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遠藤周作②—死について


はじめに


今回は、作家・遠藤周作が死をどのように捉えたかを考察します。

この世を生きている我々は、死に対して等しく無知な存在ではありますが、死について考えることとは、生について考えることと同意義ではないでしょうか。そう考えれば、死を考えるのに早すぎる年齢というのはありません。

今回は小説は取り上げず、『死について考える』というエッセイ本に依るところが多くありますが、この本はキリスト教のみならず様々な考えに触れて書かれており、平易で読みやすい文章で書かれているためおすすめです。


1. 死の瞬間


1.1 死の準備期間としての老年

人間には様々な死に方があるが、近現代の多くは死の前に老いを体験する。

認知症その他、いわゆる「ボケ」と呼ばれる老年に起こる現象には、死への恐怖を和らげる効果があるという説がある。最近では科学的な観点からもよく聞くようになったが、遠藤周作もその立場で考えていたようだ。
老醜について。肉体面で衰えが出るばかりでなく、心理的にも強欲になったりうるさく思われることもある。
しかし、老年のもう一つの側面として、何気ない景色を眺めているときに「何ともいえぬ感動に胸をしめつけられる」ことがあるという。

自分がこうして生まれたことが、また自分をふくめてこの地上で生きてるすべてのものは苦しんだり愛したり結びあったり別れたりしていた一人一人の人間だったことが、言いようのない懐かしさで考えられるのです。それは若いころには決して味わわなかった感情なので、あるいは老人の感傷かもしれません。
しかしその感傷のなかには人間の人生やこの地上を肯定したいという気持ちが含まれています。

死について考える p.17

遠藤は老いには円熟や「枯れ」の美とはとても言えないような醜い側面があることを否定しない。だがその冬の時期は、人生の春も夏も体験した上でのことであるから、若者の無経験故の愚かさや、同世代が老醜を晒すことに対して想像力を働かせることができるのではないか。
我々は経験があることに関し、概して他者に優しくなれるものだ。
医療が発達し、健康寿命が伸びたり、身体を使わずとも活動できる技術はこれからも急速に発展してゆくだろう。
しかしたとえ老いに美がなくとも、むしろそれ故に、老年は素晴らしいものなのかもしれない。こんなことを書いていると、なんだかビーチ・ボーイズの「Wouldn’t It Be Nice」の歌詞のようである。

1.2 臨死体験の記録


死の瞬間、その人にどのような世界が見えるかを、生者が知る術は通常ならばない。
そんな中で、遠藤が死の瞬間を語る際、度々名前が挙げられるのがエリザベス・キューブラー・ロス博士である。
彼女は臨死体験 (一度死んだと思われたがその後奇跡的に回復) をした患者約二万人に対して「死んでいる間どのような体験をしたか」というアンケートを行った。
その回答の中にロス博士は三つの共通した体験があることを発見する。

  1. 意識を失った後、自分自身の肉体がはっきりみえた。

  2. かつて亡くなった人の中で自分を愛してくれた人(親や兄弟、妻)が傍で自分を助けようとするのが分かった。

  3. 慈愛に満ちた、何ともいえない柔らかい光に包まれた。


遠藤はこの報告を何度もエッセイの中で取り上げては「心に沁みる」などと、大変感動している様子である。特に3番目の「柔らかい光」という表現は、母性的なキリストを信仰する遠藤には願ってもない体験だろう。
晩年の『深い河』という作品にもこの考えは登場していることから、ロス博士の記録は彼の死に対する考えの中で重要な文献であるのは間違いない。


遠藤は学者や医者の名前を出し、「客観的」なデータを持ち出すことで、自らの神を信じたいという欲望を覆い隠しているようである。
近年ベストセラーとなった『FACTFULNESS』という本でも書かれているように、知的階級になるほどに何故か物事を必要以上に悪く捉えることを良しとする風潮があり、素晴らしすぎる真実を説く者は「非現実的」と片付けられてしまう。
遠藤も自分の、死に対して良い見方をしたいという気持ちを何度も笑おうとしたに違いない。しかし、母や兄、そしてイエスが通ったような道、自分やすべての仲間が通ろうとしている道が、みじめな道だとは信じたくないという気持ちでロスの本を読み漁っていたのだろう。

