【掌編小説】昼、喫茶店にて青春を捨てる

 休日に当てもなく街中を歩いていると、わたしは偶然ひとつの喫茶店を見つけて、特にすることもなかったわたしはそのまま店内に入っていった。外は煌びやかな太陽が今も燦々と照り付けているはずなのに、店内はその外の風景がまるで嘘であるかのように仄暗い雰囲気を醸し出していた。辺りを見渡すと店内にいる客はわたしひとりだけで、あとはカウンターのすぐ近くにひとり店主が佇んでいるだけだった。
 わたしはそのとき、やっとこの瞬間、後ろを向き、下を向くことが許されたのだと思った。そして、さよならと言うべきものたちに別れを告げることができるのだと思った。それで、店主が目の前に見えるカウンターに腰かけた。
 わたしが紅茶を注文すると、店主は紅茶を淹れ始めた。わたしはそのときカウンターに置いてあるひとつのペン立てが、数本のペンで埋め尽くされているのを発見した。
「どうしてこんなにも多くのペンがここにあるんですか?」
わたしが訊ねると、店主はこちらを覗き込んだ。ふとあの人に似ていると思った。こんなことをあの人の前で言ったら、それはわたしのごく身勝手な感傷に過ぎないと笑いながら言われてしまうかもしれないけれど。
「よくここに勉強しにくるひとがいるんですよ。それで、ペンとかは数本あったほうが便利かなと思ってぼくが置いてみたんですけど、よく考えてみたら学校帰りの生徒たちは自分の筆記用具を持ってるだろうし、自分で勉強するひとたちも、自身でそれらの類のものをちゃんと一式持ってくるんですよね。だから結局誰にも使われずじまいです。」
わたしはペン立てのなかから一本のペンを手に取る。使われていないせいか少しだけ埃を被っていた。
「ですから、もしよろしかったらどうぞ。その方がここに置いてあるペンも浮かばれます。」
店主はそう言った。
「紙もあったりしますか?」
「ええ、どうぞ」
そう言って店主はわたしにメモ用紙を渡してくれた。それから一緒に注文した紅茶がやってきた。わたしは紅茶を飲みながら、メモ用紙に借りたペンで昔のことを書きつけていった。
「なにを書いてらっしゃるんですか?」
店主は興味本位でそんな風に訊ねてきた。
「昔のことを文字で書き起こしてるんです。十九歳の頃に会った、わたしの人生のなかで一番印象的な人のことを。」
わたしがそう言っても、店主はいまいち要領を得ないようだった。それはそうかもしれない。わたしだって彼になにかを伝えようと思ってそう答えたわけではなかった。
「どうしてそんなことを?」
店主が訊ねると、わたしは答える。
「文字で書くことでしか、わたしのなかの思い出を具現化することができないからです。今、わたしの考え得る限りでは。」
店主は肯いた。
「なるほど。それは確かにそうかもしれませんね。」
彼がそれだけ言って黙ってしまったので、わたしも黙ったまま貰ったメモ用紙に借りたペンで思い出を書き連ねていった。
 わたしはしばらくして、ペンを走らせながら、あの人に似た店主にあることを訊ねることにした。訊ねるまでにかなりの時間躊躇していたのだけれど、ここではきっと自分を溢すことが許されているのだとそう思ったから。
「わたしは本当にあの人のことが大切だったんでしょうか?」
わたしは訊ねた。けれども彼にそんなことはもちろん答えようがなく、彼は黙ったままだったので、わたしは綻んだものをそのまま曝け出すかのように続けた。
「本当はあの人の記憶に残ればそれでよかったんじゃないかって、今になって思うんです。他人の記憶に残ることでしかわたしたちは自分を見いだせないから。そうすることでしか、わたしたちは存在証明なんてできないから。他人と比べるのも、他人に強い印象を与えようとするのも、すべては消えかかっている自分を顕在化したいから。だから、わたしが彼にしてきたこともすべてはその延長線上にあるものでしかなかったんじゃないかって。」
