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キャッチボール。

 作業を終え、止めていた自転車に鍵を挿し込んだのと同時だった。

「すみませーん!」

 ぴょんぴょん跳ねながら叫ぶ子どもが、視界の端に入る。周りを見渡してみれば、わたし以外に誰もいなかったため「あ、わたしが声をかけられているんだわ」と覚り、「はーい!」と慣れない大声ならぬ中声で返事をした。

 福祉作業所が入る建物の斜め向かいには、保育園がある。
 どうやらボール遊びをしていた男児ふたり。園の門を飛び越え道路に落ちてしまったボールを取ってほしいようだった。

 はいはいはい、と彼らが指差す場所まで自転車を押してスタンドを下げる。手袋づたいに、久々に持ち上げたゴムボール。回れ右をして門の内側にいる彼らの元へ近づいていくと、両手を胸の前に視線を宙に向け、ふたりはキャッチする体勢に入り始めた。

 こうなると緊張してくる。ボールを投げるのなんて、いつぶりだ。うまく門より高く上げられるだろうか。妙な方向に飛ばしてしまったらどうしよう。
 自慢にはならないが、あがり症ならどんな場面でも発揮できる。本音を言えば「すみませーん!」と声をかけられた時点で、ドキドキしていた。普段、子どもと接することなど滅多にない。

「いくよー!」

 平静を装う声とは裏腹に、緊張と不安を抱いていた。
 軽く膝を曲げ両手で下から持ち上げるようしてボールを投げた。無事に門の上を通過し弧を描くように落ちていくボール。なんと絶妙な距離感だこと。両手を突き出し待ち構えるひとりの男の子の腕の中へ、見事にスルリとおさまったではないか。

 単にボールを投げ渡しただけで胸に高揚感が広がった、のも束の間。その後ふたりに何と言葉をかけたらいいのかが、咄嗟に浮かばない。門を隔て無言で向き合ううちに、再びわたしは不安に苛まれた。

 このふたりにわたしはどう見えているのだろう。どんな生物として瞳に映っているのだろう。気持ち悪い?醜い?自分がわからない。昨年写真に写った自分の顔を思い出してみる。これがわたしか、と…出てくるのは他人事みたいな感想だった。今日受けてきた健康診断。身長と体重の欄に書かれた数字を見ても、それが本当にわたしなのか自信がなかった。
 あらゆる面に自信が持てない。10代のころに向けられた言葉と視線で形成されたわたしには、30代のわたしは手を伸ばそうにも届かないほど遠い。

 わたしには今の自分がちっともわからない。

「気をつけてねえ」

 沈黙を破ってくれたのは、ボールをキャッチした方の男の子だった。手を振り、これから自転車で帰るわたしに「気をつけてね」と言ってくれている。
 ハッとなった。本来なら、わたしが彼らに向けて言うべき言葉なんじゃないのか。ボール遊びするときは気をつけてね、と。逆に気を遣わせてどうする。
 だけど学んだ。道路に落ちたボールを拾ってあげた後は、「次は気をつけてね」と声をかければいいんだ。ひとつ学んだ。保育園児が教えてくれた。

 「ありがとうございます」とお礼を言い、わたしも手を振り返しその場を離れた。

 自転車を漕ぎながら、ボールを投げたときの高揚感がよみがえってくる。いや、キャッチしてくれる相手がいたからこその気持ちよさだった。
 わたしには自分がちっともわからないけれど、それはなんかまあいいやって放り投げてしまう日があってもいいと思った。

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