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『苔むした箱庭』

薄暗いあの場所にひとりきり残してきたあの人を、今更になって思い出す。救えるわけでも、連れ出せる訳でもない。そうしたいとも思わない。だけどあそこはひとりでいるにはあまりに暗く、寒い。






今が人生で一番楽しい。


そう思うたび、光が増すほど影が深くなるように、ひとつの記憶が頭を擡げる。

あの人はどうしているだろうか。元気にしているだろうか。

最後に見たあの人は手負いの獣のようだった。世の中の全て敵だと思っているような、自分をそんなふうにしたひとりである私を、憎みきれずにどうしていいかわからないというような、そんなふうだった。



一緒にはいられないと思った。ほんとうは今まであの人がそうしてくれたように、ただ傍にいてあげたかった。彼がそれを求めていなくても、それを必要としていることは何となく分かった。だけどその時の私にはまだ、彼を傷つけずに、そして自分が傷つかずに彼の傍にいる術を見つけることができなかった。このまま手を離さずにいれば共倒れになる、それはずっと分かっていたことだ。そうなるわけにはいかない理由が、私にもようやくできた。差し伸べた手を振り払われて、手を伸ばせばまだ触れられるかもしれない、そんな距離にあるその手を私は掴まなかった。そうして私はあの人を、とうとう孤独の中に置き去りにした。



私はあの人の元気を残らず吸い取ってしまったのかもしれない。ありもしないことを考える。別に罪悪感だとかではない。それが本当だったとして、私ひとりでやったことでもない。もし責任というものがあるのだとしたら、私とあの人とで相殺だろう。お互い様というやつだ。



ようやく忘れたはずのあの人を、どうしてか今になってまた気にしてしまう、この気持ちにあえて名前をつけるつもりもない。そうしてしまえば私のこの気持ちを、狭いかごの中に閉じ込めてしまう気がする。いいや、囚われるのは私の方だ。閉じ込めたつもりのそれは名前ばかりがやがて大きくなって、私をあの二度と戻りたくはない箱庭の中に閉じ込めてしまうだろう。あの薄暗く冷たい、苔むした箱庭に。



誰かを必要とすることは、箱庭のようだ。あなたでなければならないと信じ込むことは、小さな箱の中を自分好みの期待で飾りつけることに似ていた。

別に他の誰かの手でも、自分自身の手でも良いのだ。だけどそれに気付きたくはなかった。何もない私に最後に残された、この小さな箱の中くらいは私の思い通りにしたかった。

行く宛てのないあなたを捕まえてきて、だけど人形のように思い通りになってはくれないあなたと、近づくほどに傷つけあった。薄暗く冷たくて、それでいてどこからか光が差していた、私だけの箱庭。思い通りにならないことこそが光だと、どうして気づけなかったのだろう。暗く冷たい場所にしていたのは思い通りにならないあなたじゃなくて、思い通りにならないことを拒んだ私のせいだった。



たとえあの人に恨まれていたとしても、私はあの人を恨むつもりはない。恨むということは、ある意味では拠り所だ。要らなくなるまで好きに使ってくれたら良い。

 


かつて、私には何も無かった。それこそ共倒れになって、二人暗闇の底へ堕ちようとも構わないと思うほどに。やりたいことなどなにもなく、やりたくないことは山ほどあり、ただただ死ぬ勇気がないだけの理由で生き長らえる生活など、あなたと一緒にいられるのならどうなっても構わなかった。たとえ傷つけあうことしかできなくなっても、閉め切ったカーテン越しに微かな光が入るだけのこの部屋のベッドで、ひとり四角いだけの天井を眺めるよりずっとずっとマシだった。

独りならすぐにでも投げ出していただろうな、また今日も目が覚めてしまったと後悔しながら、布団の中うずくまって瞼が落ちるのを待つだけの生活を、それでも続けてみようかと思えたのはあなたがいたからだ。紛い物だろうと幻想だろうと、私にとってはあれが愛だった。一緒にいることがただ愛だったといまは思える。



今私は家の庭でチューリップを育てている。日当たりの悪い小さな庭で、それでも日に日に大きくなっている。一体どんな花をつけるか楽しみだ。もしやり方が悪くて枯れてしまっても、また来年やってみれば良いだけだ。それでだめでも、大切に育てたのならただ愛おしい。重要なのは花の咲き乱れる庭という結果ではなくて、それまでの過程だ。思い通りにならなくても、そのことを楽しみたい。それで良かったのだと思いたい。



あなたと出会ったことも別れたことも、何ひとつ後悔していない。あなたが今どこでなにをしているのかも知らないけれど、あのとき私の傍にいたことだけは消えることのない事実だ。私になにもなかったとき、一緒にいてくれてありがとう。


『苔むした箱庭』

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https://hanasaki.handcrafted.jp/items/60716821

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