夏はなぜ有限なのか

夏は、なぜ有限なのだろうか。

季節は大きく4つある。春夏秋冬だ。ただ、この4つの中で、夏だけが有限である感覚はないだろうか。

夏は美しい。
覆いかぶさる入道雲は溶けたミルクアイスの色をしているし、蝉の声は寝ぼけた頭をさましてくれる。プールの後の塩素の匂いが漂う眠たい教室や、おばあちゃん家の蚊取り線香の匂いも、夏を想起させる。部活帰りのセブンティーンアイスも外せないだろう。どこかの家で鳴る風鈴と、こってりした夕飯の匂いはこの身を自宅へと運ぶ。

とにかく夏は豊かで、美しい季節なのだ。その時にしか感じられない、写真に残すにはあまりにも刹那的である。それだからこそ、夏を有限に感じるのだろうか。

夏は暑い。
街全体が焦げ付いたような、不思議な香りが充満している夏の日。側溝を覆う金属板に触れた時の熱さたるや、忘れもしない。夏の暑さはもはや病とも言えるだろう。実際フラフラになるし。灼熱がすべてを溶かすから、我々の心も溶けちゃっているのではないのだろうか。ゆえにアイスクリーム的な魅力がつきものだと言えそうだ。

何を書いているかわからなくなったから、ここらでやめようと思う。とにかく、夏は有限。だから美しいのだ。分かったかね。


tanka
上気する君 髪をなでつける時
夕陽と交わす アイコンタクト

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