そのことを思うだに、私はたまらない気持ちになる。 

死というのは、たぶん、海みたいなものだろうな
入っていくときはつめたいが、いったん中に入ってしまうと……

セスブロン『死に直面して』


2.復活とは

2.1 ほんとうの復活


キリスト教の中の死というと、連想されるのはイエスの「復活」ではないだろうか。我々はなんとなくそれを "磔にされたはずのイエスが弟子たちの前に姿を現した" というなんとも胡散臭い奇跡物語と思いがちである。
もちろんそのような解釈もキリスト教の中にはあるが、遠藤は「復活」に関する質問に以下のように答えている。

——キリスト教で言う復活なんて、荒唐無稽で信じられません。あなたはどうして信じているんですか。
(遠藤) あなたは復活と蘇生と間違えているようですが、復活というのは蘇生とは違いますよ。復活には二つの意味あります。
イエスの死後、使徒たちの心の中で、イエスはキリスト(救い主)という形で生き始めました。イエスの本質的なものがキリストで、その本質的なものが生き始めたということです。(…)これが復活の第一の意味です。

『私にとって神とは』p.76

遠藤はまず、人間としてのイエスが死んだ後に、現実よりも真実の存在(キリスト)として弟子に受け止められていった様が復活なのだと語っている。
つまり、キリストの誕生とは残された者たちの心の変容、その働きを指しているという考えである。

それから、イエスが復活したということは、彼が大いなる生命の中に戻っていったことの確認です。滅びたわけではなくて、神という大きな生命の中で生前よりも息づいて、後の世まで生きていく。これを復活と言ったのだと思います。

同上

私が特に問題にしたいのはこの「神という大きな生命」という部分だ。
一般にキリスト教の神というと人格をもち、人の行いを許したり許さなかったりし、怒ると天罰を下す存在としてイメージされる。だがそれは前身のユダヤ教の神の性質を多く受け継いだものである。
井上洋治神父や遠藤が考える神とは、そのイメージと異なる汎神論的な神であり、禅の考えとも近い。

遠藤はまた、死後に「大きな生命」の中に戻るのはイエスただ1人であろうとはもちろん考えなかった。

今まで長い間、神は外にあるものとして人間がそれを仰ぎ見るという感じでしたが、そうじゃなくて、神は自分の中にもある大きな生命です。そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。それを復活というのです。復活は蘇生ではないのです。死んだ人間が突然息を吹き返したということではないのです。大きな永遠の生命の中に戻って行くことなのです。

『死について考える』p.94

キリスト教徒という形をとった遠藤だが、決してそれを鵜呑みにしていたわけではないことが伺える。聖書の文言は象徴や比喩に満ちており、同じ信者といえども本来はその人生と同じ数の解釈があって然るべきである。

本来の宗教は、教祖や聖典がそう言っているからといって何も考えずに従うものではなく、彼のように常に反駁・論考をしながら距離をおいて付き合っていくものだ。近年巷を騒がせる新興宗教の厳しい信者への束縛をみて、私などは特にそう思う。



2.2 ウォルシュ『神へ還る』を引いて


ここで、上記の遠藤の「復活」観のうちに、エリザベス・キューブラー・ロスの友人でもあるニール・ドナルド・ウォルシュの『神へ還る』という本との関連を見出したので紹介する。
ニール・ドナルド・ウォルシュはある日から「神」を名乗る者からのメッセージを受け取るようになり、その対話をまとめた本『神との対話』がベストセラーとなった人物である。その続編となる『神へ還る』は、「神」がウォルシュに死の体験がどのようなものかを解説する内容になっている。

