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波瀾万丈、咲き乱れる人生

最近、樹木希林さんの本を読んで感銘を受けた。
樹木さんの生き方は、まっすぐで、信念を持っていて私の母を思い出させる。

私の母は料理人で、かなりの芸術肌だった。
作る料理は水からこだわり、料理には地元の山の湧き水しか使わなかった。
卵にもこだわり、この料理には地元の農家が育てている有機の卵、この料理にはどこどこ産の卵というように、料理に合わせて水の種類、卵、野菜、だし、塩など全てが決められていて、それらは全て母の頭の中のハーモニーで成り立っていた。

料理以外にもこだわりは尽きなかった。
母は父と結婚する時、「苗字を変えたくない」と主張し、当時では珍しかった夫婦別姓に踏み切った。
父が後から教えてくれたことによると、母方の両親に泣きながらそれだけはやめてくれと頼まれたり、県内の夫婦別姓は父と母が初めての例であり、市役所の手続きが大変煩雑だったとのことである。
両親の反対を受けても、社会制度の壁があっても、それでも母は信念を変えなかった。

そして父と一緒になり子どもが生まれ、落ち着いて子育てをするためにも、今度は岡山県の山奥に移り住み、ペンションを営み始めた。
そして料理の才を発揮し、へき地にも関わらず海外や遠方からお客さんが訪ねてくる隠れた名店として成功させたわけである。

そんな母も、3年前にこの世を去った。
乳がんだった。
随分前から自分の身体の異変には気が付いていたようだったが、頑として病院に行かず、たまたま私が東京の勤めを辞め地元に戻るタイミングで受診すると、既にその時はがんは全身に転移しステージ4になっており完治は手遅れだった。
だがそこから治療を始めた母は、4年半余生を生きた。 
抗がん剤治療をしながら、体調が良い時は父と地元の山に登ったり、相変わらずせっせと料理を作ったりして楽しそうにやっていた。
死に向き合い始めた母は私の眼から見ても、いい感じに肩の力を抜いていてどこか達観したようで、生きやすくなっているように感じられた。
以前は常に何かしなければいけない、と突き動かされているようだったが、笑顔も増え、生きて人と一緒にいる時間を楽しんでいるように見えた。

元気な時もあり、このままがんと付き合いながら生き続けるのではとも思われた母だったが、とうとう最期の時はやってきた。
食事が食べられなくなり、起きている時間よりも寝ている時間が遥かに多くなった。
うわ言を言うことも増え、最後の方は「ふくろうの骨を湯掻かなきゃ」というような意味不明なことも言っていた(未だに真相が分からない)。
目もろくに見えなくなって立つ体力もなくなったが、最期までオムツを履くことは拒否し自分の力でトイレに行くと、壁にぶつかりながら這ってトイレに向かった。

そして最期のトイレに行った翌朝、荒い息を数回したのちに自宅のベッドで息を引き取った。
治療中も、親族含め家族以外には病気のことを一切言わないでくれと父と兄と私には緘口令が敷かれており、亡くなった後も遺書に「葬式はしなくていい。墓も要らない。遺体は検体にしてくれ」と書いてあったりして、死してなおやりたい放題の母のパワーは顕在だった。

私は、そんな母の血を継いでいる。
ここ最近意気消沈したことがあり、家のそばにある家族で自作した母の墓に行き墓前で手を合わせて呟いてみた。
「私もう怖いよ。進めないよ」
すると母の声が聞こえた気がした。

「あんた、何言ってんの?まだ31歳でしょ?
 諦めるな。好きなことをやりなさい」

昔から、母は
「あんたたちは自分の思う人生を生きなさい。命だけは大事にすること」
と、繰り返し言っていた。
進むのは勇気が要る時がある。
それでも後悔せず進めと、母からメッセージをもらったように感じた。

私の知っている女性の中で、最も信念が強く、その信念を貫き通した我が母へ。
敬意と尊敬を込めて、娘より。

        【終わり】

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