【短編小説】図書館で見た夢

 小さな頃、夢を見るのが怖かった。眼を閉じて、夢の世界に入って、そのなかではきっと会いたくない人に会うんだろうだとか、得体のしれない何かに襲われるんだろうだとか、そんなことを想像し始めると、幼い頃のわたしの目はたちまち冴えてきてしまうのだった。そのせいでいつだって夜が長く感じた。外で鳴く虫の声や、路上を走る車の音ばかりが耳に残った。ベランダの外から見える街灯のオレンジばかりが目に映った。そうして眠れないまま学校に行くことも多くあった。
「夢を見るのが怖いの」
そのことを他の人に打ち明けたこともあった。母親や父親はそれを聞いて、わたしが寝ている間ずっと傍にいてくれた。また、わたしが眠りやすいように本を読み聞かせてくれたこともあった。「幽霊なんていないよ」と気休め程度に言ってくれた。ただ両親がそうしてくれたときの記憶というのは、本当に幽かなもので、むしろそんなエピソードよりも遥かに記憶に残っていることがひとつあった。
 わたしはそのひとに同じように「夢を見るのが怖いの」と言った。ただそのひとは特にわたしに優しくするでもなく冷徹にこう言った。
「現実だって夢と同じように怖いよ。そういう意味では現実も夢と同じで、それで、現実も夢と同じように幻みたいなものだ。」
そのひとはわたしがひとりで公園にいるときにたまたま通りがかった近所の青年で、よく顔を見かける機会はあったけれども、名前は知らなかったし、そうして喋ったのもそのときの一回限りだった。彼はわたしの乗っているシーソーの反対側に座りながら、続けて溢すように言った。
「せめて夢の中だけでは、思い通りの世界を生きれたらいいのにね。」
シーソーが揺れるたびに彼の体の重さをわたしの身体ぜんぶで感じた。彼の言葉は要領を得なかったけれど、シーソーの反対側から伝わる彼自身の重さが彼の言葉と結びついて、わたしの身体に棲みついたように離れなかった。
 その日以来、彼を見かけることはなくなった。もう彼がどんな顔だったのかは思い出せない。


 クラスメイトが友人たちと笑いながら会話をしているなか、わたしはひとりで教室の自分の机に突っ伏して寝たふりをしていた。そして寝たふりをしながらわたしは、周囲の音すべてが遮断されればいいのにと思っていた。いっそのことわたしとそれ以外とで世界が断絶されればいいのにと思っていた。
 わたしは耳を塞ぎ、瞼を閉じた。そうすると幾分か外界と自分が隔てられているような感覚になった。だが、それでもわたしの五感は敏感に周囲の空気を察知していた。わたしはさっきよりも強く強く瞼を閉じた。あわよくばそのまま眠ってしまいたいと思った。夢の世界に入り込みたいと思った。怖い夢に魘されることもあるけれど、たまには楽しい夢を見られることだってある。そのぶん夢の世界は現実よりもまだ希望に満ちていた。方法は何でもいいから、ただただここから逃げ出したいと、わたしはそんなことばかり思っていた。
 けれどもそんな願いが叶うことはなく、逆に周囲の音を捉える聴覚ばかりが敏感になって、クラスメイトが話す会話の内容がいやでも頭のなかで耳鳴りのように反響するのだった。
「お前、あいつに話しかけて来いよ。」
「やだよ。お前が行けよ。」
「なんでだよ。お前が言ったんだろ?ボウリング負けたほうがあいつに話しかけに行くって。まさか忘れたわけじゃないよな?」
わたしは下を向いて、会話が聞こえていないふりをする。
「いや、確かに言ったけどさ、なんかあいつ怖いんだもん。それにさ、それを言うならお前だってこの前の罰ゲームやってないだろ。」
「ん?なにが?」
「とぼけんなって。ほら、離れ校舎の図書館だよ。負けた奴が行くって約束だっただろ。」
「いや、知らねえって。」
「嘘つけよ。なんだお前、思ったよりビビりなんだな。」
