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手放すには「捨てる」理由がいる~自己愛

捨てたいけれど捨てられない人たち

昨日さんまさんの「ホンマでっか!TV」をチラッと見た。
「捨てたいけれど捨てられないもの」というテーマで、出演者がそれぞれの品を紹介して想いを語り、専門家がその分野からの見地をコメントするというものだ。

「捨てたい」のは大抵「実際には日常生活で使用しないから」であり、「捨てられない」のは「想い・概念」など物に込められた無形の価値を感じているからだ。
その中には幻想や不要な観念も含まれている。
ポジティブかネガティブか質は問わない。

「捨てる」為には自らがそのものに込めている無形の価値に気づき、その価値自体がいまの自分に必要なのかどうか、幻想に目覚めていく必要がある。


無形の価値とは

無形の価値には色々な種類がある。

・本来「こうなっているはずだった自分」「いつかそうなるはずの自分」を象徴するもの(存在しない過去・来る予定のない未来)
・その時に投資した金額、時間、労力
・気持ち、思い出・・・絆、憧憬の象徴。お守り的価値を持つ場合も
・観念・・・「こうあるべき」という概念で、実際に罪悪感以外の感情を伴いにくいが、考えと気持ちと区別しにくい人にとっては混同されやすい

他にもあるかもしれない。
自分でそのモノと対峙するときは、そのモノとの関係性が一定のフェーズを超えていないと気づきは難しいかもしれない。
それには自分とそのモノ両方を客観的に見る必要がある。モノと自分を同一化しているような段階では無理だし人に指摘されても受け入れられないだろう。

淡々と書いているけれどそれは多少この対峙を経験してきて、ようやくそんな葛藤を抱えた自分を客観視できるようになってきたから。

加えて夫婦生活にありがちな、互いの「明らかに不要にみえるもの」という問題に関する衝突も過去少しは経験した。

他人のものほど捨てるべき無駄なものに見える

価値が無形のものなのだから、周囲にはそれが「必要かどうか」その判断は不可能だ。
パートナーやこどもの宝箱がゴミにしか見えないのは起こりうることで、これまで書いてきたような無形の価値を他人の所有物には見出せないからだ。

使っていない・存在すら忘れている・ゴミにしか見えない(不衛生・場所をとるなどマイナスの価値が付随する)・・・そんなことで周囲が独断で処分することは決してあってはならないと個人的には思う。
(誤解を招かぬよう補足するとわたしたちパートナーはほぼ完全に不可侵の関係なので、このことばは領域侵犯を受けた話から得た個人的な印象に基づいている)

例えそんなことが起きたとしても人は対処し生きていくものだけれど・・・例え災害で思いがけず全てを失ったとしても復興への道を模索していくように・・・

他人のものを勝手に捨てた場合に起きうること

それは捨てられた当人にとって多くの痛みを伴う。
勝手に捨てられたことについて文句は言えても、時間も物も戻らない。

戻らない時間についてしがみ続ける人ばかりではないだろうけれど、気づきがなければ別の形で同じ価値を求めるだろう。
それが不可能な場合には、度重なればどこかを病むと思う。心の痛みと身体の痛みは無関係ではない。人は思考による望みではなく自覚できる範囲の必要性を超えて望むものを創造する。

健全に巣立っていくのと無理やり保護から離されて巣立たされるのとの違いのような側面を持つと思う。

べきという言葉は好きじゃないけれど、このテーマに関して言うなら「パートナーの領域は勝手に犯さない」、なにかアクションしたいならパートナーがそのモノに込めている「価値」について優しく聴いてあげるのに留めるべきだと思う。
話しているうちに本人の考えや想いが整理されて勝手に気づくだろう。

気づいたとしてもすぐアクションを伴うものではない。行動が早い人もいればゆっくり、その上でそれをどうするか自分の気づきを受け入れる時間が必要な人もいる。
結果によって自分や相手を裁かないように。

人は科学的に根拠がないジンクスでさえ従わずにいられないそんな側面をもった生き物なのだから。

捨てられない「あなた」と「わたし」に

捨てられない自分を許して。
捨てられない相手を認めて。

捨てたから偉いわけでもない。ただ一つの側面が終局しただけなのだ、と。

「あぁ、そうだったんだね、わたし」
「わたしこんなに〇〇だったんだなぁ」
そうやってなにかが沸き起こるまま否定しないであげて欲しい。

たった、それだけ。

棚の奥の恨めしそうなモノたちに会って、色んな想いが騒ぎ出したら黙ってなにを言っているか耳を傾けて欲しい。
そして自分が本当に言えることばはたったそれだけなのだ。

ひとつの価値観に縛られず、自分に優しく、どんな瞬間も愛してあげて欲しいと思う。
そうありたいと、わたしは思う。

* * *

追記:なぜ「捨てる」のか

モノに無形の価値がある以上、「捨てる」行為にも自分の隠された意図がないか気づいている必要があると思います。

つまり。

・何かから逃げようとしているのでないか。
・自分はなにを価値あるものとし、なにを価値がないと規定しているのか。

それが「捨てる」という行為に表現されているということです。
捨てればなんでもいい、捨てることに価値があるわけではない、という話でした。今日の気づきのオマケ。

逃げるようになにかを捨てちゃった過去の自分を責めないでね~(癖)
「そうだったんだ~」で生きましょう!

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