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短編小説 バー羽ばたき

僕がかつて、映画監督を目指していた頃、たまに通っていたバーがあった。
そのバーはゴールデン街にある「羽ばたき」というバーで、なぜかは分からないが、映画関係者がよく集まるバーだった。
僕もそこで、有名な俳優や映画監督に会った事がある。

そのバーのマスターは川島さんと言って、おべっかを使わず、歯に衣着せぬ物言いなのだが、根底に愛があるせいか、見えない気遣いがあるせいか、言われた方もいやな気がしない、独特の雰囲気のある人だった。

僕も、人生に悩んでいた時期(今も悩んでいるのだが)よく人生相談をして、ズバズバと思った事を言われたものだった。

しかし僕は、映画の仕事を体調を崩してやめてから、そのバーには行かなくなっていた。

行きたい気持ちもあるのだが、そもそも最後に行ってからもう4、5年経っていて、僕の事を覚えているかどうかも分からないし、たとえ覚えていたとしても、「体調を崩して映画監督になるのを諦めました」という話をわざわざしに行く、というのも、何か気乗りしないものがあった。

しかしその日は、なぜか、仕事帰りにちょっと行ってみようという気持ちになった。

僕はゴールデン街に行った。

久しぶりの羽ばたきの前に立った。

外からは内部が全く見えなくて、一見さんには入りにくい扉も、当時から変わらない。

少々緊張しながらも、意を決して中に入った。

時間はまだ7時頃で、お客さんは誰もいなかった。

川島さんは、いつものように、お通しの準備をしていた。
このバーはお通しも美味しいのだ。

「あー、竹田くん。久しぶり」
川島さんは覚えてくれていた。
「お久しぶりです」
「何にする?」
「じゃあ、ハイボールで」
「ハイボールね。了解」

そしてハイボールとお通しの魚の煮付けが出てきた。
「ありがとうございます」
「大分久しぶりだね。4、5年ぶり位?」
「そうですね」
「どうしてた?最近は」
「いや、実は・・」
「・・・」
「体調を崩して映画の仕事をやめまして・・・」
「・・あー、そうなんだ」
「今は家具職人の仕事をしてます」
「あ、そうなんだ」
「なんで映画監督になるのも諦めて・・・。家具職人の仕事も嫌いじゃないんですが、なんか人生の目標を失ってしまった感じがあって・・」
「なるほどね・・・」
川島さんはカウンターの中の椅子に座った。
「まあ、俺もさ、元はといえば小説家になりたかったんだよ」
「あ、そうなんですか」
「うん。それで小説の新人賞に応募したりして、佳作とかは取った事もあったんだけど、結局デビューはできずでね」
「・・・」
「それで、ゴールデン街が好きでよく通ってたから、ここでバーでもやるのも悪くないかと思ってね。この店を開いたってわけ」
「そうだったんですね」
「この世のほとんどの大人は、何かしらの夢破れた人だと思うよ。誰もが皆、思い通りにならなかった人生を生きてるっていうか。ここに来るお客さんも、ほとんどそういう人達だと思うよ」
「・・・」
「でも、思い通りにならないっていうのは希望でもあってさ。俺も、昔はバーのマスターやるなんて思いもしなかったけど、そのおかげで今はまあ毎日それなりに楽しくやってるし。だから、竹田くんも、うまくいかない事もあるかもしれないけど、逆に、思いもよらなかったいい事が起こる事だってあると思うよ」
「そうですね・・」
「まあ、だからさ、今日は飲んで、楽しんで、また明日からやっていけばいいんじゃない?」
そういった所で、お客さんが入って来た。
「いらっしゃい」
「あー、川島さん、こんばんはー」
「酔ってるね」
「ちょっと別の店で飲んで来ちゃったのよ。いも焼酎くれる?水割りで」
「はいよ」
そうして、お客さん達とも話しながら、夜は更けていった。

そろそろ終電がなくなる時間になり、僕は帰る事にした。
「今日はありがとうございました。久しぶりに来て良かったです」
「来てくれてありがとね。次に来る時には、何か見つかってるといいね」
「ありがとうございます。また来ますね」
「はーい。気をつけて」

そうして、僕は羽ばたきを後にした。
外に出ると、飲んだ体に、夜風が気持ちよかった。

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