「うるせえな。お前だってクラスの女子に話しかけるのも躊躇うくらいシャイだろ。」
そんな風にクラスメイトがふたりで会話していると、その輪の中にいたもうひとりが思い出したように言った。
「けどさ、あの校舎結構ガチらしいよ。俺らの三個上くらいの先輩がその図書館で神隠しにあったって話聞いたし。そのひと、今までほとんど毎日学校に来てたのに、ある日を境にいきなり来なくなったんだって。で、その先輩は今も見つかってないって話。」
「マジ?」
「マジ。無事に助かったっていう人も、そこに行くと必ず幽霊が出たとかポルターガイストだとか言って、怯えながら帰ってくるみたいで。なんかそこにある本がいきなり動き出して、やってきた人の体を掴んで、亜空間のなかに引っ張り込んじゃうらしいよ。ぜんぶ聞いた話だけど、結構やばそうじゃない?」
「いやいや、嘘だろ。噂だけ勝手に大きくなっただけだって。」
「でも五年前にそこの図書館でひとりの生徒が実際に死んだらしいよ。」
「でもなあ。俺、幽霊とか信じてないしな。それに、どんなに噂があったとしても、見えてないものを信じろっていうほうが無理だろ。けどとりあえず罰ゲームは変えるか」
「やっぱビビりじゃん」
「じゃあ、おまえが行くか?」
「俺の罰ゲームはあいつに話しかけることだろ?だったら行ってくるよ。」
「なんかずるいな。ついでにデート誘って来いよ。」
「やだわ。あいつとふたりきりとか地獄だろ。」
クラスメイトのひとりがわたしの席に近づいてくる。わたしは耐えられなくなって、教室から逃げるように走り去った。その様子をクラスメイト全員が茫然と見つめていた。


 当てもないままわたしは走り出していた。チャイムが鳴って、教室の中に戻り始める同級生の隙間を縫って、わたしは長い長い廊下を走っていた。その都度、肩がその同級生とぶつかり、みんながみんなわたしのことを訝しげな表情で見ていた。けれどもわたしはただひたすら走り続けた。誰の声も届かない場所にわたしは逃げ出したかった。
 わたしが走り続けていると、気が付いたら辺りはしんと静まり返っていた。急に立ち止まると息が切れて苦しかった。わたしは荒れた呼吸を整えながら、誰もいない場所を探してゆっくりと歩いた。
 そうして本校舎と離れ校舎をつなぐ渡り廊下を通ると、すぐ近くに、さっき話題に上がっていた図書館があった。
 こうして実際にやってきたのは今日が初めてだった。大抵の場合図書館に用などないし、あるとしても本校舎のほうを利用していた。クラスメイトが話していたみたいな噂はわたしもたちどころに聞いていた。だからこそ今までは近寄らないようにしていた。多くの人が怖がるのと同じように、わたしもまた噂が本当だったらと考えると怖かった。だが、もう今となっては、そんなこともぜんぶがどうでもよかった。
 わたしは図書館のドアを開けた。ドアからは金属が軋むような音がした。それだけでこの建物のありとあらゆるものが古びていることが分かった。図書館のなかもわたしの予想を裏切ることなく全体的に翳りを帯びていて、灯りもついていなかった。収められている本も古いものが多かった。漂う空気も、本校舎のどの教室よりも冷たく感じた。
 それは確かに多くの人が、気味が悪いと噂するには十分なくらい、暗く湿った雰囲気を醸し出していた。すべてのものは埃を被っていて、全体的に荒廃しているみたいな空気感だった。けれども今のわたしにはそれで丁度良かった。わたしは誰もいない貸出口のそばでひとり蹲った。
 自分の膝元ばかりが視界に映る。わたしはふと教室で噂されていた神隠しのことを思い出した。あの噂が本当なら、わたしもその失踪した生徒と同じようにどこかに消えてしまうんだろうか。わたしはそんなことを想像してみる。だが、うまく想像することはできなかった。自分がそのことに恐怖心を抱いているのかどうかさえも自分で分からなかった。
