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居場所より、立ちどころがあるか。

発信する自分の立場について

個人的に好きな言葉というか、ワードがある。
“立脚地”というワード。拠り所(よりどころ)とする地点のことだけど、なんか難しいワードだから、あえて自分は“立ちどころ”と表現している。

“立ちどころ”は自分以外の誰にも決められるものではないし、自分の拠り所とする地点がはっきりしていれば、“居場所”に固執することはないし、誰かに依存したり、環境にすがったりすることもない。

僕には“立ちどころ”が、

・お寺の僧侶として
・ハンドボールを好きな者として

この2つもある。
僧侶として、お経を称えたり、仏事に携わったりすることもあれば、人並みの生活をすることもある。
ハンドボールを好きな者として、ハンドボール選手として競技のそのものを楽しむときもあれば、指導者として教えることもある。また、一ファンとして素直にハンドボールを見ているときもあれば、審判をするときもある。

“立ちどころ”として、自分の核みたいなものがあればこそ、いろんな顔があるし、いろんな立場がある。
それぞれの立場から、それぞれの今後と未来のために自分に何かできることはないだろうか、と。

その一歩として選んだのが、この“note"という場所だった。

それこそ“動機”、“理由”なんてどうでもよくて、自分の行動が結果的に理想とする未来につながるかもしれない。
自分一人には、それぞれの未来を変えるなんてほどの力はないけど、同じような想いを持っている人の行動がいくつも数珠つなぎになれば、どんどん大きな輪になって、なおさら理想の未来は近づくと思う。

だから“発信する”ことを選んだ。


組織ではなく、個人であることの意味

お寺の在り方は、現代ではあらためて問われている。葬式仏教なんて揶揄されるし、それでいて現状維持してきた僧侶たちの体たらく。思うに、現状のままお寺を維持していけば良いなんて考えでは、お寺はなくなる。お寺そのものがなくなるというより、お寺の価値がなくなる。厳しい状況。

新潟県のハンドボール事情も、自分が身を置いて関われば関わるほど、このままで新潟ハンドボールの未来はあるのか?と不安に思う。素晴らしい人材もいるし、全国区で活躍する新潟出身の選手もいる。けど、それを今後支えていけるだけの土台があるかと言われれば、正直全くだ。厳しい状況。

では、なんでこういう状況にまでなってしまったのか。
それはたぶん、みんなが待ちの姿勢だから。受け身の姿勢だから。

“組織”が動くの待っていては、自分の動きも遅くなってしまう。組織そのものを動かそうと思っても、腰が重たい。だから組織になっているわけで、、、
“組織”という“居場所”に固執してしまうから、動こうと思っても動けない。
それなら、そんなものに固執しないで“立ちどころ”があるんだから、動いてみようよ。

個人として動いていく中で、発信していく中で、同じ志や情熱を持った人、似たような課題や悩みを抱えている人、いろいろな人の意見やアドバイスがもらえるかもしれない。それを一つずつパズルみたいに1ピース、1ピース埋めていけば、そのうち大きなアクションになると思う。

先日の、 #スポーツの未来に僕たちができること 発起人の遠藤さん。
誰がとかじゃなくて、自分が誰よりもそうしたいと望んでいるんだから、アクションに他ない!

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