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後悔先に立たず


私たちについて

私、ゆた34歳 
妻、J 33歳
私がいうのもなんですが妻は美人枠に入ると思います。

妻は韓国人です。
日本語能力検定 N1を所持しているので流暢に日本語が話せます。

N1とは2022年(令和4年)12月の試験の結果によると、N1の認定率(合格率)は30.8%。 この認定率からもわかる通り、N1を受験する日本語レベルの人が受験しても認定者数は3人のうち1人以下となるため難易度は難しいといわれている。

つまり幅広い場面で使われる日本語を流暢に喋れるということです。

妻とはかれこれ10年以上前に知り合い、3年の交際期間を経て結婚した。

出会いは彼女がアルバイトで働いているバーに私が客として訪れた。

その後すぐにお付き合いに発展したわけではなく交際に発展したのは4.5年後である。


交際から結婚に至るまで

きっかけは彼女のラインだった。
Yといっしょに飲んでるからこない??会いたーーい!

こんな内容だったと思う。
ちなみに彼女はこの時はもう最初に会ったバーでのアルバイトを辞めていた。

当時私は西新宿の外れに住んでおり、指定されたバーは新大久保であったため自転車を飛ばした。

彼女は友人Yと既に飲んでいたためほろ酔いであった。

その日は他愛もない話をして程よい時間で解散した。

その日から彼女との仲は急接近していくことになる。

数週間後、彼女から別のバーでアルバイトをしているから遊びに来てほしいとの連絡があり、喜んで向かった。

突拍子のない流れだが私はこの日カウンター越しの彼女に初めてキスをした。

カウンター内にいた別の女性スタッフが私は邪魔?笑
というほど盛り上がってしまったのである。

その女性スタッフの計らいで彼女は早上がりして、何件かハシゴし、その日、私たちは結ばれた。

それからお互い住んでいる場所が近かったのもあり、家を行き来してる間に私が彼女の家に転がり込む形で同棲。

その数年後、転職の関係で私は埼玉の東京都よりの市に引っ越す事になり彼女はそれについてきてくれて埼玉での同棲がはじまり、約1年後結婚に至ったのである。

よく考えてみれば友達の多い都内からよくついてきてくれたものである。今更ながら感謝しています。


結婚生活について
彼女との結婚生活は当初は良好であった。
当然であるが、好きだから付き合い、愛が深まり結婚に至る。

当然私は彼女を愛していたし、愛されていたと思う。

外食に行ったり、買い物にいったり、旅行に行ったり、思い出は尽きない。山ほどある。もちろん喧嘩も幾度となくあるが乗り越えてきた。

誰しもが幸せを願って結婚をする。
政略結婚でもない限り現代に於いてはそうであろう。

しかし、我々の結婚生活には綻びが生じ、破綻をむかえる。


離婚への道を考える

勿論、我々は聖人君子ではない。
いい時もあれば悪い時もある。
感情の波もある。ここでは彼女のここが嫌だ、ここを直してほしかった等々の事を書くつもりは一切ない。

なぜならば離婚に至る原因と喧嘩があったのであるが、今となってはどうでもいい。

良いことしか思い出せない。

私はまだ、もう妻と呼べない彼女を愛しているのである。

故に己の不甲斐なさ、至らなさが許せなく涙がでてくる。

直接の原因となる喧嘩の前にも私のせいで悲しい思いをさせてしまったことがいくつもある。
繰り返しになるが彼女の悪いところを書くつもりは一切ない。よくどちらか一方が悪いなんてことはないだとかなんだとかあるがどちらでもいい。自分が未熟であり甲斐性がなかった。ただそれだけなのだ。

離婚への引き金になる喧嘩より以前にも喧嘩があった。

それはある。
あるであろう。
元は他人である。
考え持ちがければ、主義主張も違うのである。

とりあえずその際に言われたことを列挙する

言葉遣いが汚い
小言が多い
乱暴と捉えられる言動が多い
※誓って彼女に暴力を振るったりはない。
心が狭い

等々、列挙したらきりがないほどある。
すべて心当たりはあるし、指摘されても仕方ないことである。

私が言えることではないが諸兄にはこうならない為にパートナーがいる方はパートナーから指摘された内容は真摯に受け止めてあげてほしい。


離婚に至る喧嘩以前に事件は起こった。

彼女の父が亡くなった。

私は義父とは2回しか面識はない。
なぜならばコロナ禍の影響が強い。

1度目は、コロナ以前に交際段階でお会いした。
私は韓国語が喋れないので彼女が通訳をしながらカフェでビンス(かき氷のようなもの)を食べ、マジャンドンという、食肉卸市場で韓牛の焼肉を食べたりした。