 そのときだった。わたしは、椅子に座った青年がひとりで本を読んでいることにふと気が付いた。今まで気が付かなかったのがおかしく思えるくらい、彼はわたしの近くにいた。てっきりここにはわたしひとりしかいないのだと思っていた。わたしが顔を上げると、ふと彼と目が合った。彼は読んでいた本に栞を挟み込みパタンと閉じた。
「珍しいね。ここにやってくる生徒はもういないと思っていたけれど。」
そしてわたしに向かって不意に笑いかけた。どうしてか分からないけれど、わたしはそんな彼から目を離すことができなかった。


 彼は見たところわたしと同じくらいの年齢で、わたしたちが着ている制服と同じものを身に纏っていた。知り合いではないし、顔も見たことはなかったので、きっとわたしよりも学年が上の生徒なのだと思った。けれども今は本当なら授業時間の真っ最中であるはずで、わたしだけでなく彼もまたここにいるのは少し妙だった。
 それに、わたしは初めて会ったはずの彼に対して、妙な既視感を覚えていた。彼の透き通るような全体像を見るたびに、どこかで一度会ったことがあるような気がしてならないのだった。けれどもいくら彼のことを見つめてみても、そのあったかもしれない記憶に付随するような情報は彼からひとつも見いだせなかった。
 貸出口の傍に座っていたわたしの横に自然と溶け込むように、彼は腰を下ろした。
「きみも噂につられてやってきたの?って聞こうと思ったけれど、どうやら違うみたいだね。」
わたしはできるだけ何も喋りたくはなかったけれど、やっとのことで口を開いた。
「あなたはそうじゃないんですか?」
わたしが訊ねると、彼は少しだけ驚いたような表情をしていた。
「いやいや、ぼくはそうじゃないよ。ただ本を読むのが好きだし、ほら、ここは人がほとんどいなくて静かだろ?たまに好奇心旺盛な人たちが肝試しかなんかで来たりするけどさ。それでも、噂も相当真実味を帯びたものになってきてるみたいだから、もうほとんどのひとはここには来ないよ。基本ぼくひとりだ。」
「噂は本当なんですか?」
「さあね、ぼくには分からない。もし命が惜しいなら今すぐ帰った方がいいかもね。」
彼はそう忠告したけれども、わたしはもとよりそれを聞く気はなかった。
「わたしは戻りません。」
わたしはそう言って下を向いた。スカートの裾を皺ができるくらい力いっぱい握りしめていた。そうしていないと図書館を漂う冷たい空気に押しつぶされそうだった。意地になって言った言葉は、思ったよりも自分の強情さが滲み出ていて、わたしはわたし自身がとてつもなく無力な存在であることを思い知らされたような感覚になった。
「そう。だったら好きなだけいるといいよ。」
彼は思いのほかあっさりとそう言った。
「あなたは授業に戻らないんですか?」
わたしは気になって訊ねた。
「うん、授業なんてぼくにはずっと意味のないものだから。」
彼はわたしの隣でまた持っていた本を読み始めた。
「やっぱり勉強は意味ないって思いますか?」
わたしが訊ねると彼は答えた。
「ぼくにとってはね。それは人によって変わる。けれど、何について言うにしても、客観的に意味のあるものなんてこの世に存在しない。」
わたしは何も言えず黙っていた。誰も喋っていないと、彼がページを捲る音だけが図書館内に響き渡った。


「あなたは見えてるものがすべてだって、そんな風に思いますか?」
沈黙が重苦しくて仕方なかったけれど、わたしは何とか口を開いて彼にそう訊ねた。それは半ば自分の内面を吐露するかのような質問だった。それだけに、宙に浮かぶ言葉が、空気中でより重く振動しているような気がした。
 彼は少し考えるような素振りを見せてからこう言った。
