10代で得た知見

この文章には、今21歳の自分が毎日毎日抱えきれないほど考えた全てが詰まっています、と言いたいところだが、これをすべて書くと分厚い本が出来上がるので、特に重要だと思う3つに絞って書いています。是非読んでもらえると嬉しいです。

まず、よく本を読む人には「似たタイトルの本があるわ!」と突っ込まれるだろう。そして、10代とか言う、いかにも子供らしい、薄っぺらそうな題名。まあ俺にとっては何でもいい。題名で判断する人間とはここでおさらばだ。

10代と言っても自分の価値観が固まって思考を深めるようになったのは17,8歳頃から、現在の21歳くらいまでの期間。だとすると随分適当なネーミングなのだがちょっとかっこつけて題名をつけたかったので許して欲しい。

軽く自己紹介をしたい。なぜ自分がこれから述べる複雑かつ面倒くさい考え方をするのかの言い訳になるからだ。一応それぞれの特性に関する説明をするが、よく一般に言われる「〇〇の人はこんな性格」について、自らに当てはまるものだけを述べることにする。

・血液型A型→几帳面、物の配置の角度や間隔が同じでないと気がすまない。心配症、人の評価を気にする。
・INFP→理想主義、繊細、感受性が豊か、自己批判的、非現実的、非生産的
・HSS型HSP(Infpに含まれる)→外部からの刺激を受けやすく、疲れやすい。しかし好奇心旺盛なので刺激を追い求めてしまう。
・IQ125(成人にIQテストは意味ないとか、簡易のテストは不正確だという意見が多いが、当てはまるものが多かったので一応。)→思考の深度が大きい。話すよりも考えるほうが早い。物事を理詰めで完結するため競争心がなく学歴やお金、立場にとらわれず、生きやすいほどほどの生活を見つけてしまうので他人から見たらノロマで退屈な人に見える。

他にも左利きだから右脳がどうこう、親や恋愛などの苦しい環境がくれた考える機会や価値観、言ったらきりがない。あくまで難しい性格を説明するための補助であって、決して自分が珍しいとか優れているなどということを伝える意図はない。

やっと本題だ。INFPは話したいこと、伝えたいことを伝えようとすると長くなるらしい。それこそ思考の量が多い、深いから長くなるのか、単に文章をまとめる力が不足しているのか、、、

  1. 親という生き物との関わり方

誰しもが経験する。生まれた頃から小中学生あたりまで、親というのは常に正しくて、絶対であった。親がすべての力を持っていたし、知識も考えも敵わなかった。
しかし、いつからかこれに疑問を抱くようになる。親は本当に正しい?親に従わなければならない理由は?疑問をいだいた瞬間に、親と子という上下関係、主従関係は音を立てて崩れる。親の上から目線な態度が気に入らなくなる。そしてこれまで盲目的に従っていた過去が馬鹿馬鹿しくなり、そうさせていた親への反感は倍になる。

そうして親の言動や態度を批判し始めた16,7歳くらいの自分は、ある日祖父母の家で愚痴をこぼしていたところ、祖父に考え方を一新する言葉を貰う。「親を批判し始めたら成長した証拠。しかしそんな親を理解して許せるようになったら一人前だ」と。この言葉はすんなりと自分を納得させ、自らが親を批判して大人になった気分でいたのを見事に破壊してくれた。同時に、親という生き物も所詮人間であり、間違うことも失敗することもある。と認めることが出来た。ここで、初めて親を一人ひとりの人間として認識する。家庭内で毎日何時間も会って会話する人間が、自分にとって絶対的でなく、必ずしも正しくない、従う必要はないと思えたとき、気持ちが軽くなった気がした。

