ラジカセ

宮崎で今年最後の合宿が始まった。
合宿では朝練習から始まり、夕食までほぼ選手たちと同じスケジュールで動くことになる。家族に会えないのは寂しいが(家族はそう思っていなそうだが)、日頃乱れがちな生活リズムは自ずと整うので健康には良い。
朝練習後、朝食を食べて部屋に戻ると、ちょうど朝の連続ドラマの時間帯だったりして、つい見入ってしまう。今回のドラマは戦前からスタートして現代に至る内容だが、胸を打つ場面が多く、歳のせいか涙してしまうことも多い。
その中で、主人公とその両親、祖父母らがラジオから流れる落語を聴きながら大笑いしているシーンがあった。それを見て遠い記憶がよみがってきた。

それは1981年(昭和56年)のことだ。
その日は、私も兄も父の帰りをワクワクして待っていた。その日は父が中学生になった兄にラジカセを買ってくることになっていたからだ。それまでも携帯ラジオとテレビはあったので、今で言う生放送は見たり聞いたりできたが、録音する装置は我が家にはなかった。
外で父の自転車を停める音がすると、私は急いで玄関に向かい、父を出迎えた。

『お父さん、ラジカセ買ってきたか!』

『こうてきたぞ!』

『おかあさん!はよ、きいや!ラジカセ開けるで!』

家族揃って夕食を食べた後、まだ片付けをしている母を私がせかし、家族4人が揃ったところで父が慎重に箱からラジカセを取り出した。
縦15cm、横30cmほどの大きさでスピーカーは1つ(つまりモノラル)、ブラックボックスのようにシンプルなラジカセは、家族全員の視線を一斉に浴びて緊張しているようにも見える。

『このボタン押すと、カセットケースが開くぞ。』

そう言って父がボタンを押すと、カチャッ!と勢いよくラジカセが口を開いた。

『おおぉ〜すごい!』

『ここにカセットを入れて、この赤と黒のボタンを同時に押すと、録音がスタートするんや。』

購入店で事前に説明を受けていたのか、説明書も見ずにそう話す父が頼もしく見えたものだ。

『なんか録音してみよか…そや!歌、歌おう!』

『ほんなん、誰が歌うねん?』

『ほな、僕が歌うわ!』

と目立ちたがりの私が志願して、記念すべき初録音がスタートした。

『♪〜だから、チック!チック!チック!泣けるよね〜、横浜ジルゥ〜バァ〜♪』

架空のマイクを握った私は、その年にヒットしたマッチ(近藤真彦)の『ヨコハマ・チーク』を熱唱した。とりあえず1番だけ歌ったが、緊張もあってテンポはかなり速くなってしまった。

『…えらい短いな。それで終わりか?…まあ、ええか。ほな、聞いてみよう。』

父が巻き戻しのボタンを押すと、キュルキュルキュルゥ〜とラジカセが下を巻くような大きな音を立てる。
巻き戻したカセットを再生した時に聞いた自分の声は、想像とは違い、鼻にかかった甲高いものだった。

『僕、こんな声なんかぁ?』

『そぅや。勝彦はこんな声や。』

その後、父と兄は歌って録音したどうかは覚えていない。でも、おまえも歌えと父に言われて母が歌ったことはよく覚えている。

『♪み〜ず〜にただよぉ〜う、うきぐ〜さ〜に〜♪』

それは『みちずれ』という歌で、家族全員が知っていた歌だったが、母も緊張していたのか、あきらかに音程がズレていた。

『私、こんな声か?こんな歌下手ちゃうで!ひどいわー!このラジカセ!』

『歌下手なんはラジカセのせいとちゃうわ!』

父のツッコミに、母も含めて家族みんなで大爆笑。

父は毎朝、私たちが起きる前に家を出て、1時間半ほどかけて通勤していた。母は子ども2人の世話をしながら、家で内職。父は仕事を終えると、まっすぐ帰宅。残業で少し遅くなっても、家族全員が揃って夕食を食べるのがうちの習慣だった。
あまりにお腹が空き過ぎて、母にせがむと、

『お父さんに内緒やで。』

と炊き立てのご飯でお寿司のような塩むすびを2つ作って食べさせてくれた。
友だちがおもちゃやゲームを買ってもらっているのを当時は羨ましかったが、いま思うと、すごく幸せに満ち溢れた家庭で育ててもらって、両親には感謝の気持ちしかない。
あぁ、また泣いちゃいそう。