよ。
そういうnoteを見つけると「自分も見習おう」って背筋がピンとひきしまる。


これってさ、「読者が生身の人間である」と書き手がちゃんと理解していないとできないと思うんだよね。

原稿ってほら、書いてるときはパソコンのモニターの前に座ってるでしょ。目の前に生身の読者いないでしょ。だからつい、

壁に向かって話しかけるような、独り言みたいな文章になっちゃう。

これマジで私いっつもそうなりがち。「なにこれただの独り言じゃん」みたいな文章になる。



だからそもそも私、「書く」っていう言い方があんまり好みじゃないかも。

「書く」というと、まさに目の前に誰もいない机に座って伝えたいことを文字にのせてつむいでいく作業になるじゃない。目の前に誰もいないから、つい「誰にも話しかけてない」ような独り言になる。

だから、「書く」というよりも「私の話を聞いてもらう」ぐらいの表現がちょうど良いんじゃないかな。


noteの中を徘徊していると、たまに「居酒屋で大学の時の女友だちが話しかけてくるかのような文章」を書ける人に出会う。
ああいう文章見ると机に頭つっぷして「何喰って育ったらこんな文章かけるん!?」って悶絶する。

本人は多分なんにも意識せずにこういう化け物みたいな文を書いてるんだろうけど(そうじゃなかったらゴメン)、私みたいに油断すると「ただの独り言」になるタイプからすると本当に羨ましい。



そんな私だからこそ、文章を書くときは常に心掛けている。

「モニターの向こうには、生きた人間がいるんだ」


って。頭のどこかで意識するようにしている。そうすれば読者によりそった、読者からきちんと反応があるいい原稿に仕上がるから。



こうやって「モニターの向こうには、生きた人間がいる」と意識すると、めっちゃ良い変化がおきるんだよね。

どんな変化かっていうと、自分のつむぐ文章が

たった一人に向けて書いた「ラブレター」


みたいになる。「ただ一人、他でもないあなたにむけて、書いた」って文章になるんだよね。

これすごく良いなと思った。だってこういうラブレターくらい凄まじい熱意が込められた文章って、絶対に、マジで、読み手に伝わるから。




ほら、歌手の宇多田ヒカルさんっているでしょう?宇多田さんも

「時代や社会に向かって歌ったことはない。

つねに部屋でひとりヘッドホンをつけてる【誰か】に向けて歌っている」

と言ってて。文章と同じなんだなって思ったよ。



でもさ、その「たった一人」に向けて書く時。
そのたった一人に対して「誠実」であることが書き手には求められると思うんだ。

私まえに調べたことあるんだけどさ、

人間の読書速度って、1分間にだいたい400文字なんだって。

つまり原稿の文字数が4,000文字だとしたら、読んでくれるその人の時間を10分奪うことになる。



10分だよ、10分。たかが10分じゃない。だって

時間は、その人の命そのものだから。


その人の10分という命を書き手である私たちは「いただいている」んだ。

その人の命を「いただく」立場だからこそ、読むに値する文章に仕上げるのが書き手である自分の務めだと思う。




自分が書いた文章を読むために、読み手は大切な時間を使ってくれている。
我々は読み手の時間を奪っている。だから、その時間を少しでも短くできるように努めなければいけない。だから、文章って、

何を書くかよりも「何を書かないか」


が何億倍も大切だと思うんだよね。

今まさにあなたが読んでいるこのnoteもめっちゃ削って圧縮したのよ。書き終わった後に1/3に圧縮した。読んでくれる人の貴重な時間《いのち》を奪わないために。



ここまで努力するようになって、ようやくnoteを読んでくれる人たちが増えてきた。本当に少しずつだったけど、ようやく。noteを始めた頃は

「なぜ私のnoteは読まれないのか?」

なんて考えてたけど、今思うと「読まれなくて当然だよ」と反省してる。
だって読まれるための努力を一切してなかったんだもん。



とにもかくにも、書き手としての全力を出し切ってなかった。読み手に対する思いやりも気遣いも一切なかった。だからスッカスカの文章になってた。今ならわかる。

文章ってさ、インクで書くんじゃないんだよ。

血だよ。血で書くんだ。自分の血をインク代わりにして書くつもりで、文章を書くんだ。


だから書くのは辛い。


辛くて当然。血で書いてんだから。
血ぃ出てたら絶対痛いでしょ。だから書くのは痛いし辛い。



「書くのが辛い」なんて昔思ったことあるけど、今考えると我ながらもうホントに意味不明。
「頭痛が痛い」みたいな感じ。「馬から落馬する」みたいな感じ。



「書くのが辛い」ってもう意味がわからん。
もはや翻訳不能なトートロジーだ。それでは言葉が重複している。
「書く」という動詞がすでに「辛い」という意味を内包しているのだから。