「さあね。一般論ではどうとでも言える。けれど、自分がどう思ってるかと訊かれると難しいね。それに、自分の思っていることと、実際に自分が見えているものが著しく乖離してることだってあるから、自分の認識が正しいとは限らない。だから答えるのは難しいな。きみはどうなの?」
わたしもまた彼が言ったように、いざ訊かれてみると答えるのが難しかった。だが、それでもできるだけわたしが思っていることを忠実に言葉にしていった。
「わたしは、わたしは、結局みんな自分の見えてるものしか信じられないんだって思います。」
わたしはそう言った。彼は肯いた。
「なるほどね。」
彼はわたしのことをじっと見ていた。
「あなたの言ってた通り、口では何とでも言えるんです。見えてるものがすべてじゃない。世の中には自分の知らないことがたくさんあって、自分の知ってることだけで判断するのは危険だって。けれど、葉っぱは緑で塗らなくちゃいけないし、空は青で塗らなくちゃいけないし、太陽はオレンジで塗らなくちゃいけないんです。だから、みんながみんなわたしの絵が変だって馬鹿にします。それで、教室でわたしがあんまり喋んないとか関係ないことまで色々言われて、一緒にいるのが地獄だって言われて、先生はわたしがみんなから散々な目に合わされてることをわざわざ学級会を開いたりして、でもわたしが実際どう思ってるのかとか、そういうわたしの感情自体は見ようともしてなくて、ただ先生が思った通りに話を進めるだけで、それで、最後にはみんなわたしが変だって言うんです。見えてるものがすべてじゃないって言いながら、みんな自分が見えてるものがすべてなんです。」
彼は黙って聞いている。わたしはそのまま続けた。
「だから思ったんです。みんな目に見えてるものしか信じられないから、だからわたしがいなくなればきっと誰もわたしを信じなくなるんだって。それで、そうなれば、わたしも信じられる必要がなくなるから。だからわたしだけ消えちゃえばいいんです。」
わたしは自分で自分を斬りつけるみたいに言葉を溢していた。わたしが何かを言うたびに、言葉はわたし自身の身体に無数の傷を与えているような気がした。ただでさえ暗かった視界がさらに暗くなったように思えた。いっそのこと、そのまま夢のなかに入り込めたらいいのにとまたそんなことを考えた。
 けれどもわたしの話を聞いた彼から返ってきた言葉は思いのほか優しいものだった。彼はわたしの正面からわたしのことを覗き込んで言った。
「いや、ぼくはきみの世界に興味があるよ。太陽をオレンジに塗って、空を青で塗る人の世界よりもね。ねえ、きみが見えてる太陽はどんな色をしてるの?」
訳も分からず涙が溢れ出して止まらなかった。


 それからわたしたちは様々なことを喋った。わたし自身の話、彼自身の話、わたしの趣味、彼の趣味。話を聞いていると、彼には年上とは思えないほどのあどけなさがあった。彼はその大人びた口調から得られるイメージとは反して、公園をこよなく愛していた。
「中学生になってもさ、ブランコとかシーソーとか滑り台とかそういう公園の遊具が好きだったんだ。でもひとりで乗ってるのを見られるのは恥ずかしいから、塾帰り、夜とかにこっそりひとりで遊んでたんだよ。あれは確かぼくが中学二年のときかな。その時間なら子どもも家に帰ってるし、知り合いは誰も通りがからないから。そしたらさ近所のおじさんがぼくのほうに突然やってきてさ、『そこの遊具は十歳以上のひとは遊んじゃいけないって書いてあるでしょ』って怒られたんだよ。さすがにあのときはショックだったな。」
わたしは笑いながらその話を聞いていた。それからも彼はわたしに色々な話をした。この場所の時計が壊れているのもあるかもしれないけれど、時間の経過を忘れるくらい、彼と過ごしているのは楽しかった。わたしも彼に倣って、わたし自身の話をした。
「太陽を黒く書いたんです。熱って黒ってイメージがして、それでオレンジで描くと明るいイメージになりがちだけど、それはわたしのイメージとは違くて。」
