【掌編小説】夜、ベランダにて回想

 夜になるとぼくはひとりでベランダに出る。半袖で出られるくらいの外気が既に辺りを漂っていて、ああ、もうすぐ夏がやってくるのだと、ぼくは自らの肌をもって実感した。けれども季節というのは、所詮、ぼくにとってはただの付属品でしかないのだ。だって、夜になってベランダに出ると、必ず彼がいるから。彼がいる間、いくら年月が経とうが、いくら季節が巡ろうが、きっとぼくは十九歳のままなのだ。
 風が吹き抜けて、木々についている緑色の葉が揺れる音がする。
「風で葉っぱが揺れる音って、雨が降ってるときの音に似てると思わないか。」
ぼくがそう彼に訊ねると、彼はいつものように素っ気なく答える。
「似てるかどうかは分からない。けれど、たとえ葉っぱの揺れる音と雨の降り注ぐ音が似ていたとしても、そこには何の因果もないよ。」
彼はそんな風にいつもぼくの求めていないことばかりを口にする。
「まあ確かに、因果なんてどこにもないだろうけど」
「じゃあ、似てることなんてどうしようもなく無意味だ。きみはいつだって、物事にありもしない関連性を見出そうとする。それはきみの悪い癖だ。」
ぼくが黙りこくっていると、彼は意地の悪い口調で続ける。
「いつも言ってるだろ。きみがずっと大切に思ってるあの人だって、きみとは本来、何の関連性もないことを。きみが、自身とその人が似てるような気がするのは、きみがその人のことを大切だと思ってるからだ。その人を自分とかけ離して考えられないからだ。その人はとっくにきみのことなんて忘れてるかもしれないのにね。」
ぼくは彼を睨みつける。けれども彼はそのまま続けた。
「いい加減気づいたほうがいい。運命なんてものは、どこにも存在しないって。」
ぼくは自棄になった。
「じゃあ、あの人がぼくにしてくれたことは全部噓だって言うのか?」
「そもそもあのひとはきみに何もしてくれてないじゃないか。単にきみの自惚れだよ。」
「あの人が、ぼくと似てるって言ってきたのは?」
「偶然だよ。全部は言葉の羅列だ。それに、たとえそのときその人に何かの感情があったとしても、きみが思ってるほど、感情なんて強固なものじゃない。きみが思うほど、あの人はきみに運命なんて感じてない。少なくとも今はね。」
「ぼくと喋ると嬉しそうにしてたのは?」
「あのさあ、今になってそんなことを考えても仕方ないって、本当はきみも分かってるんだろ?」
ぼくは何も言えず俯いた。ぼくが暫く何も言わないでいると、彼も黙っていた。
 気が付いたら午前三時半を回っている。ぼくは溢すように呟く。
「ぼくはさ、あの人だけがすべてだったんだ。あの人がいない人生なんて無いのと同じだ。」
彼はつまらなそうにぼくを見ていた。
「またそれか。きみはいつまでそうやって、どこかで見知ったような物語の上を走ってるつもりなんだ?」
「うるさい」
ぼくは言った。そうして、
「あの人がいないなら、ぼくに生きる意味なんてないんだ。」
と続けた。彼は溜息を吐いた。
「生きる意味なんて、誰にも等しく存在しない。」
「そういうことじゃなくて」
「そういうことだろう?生まれてある程度の寿命を全うして、後は灰になるだけだ。ぼくたちはただ生きてるだけだし、それ以上、なにを期待することがある?」
唐突に雨が降ってきて、ぼくたちは雨の音に耳を澄ませていた。ぼくはふと思い出したように、
「ほら、雨の音って似てるだろ?」
と言った。そうすると彼は小馬鹿にしたように首を振った。
「気のせいだよ。そんな下らない感傷、今すぐ捨ててしまえばいいのに。」
彼がそう言って、ぼくは言い返す。
「そんなことしたらぼくがぼくじゃなくなる。それで、あの人のことも忘れてしまうような気がする。ぼくはさ、心の底から思うんだよ。あの人のいないぼくなんて、どうしようもなく無価値だって。」
彼は嗤った。
「もとより、きみに価値なんてないし、確固たるきみなんてどこにもいない。」
「うるさい、黙れ。きみこそただ言葉に支配されてるだけの亡霊じゃないか。」
そう言うと彼はいつの間にか消えていた。そのとき雨が止んで、ちょうど朝がやってきた。
 そこでぼくの独り言は少しのあいだ幕を閉じる。だって、日が昇っているあいだは、下を向くことも、後ろを向くことも、等しく許されないのだから。
 だから朝が過ぎて、昼がやってきて、夜になって、そのときまたやってくるであろう彼に、ぼくは一時的なさよならを言った。
 ぼくの言葉はあの太陽に燃やされたんだ、そんな風に思ってしまうくらい眩しい朝日がベランダに差し込んできていた。

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