書くっていうのはそういうこと。辛くて痛いもんなんだ。
でも、文章という名の自分のわが子を産むために、この産みの苦しみに耐えるのが書き手である私らの務めだ。

それが「書き手という母」のあるべき姿だ。




そうやって痛い思いで出産した文章は、絶対に、絶対に読者に響くと思う。
失血死するんじゃないかってくらいの血の量で書いてんだから。
それくらいさらけ出して書いてんだから。そら絶対に読者に響くよ。

たまに血どころか内臓全部ぶちまけてる人いるけど、もうそれくらいやったほうがいいと思う。



だってすべてをさらけだして書いたほうが絶対に良い原稿になるから。
素っ裸になるくらいの気持ちで全部さらけだして書くんだ。

人の心をつかめるのは、マッパになった人だけ。


人気のある文章、人気のあるブログ、人気のあるnote。

いっぱい見てきたけどみんなマッパなんだよね。真っ裸になって、自分をさらけだして文章書いてる。
やっぱコレだよ。他者の心をわしづかみにできるのは。マッパになった人だけなんだよ。



じゃあマッパになったら自分のnoteは読まれるようになるのか?

って考えたんだけど、実際にマッパになった状態で(もちろん比喩ね)、書いた原稿は「なんだこれ」っていう仕上がりだった。正直、自己採点で15点だった。赤点だった。

「あれ、マッパになれば100点の原稿かけるんじゃ?」って思ってたから拍子抜けしちゃった。



せっかくnoteに掲載するんだから、せめて、せめて80点の原稿にしたい!

そう思ったから自己分析してみた。そしたらすぐわかったよ、原因が。なんだったと思う?

それはね、圧倒的なインプット不足だ。



アウトプットの「質」が低い時は、

インプットの「量」が足りていない。


これ私の持論なんだけど、とにかくコレだと思う。

「アウトプットするためには、その8倍のインプットが必要」

と言われることがあるけどさ、それくらいインプットの「量」って大切なんだよね。



文章ってね、料理にすごく似てる。


冷蔵庫に材料がないと料理ってできないじゃない?
物書きも一緒で、頭の中に情報がないとなんにも書けない。だからひたすらインプット。
だからインプットをめっちゃ頑張った。最初のnoteを世に送り出す前に、本15冊は読んだと思う。



