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幼少~小学時代

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幼少~小学時代の記憶に残る日常生活を綴ります。
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第5回児童生徒音楽コンクール

なぜか僕は故郷を離れてからの手紙が捨てられなくて、引っ越しする先々迄ずっと持ち歩いてきたが、遂に人生の断捨離としてシュレッダーすることにした。 しかし、なにぶん卓上シュレッダーなので、一度に裁断できるのは2枚まで。よって、事前に手紙を開封してばらしているのだが、その作業中に、友人が送ってくれたこのプログラムが出てきたので、記録しておこうと思う。 お宝、お宝(笑)。 僕は小学3年生だったので1959年(昭和34年)のコンクールという事になる。当時の小学1年から高校3年まで

ホーム新聞

ここに昭和35年3月24日に発行された新聞がある。 高校で新聞部に所属した一番上の姉が、「家庭新聞」も発行したいと考えたのだろう。記憶では確か、この画期的な発案の他にも、「月一回、家族全員の話し合いもしよう」ということになり、親父も参加した。しかし、新聞も話し合いも一回きりで、その後続かなかったと思う。この「ホーム新聞」は、僕が社会人になって随分してから、編集部長の姉がコピーして送ってくれたものだ。 姉は学業成績が良かったので、僕が高校に入ると、「君はあれの弟か? 姉さん

そろばん教室でのいたずら

小学3年の時だったろうか、南が丘の公園にあった公民館でそろばん教室が開かれているのを知り、母に頼んで行かせてもらったことがある。週1回だったと思う。 行ってみると、既にたくさんの子供たちが座っていた。僕はなにせ初めてのそろばんなので10級からスタートしたのだが、その日のうちに8級になり、ひと月のうちに6級まで進んだ。母の財布の具合を気遣って二月程で止めることにしたが、パチパチ指を動かすのは楽しかったし、みんながそろばんを弾く音も好きだった。 そんな楽しい時間を過ごしたある

しょ〇〇だんご

僕の愛した南が丘の海はこんな感じだ。右の方向はキャンプをしたコムケ湖やサロマ湖方面で、晴れた日は、崖の上から眺めると、遠くに知床の陰がうっすら見えた。今回は図の①海水浴場にまつわる思い出。 ■水泳の時間 小学校にはプールはなかった。今もないと思う。何しろ寒いから。運動会の時でさえ、寒くて震えていた時があったくらいだ。よって、プールの時間はなかったが、確か小学3,4年の頃に1,2度だけ海水浴場に授業として行ったことがあった気がする。 遊泳できたのは気温25度以上の時だった

岩場でオオカミ魚

潮が引くと現れる岩場は、特に夏の間は子供たちのいい遊び場だった。岩場にできる大小さまざまな水たまりには小魚が泳いでいた。時には逃げ遅れた少し大き目の魚を見つけることもあったが、それでも捕まえるのは容易ではない。 水たまりの中には腰までの深さの所もあった。底の様子が分からないので入るには少し勇気がいたが、それでも入って、恐る恐る底の様子を足で探っていくと、幾つかウニを見つけることがあった。1個か2個でも大収穫だ。 岩場での釣りには竹竿を担いで行った。餌は岩場にくっついている

名苗先生のクラス

小学5,6年の担当は名苗修治先生でした。 楽しかった班分け授業 このクラスでは、2年間ずーっとそうだったかは定かではありませんが、6班くらいに分けて机を並べていたことがあります。これが結構楽しくて、班の中では顔を合わせて座っているので、勉強を教え合ったりできるのです。きっと先生が機会あるごとに、「みんなで考えてごらん」とアドバイスしていたのだと思います。 班の中で解決できない時は、他の班の誰かさんに来てもらうのもOKだったので、その時間帯には班の間を行ったり来たりする生

テープレコーダー

■初めて聞く自分の声 小学3,4年の担任は海津良知先生でした。その海津先生が、確か4年の音楽の授業に重そうな電気製品を持ってきました。 「これはテープレコーダーと言う機械です。これに音を入れることができて、それを聞くこともできます」というような説明をされました。始めてみるテープレコーダー。メーカーはコロンビアだった気がします。 テープレコーダーのカバーを開けると先生は、「自分の声を聞いてみたい人はいないか?」と尋ねられましたが、返事する者はいませんでした。 すると