そこから数年経った。俺は親と喧嘩し続けた。親を一人の人間として見ているからこそ、間違ったことは指摘し、話し合うべきことは話し合うべきだと思った。親に対して自分の信念を曲げる理由は無かったし、自らも「子供」ではなく一人の人間として立ち向かった。何十回もの話し合い、喧嘩を経て、やっと理解した。親は親どころか、大人ですらなかった。自分は普段から見る人間全員の行動言動を観察していて、この人は賢いとか子供っぽいとか、物事を考えられるとか周りを見ることが出来ているとか考えている。いや考えてしまっている。親もひとりの人間として俯瞰して見たところ、自分の周りの人間に他ならなかった。それどころか、もっと優秀な人や、他人を観察できて気持ちを汲み取れる人は同世代に沢山いた。

要するに、親といえど、大人といえど、歳を重ねて「親」というステータスを飾っただけの子供だったのだ。個人差はあるが、歳に比例して知識や経験を積み重ね、これが当たり前のように幼少期のそれらを上回っているだけだった。

これを理解してからは、親との喧嘩は激化した。自らを「子供」として扱う親が、どうしても気に入らなかった。年齢を重ねただけで何を思い上がってるんだと思った。
そうして喧嘩をし続けた高校生の頃、ふと気がついた。そうか、これが親を認めるということだったのだ、と。
親は自分を正しいと思って子供を見下しているのではない。「自分を正しいと思って子供を見下してしまう性格」を持った一人の人間だったのだ。祖父の言葉が蘇った。これが親を認めるということだったのかもしれない。

自らの成長過程的なものは達成されたと言うべきだが、これは少し残念なことでもあった。幼少期に抱いた「親は絶対」には、「自分を理解してくれている」を含ませていた。
自分には、軽度のADHD的性格がある。物を忘れるとか、好きなことには集中できるが、勉強や習い事のピアノの練習はさっぱりだめ、忘れないようにメモをしてもそのメモを忘れる。これを親に話したときに、「怠けてるだけ、覚えようという気持ちがないだけ、君は普通だ」と言われたことがある。悲しかった。怠けること、忘れることを許してほしかったわけではない。「怠けてしまう、忘れてしまう性格を持った自分」を理解して欲しいだけだったのだ。これも何度親に説明してもだめだった。いつからか話し合いをすることを諦め、喧嘩にならない安全な話題を選ぶようになった。

それでも、進路や留学など、親との話し合いを避けて通れないことがよくあった。そのたびに喧嘩になった。話し合いと喧嘩の区別の付かない親と話すことはとても疲れることだった。「それは違うんじゃない?」という軽い否定を攻撃と捉え、「なら君も〇〇が出来ないよね」と反撃してくる親との話し合いは一向に進まず、結局すぐに論点を外れ理論的でなく感情論で話す親に呆れた。

状況は現在も変わっていない。話し合いが出来ないのに話し合いをせざるを得ない状況はまだたくさんある。親というものは、誰よりも密接にかかわらざるを得ない身近な存在であり、同時に話し合いにより沢山のことを決定せねばならない関係である。親との関わりというものは、自らの成長過程において大きく立ちはだかる壁として存在し続けている。親が論理的で話し合いにできる人間だったらどれほど良かったか、と嘆いても仕方ないのだが。

2.社会に出るということ

自らの人生の展望、また社会への印象というものは、他大多数と異なることを自覚しており、これに納得できない人間が多くいることも理解している、が、自分がどうしても認められないもの、それは資本主義の在り方である。
たからといって共産主義や社会主義を押すつもりもない。資本主義という仕組みの行き着く先、消費が価値となりステータスとなる、この仕組みが人の人生を台無しにしている理由になってしまっていると考えている。

逆算して考えてみる。まず人生の目標というかゴールというかは、まず幸せになることだろう。子孫を残して終了、というような単純な仕組みでないから、子供を生み育てた後も、いやその最中も、人間は自分の機嫌、目標、幸せを追い求める。それに必要なのはお金である。(前提に平和や社会制度等あるが、ここでは個人の努力に焦点を当てる。)
ではお金を稼ぐためにはどうするべきか?と一番最初に思いつくのは、良い給料、良い手当の頂ける企業に就職することだろう。(ここで道を外れて起業やフリーランスとなるものはここでは無視する。) 
ではその「良い企業」とやらに就職するには?と一番最初に思いつくのは学歴であろう。そうして更に細分化していき、大学、高校、中学、親によっては小学校からこだわる人間もいるだろう。