インプットする時にさ、気を付けたことが一つある。それは、その本の著者がどのようにして

「読者に対して本の主題を "説得" させようとしているのか」

をよく見ておくことだった。ここに注目して読み進めるの、本当にオススメ。




本ってほら、伝えたい「主張」があるから書くと思うんだよね(本の種類によるけど)。となると、最終的にはその主張を軸に読者を「説得させる」ことがゴールになる。

説得っていうとついつい

「私の主張が正しい!だからこれは受け入れられるべき!」

なんてなりがちだけど、本来説得って相手を黙らせることじゃない。一緒に考えてもらうことだと思う。

だから、どうやって「読者の頭を動かす」文章を書いているのか、じっくり見ておくと後々自分がnoteを書くときに書きやすくなるんだよね。



そういう文章を書ける書き手って、読者に対して誠実で謙虚でとてもやさしいと思う。超好き。

彼らは絶対に、正論をそのままぶつけることはしない。ほら、

「正論は正しいけど、正論を言うやつは正しくない」

なんて言葉もあるでしょう?正論が持つある種の暴力性を深く深く理解してるんだと思う。




だから、どうしたらまず話を聞いてもらえるのか、慎重に、相手のことを思いやって文字をつむぐんだよね。

主張することは簡単だけど、主張を受け入れてもらうことは簡単なことではない。

そのことを、すごくよく理解しているから。



で、私が15冊の本を読み終わった後にやったことは何かっていうとリサーチだった。何をリサーチするのか?それは、読者についてのリサーチだった。だってほら、

「誰に向けて書くか」で「何を書くか」が決まる


じゃない。最初に書いたnoteは「汚部屋を脱出してみた」というnoteだったんだけど、たとえば

・「今まさに汚部屋で死ぬほど困っている人」なのか

・「別に部屋は散らかってないけど、雑誌とかで他人の部屋さらし特集を見るのが好きな人」なのか

・「自分は汚部屋じゃないけど、実家がゴミ屋敷でどうしたもんかと困ってる人」なのか

で書く内容がガラリとかわる。

だから、「何を書くのか」を決めるために「誰に向けて書くのか」を決めて徹底的にリサーチした。ここが定まるとnoteが一気に書きやすくなる。超好きなやり方。



で、「誰に向けて書くか」が決まったから私は次に文章の骨子をつくった。構成案ってやつだね。これ私の感覚だけど

リサーチ……7割

構成案……2割

執筆……1割


ぐらいの配分にすると良いnoteに仕上がる気がする。

この構成案をつくるやり方はいっぱいあるけど、「たくさんの人に読まれるnoteにする」ために、私の場合は次の2つだけ考えてる。

(1)誰に、何を伝えるのか?

(2)伝えた結果どうなってほしいのか?

これらを頭に入れながら、私は構成案をつくってる。


よくあるPREP(プレップ)法(結論→理由→具体例→結論の順で書く文章作成術)とかで構成案を作ってもいいんだけど、それにこだわる必要は全然ないと思う。

私がそうなんだけど、こういう型を使うとついつい思考停止しちゃっていい構成案に仕上がらないことが多いからさ。

とにかく(1)誰に、何を伝えるのか?(2)伝えた結果どうなってほしいのか?だけに集中する。これが構成案をつくるときに私がやってること。



でも、最近はカッチカチに固めた構成案じゃなくて、ゆる~い構成案で書くのも楽しいなって思う。本か何かで読んだんだけど、

執筆って「旅行の仕方」に似てるんだって。


最初から最後までカチカチに計画を立てる人もいれば、最初と最後だけ決めておく人もいるし、道中立ち寄る場所だけ決めておく人もいる。そんな旅の仕方のように、ゆるい構成案にしてみても面白いかも。




文章ってさ、面白く書けるのは実は筆が進んでいるときではなくて、

実は筆が滑った時


なんだよねカチカチの構成案だと筆がすべりにくいし。ゆるくしておくのもまた一興だと最近思った。


でも、noterならわかってくれる人多いかもしれないんだけど、原稿って細部にまでこだわるといつまでたっても完成しなくない?私マジでこのタイプ。

「完璧を目指すよりまずは終わらせろ」


って言葉があるけど、原稿を書く時も、完成させることがとても大切なんだよね。私もよく師匠に言われた。

「確かに、迷い狂うのがプロだ。

だから、ボクらが手掛ける原稿は、時間がかかる。

だけど、ボクたちは仕事で原稿を書いている。だから、とにかく"完成させること"が何より大切なんだ」

って。こだわろうと思えば、原稿っていくらでもこだわることができちゃうからね。でも、そんなことをしてると原稿は永遠に完成しない。

「諦めたら、そこで原稿は完成ですよ」


ぐらいの気持ちも同時に持っておくと良いんだよね。



で、こうして「汚部屋を脱出してみた」のnoteが完成した。実質、初めて書いたnoteだった。完成したからすぐに掲載したかったけど、我慢。なぜすぐ掲載しなかったのか?それは、

「完成した原稿を圧縮する」

という作業をまだやっていなかったからだ。

文章ってのは読了されてなんぼ。


読了されるためにやるべきことはたくさんあるけど、そのうちの一つが「圧縮」だと思うんだよね。だって長い文章なんて、読むの疲れちゃうじゃない。

今このnoteを読んでる人で

「noteの閲覧数が増えてきた!でもフォロワーが全然増えない」

「閲覧数が多いのに、全然いいねが伸びない」

って人、いないかな?