靴のこと

小学校の音楽で「木琴をぶら下げて通ってた」ことを懐かしんでいたら、冬の体育ではスキーを担いで行ってたことも思い出した。 そうそう、ブルドーザーがかき分けた雪道を友達と前後になっておしゃべりりながら歩いていて、友達の話に振り返ると、担いでいたスキーが前の人に当たったりしてね。ごめん、ごめんって。 当時のスキーを履いている写真が1枚あってね、それが上の写真なんだけど、スキー靴じゃないんだ。普段の長靴のままスキーが履けるタイプで「カンダハ」と呼んでいた。今のノルディックのように

走るのが好きだったが

小学校の頃はよ~く走っていた。学校帰りは、今日は2回しか休まないで帰ろう、などと目標を決めてランドセルを揺らしながら走っていると、カバンの中から筆箱のカシャカシャする音が聞こえてきた。 近所には同じ年や年の近い子が結構いたので、家の周りでもよ~くかけっこをしていた。黄色い声を張り上げて走り回るのを見ていた親父は、運動会で一等賞を取る姿を期待していたが、運動会が終わると「今年もダメだったなー」とがっかりしていた。小学校の間、親父を喜ばせることはできなかった。 ■廊下に花を

花火大会

私が育った北の果ての街にも、それなりの夏はやってきて港祭りが開かれた。そこでの目玉は花火大会。 これは小学校に入る前の思い出です。 会場は紋別港で花火は赤灯台の辺りから打ち上げられたと記憶している。この花火大会には母と兄妹で出かけたのだが、紋別劇場のすぐ隣にあったお店でかき氷を食べるのが楽しみで、それから人で賑わう道を通って港の会場に行った。 1発上がって大きな歓声が沸いた後、次の花火が上がるまでが実に待ち遠しい。花火が上がる時にスピーカーから花火の説明などがあった。母

紋別市立紋別小学校校歌・応援歌

私が通った紋別小学校の記憶を辿っています。校歌と応援歌の楽譜、及び、学校別概要は2015年に紋別市教育委員会から送って頂きました。 ■紋別小学校校歌    作詞:勝 承夫    作曲:下總 皖一 1.港に朝の潮満ちて   響くエンジン 出船の汽笛   いつも希望の 光を衝いて   ゆこう進もう 元気よく   われら新しい 日本の力 2.雪降り積もる冬の日も   通うこの道 世界につづく   明日の文化の 夢湧くところ   のぼる力も たくましい   われら紋別の 少年

サーカスの子

小学生のとき、街にサーカスが巡業でやってくると、団員の子供が一時的に同じクラスに入ってきたことがあった。それは2度あり、どちらも女の子だった。 一度は、3年か4年の時だった。殆ど話をしない子だったけど、それは仕方ないよね。だって、サーカスの巡業と共に転校を繰り返しているのだから、仲良しなんか作る暇ないだろうし、仲良くなっても、ほんの数日で別れが来ちゃうのだから。 だから、教室に座っていても、遠慮がちに黙っていたけれど、昼休みになり、みんなが旧校舎からグランドに駆け出してい

親父を超えられない

「おまえ、持ってないべ?」 と、田舎の兄から数枚の写真が送られてきた。昨年のことである。 確かに持っていない。見た記憶も余りない。 小さかった頃の写真は殆どないので嬉しい。 ましてや親父と一緒で、しかも、親父に甘えている姿がとても嬉しい。 裏に、母の字で「誠4歳」とある。もっと小さいように感じる。 親父とはキャッチボールをしたり、海や川の釣りにも連れて行ってもらった。親父に釣り針の結び方を習った時の事はよく覚えている。 親父のバイクにまたがり、山にコクワ(キーウィに似

片目やられた!

(2)手術札幌での入院は約1カ月近くあった。 手術は入院直後だったか、少ししてからだったかは思い出せないが、毎日のように採血があった。僕の腕は細くて血管が良く出ないため、温めで浮き上がらせようとしたりして、看護婦さんは苦労していた。 医者は、水晶体を取ることになるから、光は入るが像は結ばなくなると告げた。(記憶が正しければ)見えるようにするには、犬の目の水晶体を入れる方法があるが、白黒でしか見えなくなる、と言うような話もしていた気がする。 手術時間がどのくらい掛かったか