自称進学校と呼ばれる高校にいた自分らは、まず良い大学に入ることが偉くて、素晴らしくて、将来良い人生を歩めることだと洗脳を受ける。勉強というものが向いていなかった自分は、運良く洗脳を受けなかったが、周りを見渡せば、偏差値の高い大学に入ることこそがゴールかのように必死に勉強していた。

自分はこのような人らを見て、正直馬鹿馬鹿しいと思った。大学進学後の将来を見据えていないように見えたからだ。とりあえず偏差値の高い大学を出れば、良い企業が拾ってくれる、そしてある程度の人生を歩めると安易に考えているように感じた。いや、実際に彼らはそうして幸せになるのかもしれない。この資本主義の仕組み、いや落とし穴と言うべき構造に気づかなければの話だが。
ついでに大学の偏差値を価値として人を判断しているYouTuberもとても嫌いだった。そう、人は京大を出てもあんな大人になる。偏差値は受験用の知識を詰め込んだ量であり、その人間の価値でも能力でも魅力でもない。

さて、資本主義が人生を台無しにするとはどういうことか?それは、消費=幸せという固定観念が蔓延してしまうことである。先程逆算し述べた考えによると、人々の目指すものとは、お金に困らない生活、更にお金を持って何か贅沢をする、家、車を買う、これらをグレードアップする等が人生の目標や憧れになっている。
なぜこれが良くないのか。馬鹿馬鹿しいのか。それはお金で手に入れられるものと幸せは直結しないからである。

自分の好物がある。アフタヌーンティーである。これに対する偏見を述べることはかなり性格が悪いし女性の友達が減りそうだが、意見を述べる材料として使用させていただく。
1840年代初期、イギリスの貴族で発祥し楽しまれたアフタヌーンティー。夕食の前に紅茶とスイーツを楽しむ時間。素敵で文化的である。
ではこれをサービスとして(受動的に)行うことは、文化を興じることになるのだろうか?いや、むしろ文化を雑に消費しているようにしか感じられないのだ。
どういうことかというと、貴族が普段から飲んでいる紅茶を、高級なスイーツを、特別な時間を設けることによって友人等と歓談し楽しむのがアフタヌーンティーなのである。
対して、身分はともかく、品もマナーもない若者が、飲み慣れないが「なんとなくおしゃれ」な紅茶と見栄えの良い容器に盛られたそこらへんのスイーツを消費する。そしてこれらを少し高めの価格設定で、景色の良い席なんかに案内されて、いかにも自分等が高級な時間を過ごしているかのような気持ちになることができる。そして写真を撮ってインスタに投稿すればパーフェクト。
これがアフタヌーンティーの滑稽なところであり、資本主義の落とし穴である。もはやお金→商品ですらなく、お金→サービス(高級そうな時間)の取引なのである。自ら幸せを追求するのを放棄する変わりに、国が、企業が、誰かが用意した「こうすれば幸せ」をお金で買うという、実に馬鹿馬鹿しい仕組みこそ、資本主義の欠点なのだ。こう感じてしまう自分は変だろうか?間違っているだろうか?

