191002_松下幸之助_1280_670

人間は大器晩成がよい

松下幸之助 一日一話
11月 5日 大器晩成ということ

よく世間では、あの人は大器晩成型などと言いますが、その場合はどちらかといえば、あまりほめたようには使わないことが多いようです。つまり、いまはまあまあだけれども、そのうちになんとか一人前になるだろう、といった調子です。しかし私は、この大器晩成というのは、もっと大事な意味を持っているのではないかと思うのです。

真の大器晩成型というものは、人生は終生勉強であるという考えを持って、ウサギとカメの昔話のカメのように、一歩一歩急がずあわてず日々精進し、進歩向上していく姿ではないかと思います。そういう姿をめざすことがお互いに大切だと思うのです。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

「大器晩成」の四字句の真意を理解するためには、その語源の書である「老子」から紐解く必要があると言えるのではないでしょうか。

「老子」は春秋から戦国の戦乱の世を生き抜くために書かれた智慧の書であり、別名「道徳経」とも言われ、「道」と「徳」の2本の柱から成り立っています。「道」とは私心のない「無(=無限大)」であるが、そこには天地万物を生み出す原理原則があり、その道を理解、納得、体得することが「徳」となるとしています。この「徳」を身につけることで、どんな厳しい戦乱の世でも生き抜くことができるとするのが老子の思想です。

老子の第四十一章には次のような言葉があります。

「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し。」(老子)

大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。という意味です。

中国思想史の研究者である東京大学名誉教授の蜂屋邦夫さんは、更に詳しく以下のように仰っています。

…「大方は隅なく」とは、無限に四角形を大きくしていくと、しまいには角が見えなくなることをいっています。三句目の「大音は声希かに」とは、無限の音は聞こえる音域を越えてしまうので、しまいには聞こえなくなるという意味です。「大象は形無し」とは、物を無限に大きくしていくと、その姿形はとらえられなくなるという意味です。どれも無限大という概念について語ったものですが、ひとつだけ趣の異なる文言があります。「大器晩成」=「大いなる器は完成するのが遅い」という部分です。

「大器晩成」という言葉は、器を人間の器量のこととして「大人物は年をとってから才能を表す」という意味で使われ、現代でもよく知られています。他の三つの言葉は否定的ですが、この言葉だけは、なぜか肯定的となっています。本来ならば、ここでは「無限大の器は完成することがない」と書いてしかるべきでしょう。

もともとの『老子』においては、この部分には別の語が書かれていたようです。一九七三年に発見された帛書『老子』を見ると、「大器晩成」ではなく「大器免成」となっています。「免成」とは「完成することを免れる」、つまり「大器は完成しない」という意味で、他の三つと同じ否定形になります。

さらに一九九三年に出土した楚簡を見ると、こちらは「大器曼城」となっていました。「曼」は「無」の意味で「免」に通じ、「城」は「成」と同じ意味です。このように新しい資料の発見によって、読み方の違いや解釈の違いが明らかになることもあるのです。…

(『NHK 100分de名著』2013年5月号より)

蜂屋さんの仰る通り「大器晩成」とは元々は、「大器免成(大器曼城)」と書かれ、「遅咲き」という意味ではなく「無限大の器は完成することがない」という意味だったするならば、世においては「器だけが大きすぎてその完成を見ることはない」という否定的な意味を含んで使用する習慣が残っていることも納得がいくと言えるのではないでしょうか。

また、完成を見ることがないからこそ、終生勉強が必要となり、その完成を見せない姿は「無(=無限大)」であり「道」の姿そのものではないかと私は考えます。


森信三先生は修身教授禄にて以下のように仰っています。

私は、人生の真の出発は、志を立てることによって始まると考えるものです。古来、真の学問は、立志をもってその根本とすと言われているのも、まったくこの故でしょう。人間はいかに生きるべきであるか、人生をいかに生き貫くべきであるかという一般的真理を、自分自身の上に落として来て、この二度とない人生を、いかに生きるかという根本目標を打ち立てることによって、初めて私達の真の人生は始まると思うのです。
(森信三著「修身教授禄」)

真の学問が志を立てることをその根本とするのであれば、「立志」とは「道」を認識し、体得するという「発心」や「決心」であり、その心を頓挫させないためには生涯を通して「相続心」を持ち続けることが不可欠であると言えます。

更に、森先生は以下のように仰っています。

真の道徳修養というものは、意気地なしになるどころか、それとは正反対に、最もたくましい人間になることだと言ってもよいでしょう。すなわちいかなる艱難辛苦(かんなんしんく)に会おうとも、従容(しょうよう)として人たる道を踏み外さないばかりか、この人生を、力強く生きぬいていけるような人間になることでしょう。
(森信三著「修身教授禄」)

最後に、安岡正篤先生は「大器晩成」について以下のように解釈をされています。

大器晩成という言葉があるが、人は自然が晩成した大器だ。(高等動物の中で)一番後で作ることに成功した。まさに大器晩成で、大自然という偉大な創造者が何十億年もかかってやっと作ったもの。だから、人間は早成する、早く物になるというほど危ないことはない。
人間もなるべく晩成がよい。まあ、死ぬ頃なんとか物になるというくらいの覚悟でぼつぼつやるがよい。
(安岡正篤)

「人は自然が晩成した大器」であるならば、「人は無(=無限大)であり、人は完成することはない」とも言え、死ぬ頃なんとか物になるという姿が「天地万物を生み出す原理原則」に沿った「道」と「徳」を身に付けた生き方となるのかもしれないと私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

頂いたサポートは、書籍化に向けての応援メッセージとして受け取らせていただき、準備資金等に使用させていただきます。