わたしがそう言うと、彼は訊ねた。
「きみのイメージでは太陽はどんなものなの?」
わたしは答える。
「眩しくて思わず目を顰めてしまうものっていうか、眩しいだけじゃなくてそれが疎ましく感じることもあって、だから大地を焼き尽くすようなイメージで描きたかったんですけど、それで先生に怒られました。太陽は黒じゃないだろってそれだけ言われて。奇を衒ってるって言われて。なんで太陽は決まってきらきらしたものの象徴として書かれなきゃいけないんだって思ったんですけど、結局言えませんでした。」
わたしがそう言うと彼は、
「そうなんだ。それはきついね。」
とだけ言って肯いた。
 こんな風に誰かに自分のことを包み隠さず喋ったのは生まれて初めてだった。そしてわたしの言った通りに相手が解釈してくれるというのも生まれて初めての体験だった。
 気が付けば自分自身にまつわるほとんどのことを彼に喋っていた。そして知らないうちにわたし自身が彼の表情の動きをつぶさに観察しながら自分の話をしていることに気が付いた。彼が笑うとたちまち嬉しくなった。彼がわたしの話を興味深く聞いてくれると、わたしの発した言葉が、途端に生命を持ち始めたみたいに、色づき出すような気がした。出会って数時間しか経っていないはずなのに、わたしと彼が同じ回路の上を歩いているような、そしていつの間にか彼とひとつになれたかのような感覚になった。その瞬間、わたしは彼だけを自分の瞳に捉えていた。


 いつしか一日の授業がすべて終わって、夕方になっていた。図書館の窓の外に夕焼けが紅く映えていた。夕焼けに染まる彼の頬がとてつもなく綺麗に見えた。わたしはそのとき、どうしようもなく彼に触れたいと思った。
 わたしが手を伸ばそうとしたとき、彼が途端に喋り始めて、わたしは慌てて手を引っ込めた。
「いやあ、久しぶりにこんなにいっぱい話したよ。」
彼は少しばかり満たされたような表情でそう言った。
「いつも誰かと喋らないんですか?」
わたしは平静を装うように訊ねた。
「まあね。ぼくはいつもひとりだから。もともとそれが苦にならないタイプの人間なんだ。けど今日は楽しかったよ。ぼく自身、こんなに色々喋るんだって知らなかったし、それは少し怖かったけど、まあ、たまにはこういうのもいいもんだね。ところでもう夕方だけど帰らないの?」
わたしはそう訊かれて、逆に訊き返すようにこう言った。
「あなたは帰らないんですか?」
彼はそう言われて、なにかを隠すようにこう言った。
「ううん、きみが帰ったら帰るよ。だから先に帰ったら?」
けれどもわたしはきっと、彼が隠したがっていることを既に知っていたのだ。だからこそ余計にそんな仕草が不自然に映った。本当は彼と出会ったそのときからずっと気づいていた。
 わたしは、ずっと今まで思っていたことを仄めかすようにこう言った。
「わたしを攫わないんですか?」
彼は驚いたようにわたしの方を見ていた。
「いや、さすがに気づいてますよ。だっておかしいじゃないですか。こんなところにひとり、しかもわたしが来る前からずっといるなんて。」
彼はそう言われて、図星をつかれたように居心地の悪そうな顔をしていた。それから諦めたように口を開いた。
「ああ、ばれてたのか。きみが全然その話をしないから、てっきりばれてないものだと思ってたよ。」
彼は自分が今まで隠し事をしていたのを少し後ろめたそうにしながら、そんな風に言った。
「亜空間はどこにあるんですか?」
わたしは訊ねた。
「所詮は噂だよ。」
彼は答えた。
「神隠しは?」
わたしはまた訊ねた。
「消えた生徒なんてもとから存在しない。随分と大きな尾ひれがついたもんだよね。それも所詮噂さ。」
彼はそう言って、悪戯をしたことが大人に知れたときの子どもみたいに無邪気に笑っていた。