話に説得力を持たせるため、「幸せ」を買うことは幸せなのだろうか?について論じたい。そもそも幸せとは?という方向性で考えるときりがないので、「買うことは幸せ」を否定するほうが手っ取り早いし楽なのでこれを考えてみる。
必要最低限の消費を除き、これ以上の消費に価値を感じるために必要なのは、他者からの注目である。これは高級外車を想像するとわかりやすい。周りに誰もいない無人島で、高級車を欲しがる人は少ないだろう。(車というものが好きで欲しがる人は無視)お金を持っている状態ではなく、それを示すために車やブランド品を身に着けなければ気がすまない金持ちを見ると、この構造は説得力を持つ。これはアフタヌーンティーの写真を投稿する人間とやっていることが同じだ。
年収800万円を超えたあたりから、幸福度が下がるというデータがある。つまり、ある程度の生活、贅沢を贅沢としてたまに楽しむくらいの生活水準が理想なのだとデータが示している。単純である。高級車を買える余裕のある人間は、高級車を羨む気持ちを持つことが出来ない。しかしどうやら庶民どもは自分の経済力を羨んでいるようなので、なんとなく気持ちがいい。お金を持てば持つほど、車の値段や数を増やさねばならなくなる。自らの価値を車やブランド品等の所持品に頼る金持ちという生き物は、全く持って魅力的でないし彼らが幸せだとも到底思えない。

長々と書いてやっとお金=幸せを否定できた。文章が長くなりすぎる癖をどうにかしたい。
お金にとらわれるのをやめた瞬間、受験、学歴、就職、給料などという呪いを解くことができるのではないか、という一つの考え方でした。 

3.文化を興じるとはなにか

自分でも文化というものに対する認識は曖昧で、これを自分が正しく享受出来ているかと言われれば自信がない。が、はっきり言えることは、先程アフタヌーンティーのくだりで述べたように、文化を継承、享受するのではなく、消費されてしまっている現状を危機感を持って捉えるべきだということだ。
これも詳しく説明したい。
高校2年生の修学旅行で、京都の清水寺を観光した。華やかな商店街や、着物を着て観光する人々、当時はその美しい光景に感動した覚えがある。
しかし、これらが文化を正しく興じられているのかと言うと、そうは言えないのだろうと思う。清水寺を観光するにあたり、その歴史的背景やこれにまつわる古典等の物語について調べてから観光している人は、全体の何%なのだろうか?
寺や神社、特に歴史的な建造物というものは、これら歴史的背景に関する知識がなければただの木造建築になってしまうのである。商店街で普段見ない食べ物やお土産があり楽しい、景色に溶け込んだ寺が美しい。こんな浅い印象しか抱くことができない状態を、果たして文化を興じているといえるのだろうか?いや、それどころかそこに行くこと自体に意味を見出しているように感じる。そこに行ったという事実、これを証明するための写真やお土産。目で見える、手で触れられる外側だけ持って帰って、歴史も、文化も、これに関する情報も何も知らずに、何も学ばずに帰るのだ。これならまだ、アーティストのライブに行くために曲や歌詞、その意味まで暗記してくる若者のほうがよっぽど偉い。

これは先程アフタヌーンティーで例えた資本主義の欠点に他ならない。お金を払って旅行して、「その場所に行く」ことを目的としてしまい、観光し写真を取りお土産を買うという消費に目がくらみ、文化という本質を見失うのである。
そうして、着物を着て写真を撮って満足して帰る人を見ると、なんだかやるせない気持ちになってしまう。
まとめると、現代社会で人は、物事の本質から外れて、お金やステータスなど無意味なものを追い求めている。しかしこれらは幸せに直結しないので、これらを追い求め続けた結果、文化も価値のあるものにも触れず空虚な人生を過ごしてしまうことを懸念している。 勤務時間や平日と休日の割合なんかを見てQOLを要求するくらいなら、まず自分の価値観をアップデートした方が良い。

以上、長々と拙い文を書いたがどう感じただろうか。大人からしたら「社会にもでていない子供が何を言っているんだ」と思うだろうか。インスタグラマーからしたら「アフタヌーンティーを楽しめないの普通にかわいそう🥺」「私の着物の写真をばかにするな」とでも思うだろうか。自分がこの考え方を持ったからには、これらの人間と仲良くなることを放棄しなければならない。しかしこれも俗に言う人間断捨離なんかおしゃれな言葉を使うと前向きに捉えられたりする。大多数と意見が違っても、友人が制限されても、これを幸せの本質と信じ、そのために努力し発言することを諦める気はさらさらない。


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