おじいちゃんのネギ焼き
私たち夫婦は、とにかく食べ物が好きだ。
それもあって、食事中や晩酌中には、飲食店の厨房に密着した動画をよく見ている。
どこのお店も本当に手際がいい。仕込み、調理、提供で大わらわなはずなのに、厨房がピカピカだったりすると、見ていて胸のすくような気持ちになる。
その日見ていたのは、若い店主が営むお好み焼き屋さんの動画だった。
ジュージュー焼かれる、美味しそうなお好み焼き。その魅惑的な映像を眺めていると、夕飯を食べたばかりのお腹が、きゅるきゅる音を立てた。
どうやら、私の胃袋は物忘れが激しいらしい。
動画に登場していた若い店主は、亡くなったおじいちゃんがお好み焼き屋を営んでいたらしく、子供の頃から、その背中を見て育ったそうだ。
やはり血筋というべきか。
キャベツの切り方から、鉄板の扱いに至るまで、すでに何十年と店を切り盛りしてきた手さばきで仕事をこなしている。
その仕事ぶりに感心していると、映像が、ネギ焼きの調理に切り替わった。
薄く溶いた小麦粉を、鉄板の上に丸く広げていく。まんまるの生地の上に鰹の粉をかけ、更にたっぷりの青ネギを散らしていく。ネギの焼けたにおいが、画面を通して漂ってきそうだった。
すると、完成間近のネギ焼きの下に、こんなテロップが映し出された。
そのネギ焼きは、おじいちゃん秘伝のネギ焼きを、孫である店主が再現したものだった。
メニュー表にも《ネギ焼き》ではなく《おじいちゃんのネギ焼き》と書かれてある。
ネギ焼きの横では細切れの肉がジュウジュウ音を立てている。その肉をネギ焼きの上に乗せて客に提供するようだ。
美味しそうだなぁ。ビールと一緒に食べたいなぁ。
そんなことを思いながら見ていると、横で夫が言った。
「おじいちゃん、熱いね……」
何を言い出すんだと夫のほうに顔を向けると、
「おじいちゃん……さぞ、熱いだろうに……」
涙をぬぐう小芝居が始まっていた。
そんな夫を眺めるうち、私は先程見たテロップを思い出した。
私は夫を諭すように言う。
「違うよ」
「え?」
「おじいちゃんのネギ焼きって、そういう意味じゃない」
「ん?」
夫はとぼけたままである。
「あのね、おじいちゃんのネギ焼きは、おじいちゃん《が》作ってくれたネギ焼きっていう意味なの。お店の人に失礼だよ。変なこと言わないでくれる?」
すると、夫は負けじと食い下がった。
「だって、豚のショウガ焼きは、豚《を》焼いてるじゃないの」
「へ?」
「おじいちゃんのネギ焼きが、おじいちゃん《が》作ったネギ焼きという意味だったらさ、豚のショウガ焼きだって、豚《が》作ったショウガ焼きっていうことになるでしょうよ」
ならない。
何の疑いもなく、そう断言できるが、夫の話を聞いていると、どちらの言うことが、正論なのかわからなくなってくる。しまいには、豚がコック姿で、豚の生姜焼きを焼いている姿まで思い浮かべて、何だかやるせなくなってしまった。
もし、日本語を覚えたばかりの外国の方が、外食にきて、
お店のメニュー表に、そう並んでいたら、やはり、おじいちゃんを焼いたものだと勘違いしてしまうのだろうか。
そんなわけはないだろうが、そういうネーミングをいちいち気にし始めると、日常が得も言われぬホラーになるので要注意だ。
「ステラおばさんのクッキー」にもゾワゾワするし、「お父さんの目玉焼き」に至っては、フライパンの上でアチチと跳ねる、鬼太郎の目玉おやじを想像してしまう。
そういえば昔行った高速のサービスエリアで、「おやじのヒレカツ」「せがれのヒレカツ」なるメニューがあった。思わず、親子で……と慄いてしまいそうになる。
でも、名前にホラー要素があったとしても、やはり
「おじいちゃん秘伝のネギ焼き」
よりも、
「おじいちゃんのネギ焼き」
のほうが、温かみがあって、美味しそうな気がする。
それは、たった一語の《の》の中に、作ってくれた人の思いを受ける、気持ちが入っているからなのだろう。
同じ言葉でも、温かかったり、ホラーになったり。
言葉というものは本当に、不可思議で面白いものだと、夫の冗談に思わされた私であった。
お読み頂き、本当に有難うございました!