私このフォロワーが全然増えない期間がすごく長いこと続いてたんだけど、今考えると秒で理由がわかる。

文章が長いからだ。

長いから読了されない。読了されないから、noteの最後の方にある「フォローボタン」までいかない。noteの最後の方にある「いいね」ボタンまでいかない。

そのことに気づいてからは、掲載したすべてのnoteを「圧縮」した。するとスルスルとフォロワーもいいね数も増えていった。フォローしてくれた人、ありがとう。

やっぱり、読んでくれる人の負担を減らすためにも「圧縮」の作業は絶対要る。そう思った出来事だった。




でね、圧縮が完了したら、私は原稿を一晩寝かしてるの。完成してもすぐにアップしない。

一晩置くと前日書いた原稿の内容なんて結構忘れてるから、「他人」として客観的かつ冷静に自分の書いたものを読めるんだよね。すごく好きなやり方。

自分自身を、自分の記事をよむ「最初の読者」にする


って感じかな。

そうやって読者目線で見た原稿って、けっこうあちこちが拙かったりするのよ。その拙い部分を掲載前にしっかり補ってあげて、そうしてようやく原稿が完成する。

こう考えると、めっちゃ大変だよね、note書くのって。



こうやって、私はなんとか少し成長した気がする。noteを始めたばかりのころに抱いた疑問、

「なぜ私のnoteは読まれないのか?」

を真剣に考えまくった結果、「読まれるnoteを書く」ためのフローもいい感じに出来上がったと思う。

(1)インプットする
(2)誰に向けて書くかを決める
(3)構成案をつくる
(4)原稿を書いて圧縮
(5)一晩寝かせて完成

って感じのフローだ。



正直、私がやってるこのフローをすっとばして凄まじく魅力のある文章を書いている人は大勢いる。noteを毎日見てるからわかる。こんなフローを踏んで、ゴリッゴリの戦略を立てずともスラスラと文章をつむげちゃう人が。

やっぱり時々うらやましいなって思う時はある。本人は

「思ったことを書いただけ」


とか言ってたりするけど、私みたいな凡人はそれができない。できないから「どうすればできるのか」を徹底的に考えてフロー立てて書かなくちゃいけない。



たま~に、いる。

私みたいなタイプが、noteに。
「ああ、この人は魅力あるnoteをスラスラとは書けないから、私みたいにゴリッゴリの戦略を立てて文章を書いているな」って人が。そういう人のnoteを見てると

表現者として苦しみぬいた姿が、文章から伝わってくる。


「このシーンを際立たせるためにこっちをこうする」とか、「ここまで読んでもらうためには、冒頭のこの文章をこうしないといけない」とか、いっぱい考えた痕跡がある。

そういうゴリゴリの戦略を張り巡らせた文章を見ると「え~私といっしょ~♡おそろい♡」とか思う。
なんかすごい親近感わくんだよね。「大変だったでしょ、ほんとお疲れ」って。



しかし、まぁ、なんだ。

戦略だのフローだの小難しいことをつらつら書いてきたけど、やっぱり最後は「熱意」だと思う。

熱意っていうか……うーん……。熱意のレベルがすごすぎて、もはや熱意ではなく「怨念」と呼んだ方がふさわしいくらいの熱意かな。



note毎日見てるけど本当にそう思う。

いろんな人が文章をつむいでいるよね。うれしかったこと、悲しかったこと、つらかったこと。いろんなことを書いている。

みんな思いおもいに自分の心の内を書いてる。

文章を書くことで他者を愛したり、虐げたり、虐げることを愛していたり。
愛によく似た憎悪をただまき散らしていたり。
子どものころに避けることができなかった外傷を、誤って愛と呼んでいる人がいたり。


やっぱりアレだよ。
読まれるnoteってのは、血で書かれたものだけだよ。
インクで書かれた文章には惹かれない。
少なくとも私は、ね。



血でかかれた「すべてをさらけ出した文章」がやっぱり他者の心をつかむ。つかむっていうか、もう手をグっとつかんでそのまま地下深くに幽閉するレベルの力があると思う。



たしかに、正直、めちゃくちゃだよ。

論理も流れもめちゃくちゃ。助詞はまちがってるし助動詞がおかしいし副詞が動詞から離れてて読みにくいし脱字はあるしタイポも満載だし誤用表現ありまくりだし主語と述語がねじれてるし。

プロの校正に出したら赤入れ(=修正)が入りすぎて原稿が真っ赤になって返ってくるくらい文章そのものはめちゃくちゃだ。
ってか私のnoteも全部そうだし。



でも、それで良いし、それが良い。
血でかかれた「すべてをさらけ出した文章」ってそういうもんだから。

そういう、「頑張ってかっこよく書こうと努力しました」っていう文章よりも、「正気を保つことに失敗しました」みたいなトチ狂った(誉め言葉)文章の方が100倍魅力的だと思う。