ウォルシュの「神」は、生と死を以下のように記述する——

「すべてあるもの」が「自らの経験」によって「自らを知ろう」とする欲求。それがすべての生命/人生の因(もと)だ。

ウォルシュ 『神へ還る』p.248

「ほんとうのあなたのエッセンス」は、個別化とあう経験と栄光を通じて「ひとつであるもの」の歓喜を「知る」ためには、「生命/人生のプロセス」のなかでいつ「ひとつであるもの」と合体し、それから分かれて現れるべきかを間違いなく正確に知っている。

同上 p.266

上記の「すべてあるもの」「ほんとうのあなたのエッセンス」、「ひとつであるもの」はすべて遠藤の「大きな生命」と対応しており、それは言い換えれば「神」ということになる。

自作図 (シラーの「歓喜に寄す」の世界だ)


あらゆる宗教はこれと似たような死生観で成り立っているが、それぞれに様々な解釈が加わってしまったために、一見すると違う考えのように見えるかもしれない。
「神」とは私自身であり、なおかつ私よりも大きな存在である。
イエスはそう語ったが、その言葉はあまりに素晴らしすぎたために弟子たちには受け入れられず、イエス1人が「神の子」ということになってしまった。
しかし、一度でもイエスが「私は特別で、あなたがたとは違う」などとと言っただろうか。
神が地上のうちのたった1人だけを気にかけることなど考えられるだろうか。イエスが「神の子」ならば、我々も等しくそうである。

そのように捉えた時に、イエスの「復活」は空虚な物語ではなく、我々のすぐ近くにあるような実践的なデス・エデュケーションとなるだろう。


3.俺は光のなかにはいって…



ここからは、記録に残された遠藤周作自身の死を書こうと思う。
これを書くのは、若いうちから死についてよく考えていた彼が実際にどのように亡くなったのかを記しておきたいためだ。

一九九六年
九月、夫人が転んで怪我をした話を聞き、突然目を開けて 「心配なんだな」 と言ったのが最後の言葉となり、同月二十九日午後六時三十六分、肺炎による呼吸不全にもり、入院先で死去。死の直前に顔が輝き、夫人は握る手を通して「俺は光の中に入って母や兄と会っているから安心してくれ」というメッセージを受けとる。

遠藤周作全日記 下巻 p.421

全日記の付録の淡々とした彼の年譜に、このように書いてあった。彼はこうして亡くなった。
私はこの事実…表面を愉快に取り繕いながら、人知れず死の恐怖とじっと対面してきたような人が、このような言葉を伴侶に伝えて死んでいったという事実に、いいようもなく人間の生を肯定し信じる勇気を貰うような気がする。 
ウォルシュの本の解説に従えば、死後の第一段階は「各人が死後に起こるだろうと予測したこと」が直ちに本人に遂行されるという。 
夫人にメッセージを伝えたのは死の瞬間であるから、死後の世界とは時間の進み方が違うことを踏まえても、遠藤の伝えた体験は、遠藤が信じたことによって実現した世界だと言えるだろう。

我々も死からは逃れることはできないにしても、死に対する認識を変えることはできる。源信の『往生要集』や、エジプトやチベットの『死者の書』など、死の概念は古来から伝えられてきたものである。
自分の性にあった死の見方を探すのも、自分自身で考えるのも、「死んでみないと分からない」と宣うのも生者の特権ではないだろうか。



以上です。(約4500字!)
本稿には私自身の希望的観測もあってか、死に対する見方がポジティブな方向に偏りすぎているかもしれません。しかし私から言わせていただければ、社会というのはいまだ体験したこともない死に対して、ことさらに暗く考えすぎるきらいがあるのではないでしょうか。
生はもちろん我々にとって素晴らしい贈り物ですが、死は決して一定の猶予の後にそれを奪い去る刑罰ではなく、むしろそれに付け加わる新たな贈り物だと考えることは、不可能ではないはずです。



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