この1年後、義父は肝臓がんステージ4と診断された。


彼女の家庭は片親である。
父がいて、兄がいて、彼女がいる。
義父は足に事故が原因の障害がありながらも2人の子供を家具職人として育てたのである。

彼女は父をとても尊敬していたし、家族として愛していた。

そんな父がガンとわかり、彼女は度々韓国へ帰った。

いよいよ危険という状況もあり
2022年5月末から23年1月中までを彼女は韓国で過ごすことになる。

私は彼女の意見を尊重して快諾し帰国させた。
7月には私もコロナ禍真っ只中の中、渡航制限中の韓国へ行った。

義父とはこの時2度目の対面を果たす。

感染症法対策で実の子供でも面会が叶わぬ中義父が入院した病院へ訪問し事情を話すとわざわざ日本から来ているからと5-10分程度面会を許された。

奇跡である。
この時の病院の計らいには頭が上がらなかった。
彼女も久しぶりのようで、涙を流していた。つられて私も涙ぐんだ。

義父は抗がん剤の影響か髪は抜け、車椅子で看護師に押されてきた。

1年前より筋肉は落ち、体が小さくなっていた。

力無い手で握手をする。

弱々しくもあり、それでも懸命に闘う強い手だった。

言葉は話せないが、目を見て彼女の通訳をに頼らず日本語で伝えたいことを話した。

通じないが何か伝えたかった。

そんな再会が2度目。
涙腺が震えた。涙がこぼれないように必死だった。

彼女は病院から出ると『ゆたのおかげで久しぶりにお父さんと会えた。ありがとう』と涙を流して言った。

こちらこそだ。
何もできない申し訳なさがほんの少しだけ和らいだ。

帰国後、私は実家に帰省して、今回の渡韓について自信のと母が尋ねる。母は彼女の心配をして聞いたのだろう。

私は自分の思ったことを伝えるのが下手だ。
感情を出したくないというか、表現も下手だ。
なんなら余計なことは言うが、肝心なこと大切なことは喋らなかったりする。

思いやったり、励ましたり、気にかけてあげることが苦手だ。強がったり、冗談や軽口を言って誤魔化すふりをする。

『それでJちゃんはいつかえるって?まだいるの?』
母の問いに『んーまだわかんね』とぶっきらぼうに答えた。

『なんでわかんないのよ!そういう話はしないの?』のようなことを言われたような気がする

私の本心は彼女を義父の近くにいれるだけいさせてあげたい。父を看取らせてあげたい。自分のことは気にしないでいいからその時間を大切にしてほしいと心から思っていた。

だから彼女の日本への帰国は義父の死なのである。

いつかえってくるの?なんて聞けるわけがない。

だから私は彼女へ義父の体調を聞くことはしなかった。

彼女としてみれば、唯一の父に1分1秒でも長く生きてほしいだろうし、気軽に面会できないことなど重々承知なのである。

そんな彼女に確認のしようもない毎日死に一歩近づく義父の体調を聞くなどという残酷な真似はできなかった。

彼女も追い詰められていく。
心身の疲れから心療内科へ通い始めた。

日々ラインで連絡をしていた私は、その一報に多少は身を案じたがらこっちは気にしないで大丈夫だよ!とアピールするかのように近況を伝えたり、冗談を言ったりして場を和ませようとした。バカである。
いまならわかる。彼女は優しい言葉が欲しかっただけなのだ。重ね重ねバカである。

月日は流れて10月末
義父が亡くなる。

私は葬式にはいかなかった。いけなかった。
葬式はどうしても急遽である。いけなかった。
転職して数年が経っているが四苦八苦しながら毎日を過ごしているし、私の部署は私含めて2人で膨大な量の仕事をこなしている。いいわけだがその時期は繁忙期で7月に無理を言って休みを頂き渡韓したのだ。ましてやコロナ禍の海外。ハードルは高い。

