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恋することは究極の差別である。

男女間の性関係における「差別」に対して考えるようになった。殆どの人が無意識的に差別は悪いことだと思っている。この考えは矛盾している、私たちは常に差別をしながら生きているからだ。

最も根本的で究極な差別は私たちがセックス相手の選択する時に行われる。なぜそうなのか。例えば殆どの人がセックス相手を選択するにあたって人種差別の意識を持っている。また、セックス相手の年齢は重要なのか。おそらくそれは判断材料になるだろう。身体的な特徴もできる限り差別するだろう。差別できるならできるだけすべてをフィルタリングするだろう。しかし、それは実現できない。本当に魅力のある人はごく少数で、自分の周りにいる可能性が低いから。できないにしてもそのような人を選択したいと思うはずだ。相手の健康はどうか、お金は、職業は、学歴や、出身、育ちまで、すべてを差別するはずだ。

恋をするということは信じられないぐらい差別的な行為だ。これに対してどのように正当化できるだろう。

「自分が相手を断ることができれば、相手も自分をを断ることができる」

これが私たちが差別そのものに同意しているサインである。皆が差別しているならば、それはむしろフェアであるだろうか。考えてみる価値がある。

家族という概念が亡くなり、セックスがタブーとなり、子供たちが人工授精によって生産されると仮定してみよう。その社会のスローガンは「万人は万人の共有物である」ことだ。これは平等を意味する。このような社会は誰かと性関係を結ぶことが社会的な悪であるとされる。まるで選択して(差別して)関係を結ぶことが悪いように。

誰かと恋に落ちるほど差別的なものはない。恋する相手は自分にとって特別な存在である。恋する相手以外の人はどうだろう。決して恋する相手ほど特別でな者ではない。これは究極的排他的行為なのだ。それにも関わらず私たちは物ともしない。むしろそれを人生の権利として主張するだろう。

恋とは差別から作られる自己中的な感情に過ぎない。愛されていると錯覚する時にはもう既に自分と相手との関係の中で差別をしている。差別なしでは私たちは愛を感じることすらできない。カップルになった自分たちが他のカップルより特別であると考える。そして、そこから愛の感情は深まる。

差別が存在しなければ恋することに大きな意味があるだろうか。

宗教ではよく他人を愛する時平和が訪れると提唱されている。しかし、偏見を持たず全ての人を愛する時、もう既に愛は存在しない。私たちは自分と相手を区別し、グループを分け、差別しながら愛という感情を作っていく。

したがって愛を追及するならば差別し続けるしかない。これが私たちの生き方だ。差別をしない人はいない。偏見と差別を指摘しながら実際には誰よりも差別をしている。

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