そう言ったわたしの言葉は、既にさっき貰ったメモ帳に埋まりつつあった。どうしても、今のわたしにはそんな風にしか考えられないのだった。
 けれども店主は優しく首を振った。
「確かにぼくたちは他人がいないと自分を見いだせない、それは紛うことなき事実だと思います。けれど、だからといってあなたの感情がなかったことにはならないとぼくは思いますよ。」
わたしが黙っていると、彼は続けた。
「そのとき楽しいと思ったことも、あなたが言う最も印象的な人を、大事に思っていたことも、それはぜんぶ事実だと思います。存在証明なんて結局はこじつけられた理屈に過ぎません。あなたは感情を体系化しようとしすぎなんだと思います。こんな見ず知らずの一店員の分際で、かなり出過ぎたことを言ってるかもしれませんが。」
わたしは首を振った。
「いえ、あなたは優しい人なんですね。」
そう思ったのは事実だった。ふとあの人の顔を思い出した。その手前で、彼は照れたように首を振っていた。
「やっぱり、文字で書き起こすのでは不完全なんでしょうか?」
わたしが訊くと、彼は答える。
「そうかもしれませんね。時が経つごとに過去もまた自分の中で変容していきますから。ただあなたの言ったように文字で書き起こすことでしか過去を具現化できないというのもある意味では事実だと思います。ですが、どうしてそんなに形にすることにこだわるんですか?やっぱりその過去が大事だからですか?」
彼がそう訊いてきて、わたしは告白するように口を開いた。
「思い出をすべて清算できる方法はないかって考えたんです。ぜんぶぜんぶ捨ててしまって、過去に囚われることなく生きる方法はないのかって。でも捨てられるものって大抵形のあるものだから。だから、いったん形にして捨ててしまえば、なにもかも忘れられるんじゃないかってそう思ったんです。それで、過去を形にすることばかりを考えてました。でも、言葉にすること、文字にすること、それぐらいしかわたしにはその手立てが思いつかなかったんです。ああ、わたしはいったいなにを喋ってるんでしょうね。」
わたしが下を向くと、彼はわたしを否定することなく言った。
「いえ、おっしゃることは分かりますよ。」「そうですか?」
「ええ。けれど、感情や思い出をいくら形にできたとしても、そのすべてを満遍なく形にすることはできないし、結局捨てることもできないんだとぼくは思います。自分が望んでいなくても、思い出は自分のなかに居座り続けるものだから。」
そう言う彼も、未だに過去に囚われ続けているのだろうか。わたしは少し想像してみたけれど、代わりに思い浮かぶのは、いつか見たあの人の表情だけだった。
「やっぱり、そうですよね」
わたしは力なく笑った。いつまでこんなことを考えているんだろうと自分で自分が嫌になった。けれども、その後で彼が言った言葉はわたしにとって少し意外なものだった。
「だから、そのぶんあなたはあなた自身の思い出を大事になさってください。」
彼がそう言うと、わたしは驚いて、彼のことをしばらく見ていた。それから思い出したように、
「ありがとうございます。」
とだけ言った。
 わたしが店を出て行こうとすると、彼は「またいらしてください」と声をかけてきた。わたしは軽くお辞儀だけして店を出た。
 言葉を弄してなお分からなかったことが、こんなにも簡単に分かってしまうなんてとわたしは思った。自分が今でもあの人のことを大切だと思っていること、自覚したくはなかったけれど、店主をあの人と重ねてしまう時点で答えは見えていた。
 わたしは再び明るい街に出て行く。結局、青春をろくに捨てられないまま、未練を抱き続けたまま。こんなはずではなかったとわたしは呟く。
 でもわたしはきっと、これからもあの喫茶店に通い続けるのだろうな、太陽の照り付ける街を歩きながら、ふとわたしはそんなことを思った。

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