 わたしは彼のその表情を見て、余計にこの場所から立ち去りたくなくなった。言葉を続けていないと、この空間ごとどこかに消えてしまいそうで、わたしは半ば話題を無理やり創り上げるように別のことを訊いた。
「そう言えば、本が好きって言ってましたけど、あなたがずっと読んでるその本って何ですか?」
わたしが訊くと、彼は答えた。
「ああ、これ?これはね、父が書いた詩集だよ。父は詩人だったんだ。」
彼はそう言って、それから溢すようにこう続けた。
「詩集とか読んでるとね、ああつくづく詩ってぼくみたいだって思うんだ。」
「どうしてですか?」
わたしは訊ねた。彼は答える。
「だって物語になりきれないとことかさ、そっくりだろ?なんか、物語になれなくても生きていることをなんとか許されてるみたいでさ。あなたの人生には他人が楽しめるような展開なんてどこにもないけれど、それでもとりあえずあなたの人生は文章だからって。」
彼は続ける。
「誰もが羨むような人生が物語の最たるものだとして、ぼくの人生はたぶん誰かが酔っぱらいながら書いた雑文くらいのものでしかなかった。本当は詩ですらないんだ。でもさ、ぼくは思うんだよ。きみにはきっと物語になれるような将来があるって。ぼくとは違ってね。」
わたしは必死に首を振った。
「あなたの人生だって十分魅力的です。それに詩っていうのは得てして綺麗なものですよ。」
わたしはなんとかして彼の言葉を否定したかった。自分が彼をどうしようもなく羨んでいるのだと分かってほしかった。けれどもわたしの言葉はきっと、彼には届いていなかった。
 彼は謙虚に、けれども心の底から本音を吐き出すように、わたしの言葉を否定した。
「そんなことないよ。綺麗じゃない詩だって存在する。きみは知らないかもしれないけれど、吐いて捨てるような文章だってこの世には数多く存在するんだ。父が書いたものみたいにね。けれど、まあ、そう言ってくれるのはぼくとしても嬉しいよ。」
彼はそう言って笑った。その表情は夕焼けとともにたちまち消えてしまいそうな予感を孕んでいた。
「わたしを連れてってくれないんですか?」
わたしはほとんど泣き叫ぶようにそう乞うた。けれども彼は一言だけこう言った。
「じゃあね。」
わたしが掴もうとした彼の腕はたちまち靄のように暗い図書館のなかで消えていった。夕焼けが沈んで夜になり、外で街灯が灯り始めていた。彼のいなくなった図書館はしんと静まり返っていた。


 ふと気が付いて起きてみると、そこは家の寝室だった。わたしが寝ているのを心配そうに母親が覗き込んでいた。どうしてここにいるのかと訊いてみると、わたしはどうやら離れ校舎と本校舎の渡り廊下の中心で倒れていて、そこをたまたま通りがかった見回りの先生にそれを発見され、家まで運ばれてきたのだという。けれどもそう説明されても、その状況は到底わたしの納得のいくものではなかった。
 わたしは目を覚ましてから、夢中になって今日起こったことを母親に話した。そして父親が帰ってきてからは父親にも同じことを話した。
 けれども彼らはわたしのその話を真面に信じてはくれなかった。「きっと疲れてたんでしょうね。先生も貧血だって言ってたし。」と軽く言われて、「今日は早めに寝たらどう?」と続けて言われただけだった。
 わたしはしばらく休んでからベランダにひとりで出て、街中に立ち並ぶ街灯を眺めた。虫の声があちこちから聞こえてきた。車が路上を走る音が煩く響き渡っていた。
 そのなかできっとわたしだけが知っていた。他の誰にも見えていないけれど、それが現実だったのかを証明する術はどこにもないけれど、わたしには確かに見えていた。
 わたしの瞳の中だけに、彼が棲みついていた。


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