いや、これも言い訳だ。
行こうと思えば行けたはず。
でも行けなかった。

四十九日の法要は参加した。
あらかじめ予定も立てやすい。
義兄の家で行われるとのことで弔問と兼ねて伺った。

細かくは割愛するがお隣とはいえ作法が日本とはかなり違かった。最後の挨拶ができてよかった。

彼女は遺品整理や、父の会社の寮の片付け。あとなによりまだ韓国にいたいというので尊重した。

入れるだけいればいいさ。

月日は流れて23年1月中彼女は帰国した。
うれしかった。態度には出さなかったが成田に迎えに行く道中も少し高揚していた。

久々に会う彼女は元気そうに見えた。
彼女のリクエストもあり寿司を食べて帰ったのを覚えている。

しばらくして日常に戻っていく。すこしずつ。

忙殺の日々を過ごしていく。

離婚の引き金となる日になった。
彼女は日常にもどり、新しく仕事を始めていたり

化粧品の販売スタッフだ。安心した。

8月のある日彼女は珍しく私に送迎を頼んだ。
迎えに行ったときに事件は起こった。
会うなり彼女は悪態をついて文句を言ってきた。

詳しくはもはやおぼえていない。
今となってはどうでもよいし、いいことしか覚えていないのだ。ただグッと我慢はしていた。

帰りは食事をして帰ることになった。
なぜかこの日も寿司だった。

食事をしながらも彼女の文句はとまらない。私を批判し倒した。

遂に限界をむかえキレてしまった。
今更ながら反省しているし、自分の器の小ささにも。お猪口かおまえは。つるとんたん見習え。

帰り道の運転は荒れてしまった。
いやちがう、わざと荒れたのだ。

私、怒ってますよーとアピールするかのように。

彼女は不愉快そうに『はぁ、ここで降ろしてくれる?!』

幸いもう家の近所だ
止めなかった。歩いて帰れくらいに思ったはず。

その日を境に寝室は別になり、会話はなくなった。

私は建築業のなかで管理をするような仕事をしている。
ちょうど翌週から港区の突貫再開発工事を担当した。

土日祝休みなく働くうちに忙殺されてていく。
余裕がなかった。これも言い訳だ。器量がなかった。

工事がおわった。

もう10月だ。

この間、既に2ヶ月会話がない。
気まずくなっていく。深みにハマる。抜け出せない。

また月日が流れ

11月12月

年が明けて1月4日

遂に最後のラインがくる。

ゆたと口喧嘩して、それで運転荒くしてからもう半年もお互い話も何もしないのどっちにも何の役に立てずだし、ここまでにしましょう。
日本でも精神科まで通うの結構辛いもので…
お互いの為に離婚届出そう。

昼間色々と話しようとしたら呼んでも反応しなかったからそのまま外出したけど、家族や友達の心配もあり出来るだけ早くこっちの生活片付けて韓国に帰りたいので離婚届書いて欲しいです。

なる早で書いて頂きたいので、宜しくお願いします。

キッチンのテーブル上に今日帰ったら離婚届置いておきますね。

ほぼ原文ママ

急に焦る

何度か話しかけようとした。
しかし意地を張ってしまっていたし、小さいプライドが邪魔をした。くだらない。

すぐにラインを返す。まず話をしようと。
とりあえず起きて待ってるから話をしようと。

女性というのは切り出す時にはもう決まっているような気がする。とりあえず足掻いた。

話し合いは夜明け近くまで続いた。
やり直すつもりはないそうだ。ナントカシタイ。
自分も放置しといてそんな感情がわいてくる。

便箋に気持ちをまとめて、謝罪し、やり直したいと書く。具体的に。



幾日が過ぎる
直接会話を設けた。

彼女の心はもう決まっていた。
彼女はいくら日本語がうまくてもここでは異邦人である。外国での生活、新しい仕事、父の死。不安要素は尽きない。日々、精一杯だったのだ。

限界だった。配慮が足りなかった。
思いやりも足りなかった。もっとああしておけば。
後悔は尽きない。

韓国で肉親の臨終から心療内科に通っていたことも知っている。

新しい仕事のストレスも知っている。
加えてその日は生理だった事を知る。
彼女の月の物は重い。
子宮筋腫で手術を数度したこともある。

気づいてやれなかった後悔しかない。
これほどマイナス要素が重なれば人にだって当たりたくなる。言われたことなんて些細なもんじゃないか。

彼女はこの一年のことも語ったり
当時、義父の体調を気にかけるひとこともないこと
当時、彼女の心身を気にかけるひとことがないこと
義父の葬式に参列しなかったこと
彼女の近況、体調、メンタルを知りつつ怒ってしまったこと
長期間、会話がなく、不安に過ごさせてしまったこと
その間に話しかけるチャンスはたくさんあったこと
具体的には彼女の誕生日、一周忌、結婚記念日、クリスマス、正月
総じておもいやりがないこと
などなど他にも

いま、彼女の眼には心無い私しかいないのである。

国際結婚の離婚率は50%を超えるらしい。
二組に一組は離婚するのである。
当然、国が変わればルールも変わる。
文化も違う、言葉も違う。

国にもよるが日本人のような目で語るなどない国もある。

日本語がうまいとはいえ異邦人なのである。

言葉に表す、態度に表す。

特に韓国は儒教の国である。
家族を大切にするのは基本なのだ。
近い隣国とはいえ文化の違う外国だ。

ちゃんと態度と言葉で表すのは大切だ。

みなさんはこのようなことのないように

ま、半年も放置しちゃったらそうなるか

この文も一気に書いてるのでまとめきらず、本意とは違う表現になってること、説明が足りないこと、などなどあるだろう。全部己の未熟さ、器量のなさ、力不足なのであろう。

離婚届にサインをしました。
土曜日提出致します。

後悔先に立たず




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