このnoteはさ。「読まれるnoteの書き方」をテーマにして書いたけど。結局のところ

「表現せずにはいられないこと」を書くいいんだと思う。


そういう文章って、絶対に人の心をつかむから。

絶対に読まれるnoteになるから。



「書かずにはいられなかった」。

そうやって生み出されたnoteって、書いた本人のつぶやきを見ていると意外と卑下されてたりする。

「完全に自己満足のnoteだから」とか「このnoteは自分にとってはただの排泄物」とか「文章としてドバっと自分の中から外に出ちゃっただけ。ただそれだけ」とか。



でもそういうnoteこそ読まれると思う。

「書かずにはいられなかった」。

そんな文章こそが、他人の心をつかんで離さないから。



だからそういう「書かずにはいられなかったこと」を見つけて、私もあなたも、文章をつむいでいけばいいんだと思う。

(了)




あとがき

すんごい久々に筆とった。数か月ぶり。数か月ぶりにnote書いた。


このnoteは、レオンさんというnoterの文章を読んだ後、「note書きたい欲」が爆発して書いた。
激レアだけど、たまにこういう「この人の文章を読んでいるとむしろ自分が文章を書きたくなる」って人いるんだよね。本当に稀だけど。


ちなみに昨日、寝る前に布団の中でスマホで読んでたnoteはコレ。性癖に突き刺さる好みド直球のnoteだった。文体がマジで好き。

こういう人がいるおかげで、noteって成り立ってるのかも。
だって本当に書きたくなるんだもん。読んだだけで。
スランプに陥ってる時はこういうレオンさんみたいな人の文章を読むのがいいのかもね。
特効薬として効き目抜群だった。

例えるなら口をガッ!とつかまれてガソリンたっぷりぶちこまれて更に火のついたマッチを中に入れられたって感じ。
爆発するよね、書きたい欲が。


そもそも私、昨日と今日は寝て過ごす予定だったけどこうしてパソコンの前でカタカタ書いてるんだもん。自分でも本当に驚き。

書かずにはいられなかった。
隙あらば寝ていたいと思っているこの私が。
筆をとった。数か月ぶりに。


私毎日noteでいろんな人の文章を読んでるんだけど、本当に時々こういう人がいる。
noteってフォロワーが10万人いるような人がどうしても目立ちがちだけど、フォロワーがまだ10人とかなのにものすごい化け物みたいな文章を書く人が時々いる。


広大な鳥取砂丘の砂のなかから、たった一粒のダイヤモンドを見つけた気分だ。


こういうお宝を見つけるために、書かない時期が長くあったとしてもこれからもずっとnoteを徘徊しつづけようと思う。





【関連note】いつか本を出したいあなたへ


「いつか本を出すのが夢」「一生に一度、本を出してみたい」

と思ってnoteの更新を頑張っている。
でも、なかなかイイネがつかない。なかなかフォロワーが増えない。
出版なんて、夢のまた夢……。

そんなことないです。


私がnoteで書いたエッセイ「100万円貯めて、汚部屋から脱出してみた」が書籍化されました。

私はnoteのフォロワーがまだ30人程度しかいなかった時点で書籍化にこぎつけました。
また、今回書籍化されたnoteは初めて書いたnoteだったので、投稿件数はたったの1件。

noteのフォロワー30人、

投稿件数1件でも

書籍化を実現できるんです。



その書籍化を実現するためにやったことすべてを、包み隠さず1.7万文字というボリュームで徹底的に解説しました。

題して、「フォロワー30人、投稿1件なのに『noteの書籍化』を達成した方法」という有料noteです。


この有料noteはありがたいことに人気noterの方からもうれしいレビューが届きました!

※この時はnoteのコンテンツ量が今の10分の1以下だったので、はるかに安い980円で販売してました。


【このnoteはこんな人にオススメです】

「いつか自分のnoteを出版したい」「一生に一度、自分の本を出したい」と思っている人
・本を出したいけど、何から始めていいのかわからない人
・「出版社に持ち込む」方法があるのは聞いたことがあるけど、どこの出版社に持ち込めばいいのか?何を持ち込めばいいのかわからない人

» 「フォロワー30人、投稿1件なのに『noteの書籍化』を達成した方法」を読む


「いつか本を出したい」ではなく、「10か月後には近所の本屋で自分の本が並んでいる」ことを確実に目指せるnoteです。

私が書籍化するために行った「すべて」をそそいだ大傑作note。
「一生に一度、自分の本を出したい」と夢見る方はぜひ読んでみてくださいね。


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