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肉体の命が尽きる前に自分が残せるもの

昨日に引き続いて韓国ドラマのエピソードにちなんだ話です。


とある登場人物が余命宣告を受けて・・・というよくあるパターン。
日本だと商店街の元気なお母さんという感じの女性が突然の余命宣告を受けます。およそ3か月の命・・・ショックを受け寝込むものの、こうしてはいられないとできることをやり始めるのです。

もし自分が死んでしまったら・・・そう思ってやり残したことを片付けようとしますが、周りはまた周囲を巻き込んで大騒ぎし始めたと呆れたり突っぱねたり。
夫に先立たれながらも娘3人を大学に入れ、自らも店を営業し続ける元気な方ですから、誰もがそれがこれからも、少なくとも当分は変わらずに続くように思い込んでしまうのですよね。

吉野弘さんの詩に、輝きに満ちたいのちの誕生を詠った詩があります。誕生するなり生命保険の勧誘が来たことを受けて「どこに死の香りが」という表現をされています。

それほど人は生命力に溢れた様子の時には死を思わないものです。同じように繰り返される日常の中、今日見た笑顔が明日もあると信じて疑う余地すら持たないものだと思います。

でも実際人の寿命というのは老いも若いも、順序も関係ないものです。

両親の必死の看病も甲斐なく、病院で亡くなる子どもたちを見てきました。
祖母より先に、突然に旅立つ母を見送りました。
年に2回の帰省の折、異変に気付いたけれど手遅れだったのです。母は余命宣告はありませんでしたがわたしが無理やり入院させてから半月ほどで亡くなりました。

余命3カ月。
個人的に余命宣告の類を信じて受け入れるかどうかはともかくとして・・・

誰もがいのちの保障がないなら、今日をたった1日のいのちとして大切に生きるべきなのかもしれません。
人は本当は朝生まれて夜には死ぬいのちとして生きるような気持でいるのが本当に充実した人生をもたらすのかもしれません。

あなたはこの命が間もなく尽きると言われたらなにを思いますか?
なにをしたいと思いますか?
なにを、どんなものを残したいですか?

それが3カ月でなく1週間だったら、3日だったら、1日だったら?


ドラマで女性は色んな決断をします。人間関係や物を整理しようとします。
印象的だったのは、夏にも関わらず家族を招集してキムチを漬けたことでした。
韓国では年に一度の伝統的な行事のようなものなのだそうです。

キムチは家庭の味です。
料理は母の愛情表現のひとつです。その味も。
それを娘たちに残そうとしたのだというのが胸に迫りました。

母を失った後、色んな料理のレシピを聞いておけば良かったと後悔したのを覚えています。
母は料理で愛情表現をする人で、父は本当か嘘か料理が上手だから母と結婚したと言っていました。父の為に、父が好きだった料理を作ろうとしましたがちょっと味が違ったようです。

父も父で、母のから揚げが食べたいと言って、妹と一緒に母のから揚げの味を再現しようと研究していました。
父は完全な上げ膳据え膳で、わたしが鍋を作って「食べて」と勧めたときも「どれを食べていいかわからん。今まで食べられるものからよそってくれていたから」なんて困惑した声を上げていたほどの人です。

それが「確か豆板醤とニンニクが・・・」なんて言っているのだから驚きでした。

母は自分が死んだ後のことを考えて料理をしていなかったことは明白ですが、それでも料理が愛だと教えてくれて、同じ味を求めて故人を偲ぶということを教えてくれました。

生きているうちに死を意識して生きるべきだと教えてくれました。それ自体も恐ろしいことではなく愛の一つだと。

わたしのこどもはふたりとも未成年ですが、小さい頃からいつでも自立して生きられるように意図して育てています。
これは母が介護疲れの日々の中、わたしに電話してきた「子育てというのは・・・」に続くことばから影響を受けています。きっと全く自立した大人としての姿が見られない義父母への溜息の日々で、わたしに伝えずにはいられなかったことばなのでしょう。

とはいえ、わたしは充分に生きているかというとそうも思えません。

肉体の死に恐れはありません。
残された家族を思ったりすると幾分か残念だけれどしょうがない、そんなような気持ちです。

でもなにを残せるか?

その視点になるとまだ死ねない、そう思います。
家のローンも、ビジネスの借金も、残された者には負の遺産です。

自分は心残りないぐらいにみんなに感謝と愛を伝えて来ただろうか。
自分の持っているものを惜しまず全部与え切れているだろうか?

そう思うと社会的にはちっぽけな価値(影響力)しかないと思える自分ですが、まだまだやることがあると、自分だからこそやっておくことがあるように思えてくるのです。

少数派で誰とも交わらない部分があったり、誰からも受け入れられないような部分を持っていたりするからこそ、残すべきものもあるかもしれないと、そんな風にも思えるのです。
(書いていて思いましたが精神的絶滅危惧種のようですね)

大げさな話になってしまいましたが、伝えたいことは自分だけの輝きに気づいてください、ってことにまとめられそうです。

死に際する人間の行動は大別できますが、その人間一人一人は誰一人として同じ存在はありません。
マクロ的にはとても無常で恒常的なエネルギー循環があるだけですが、わたしたちは同時にミクロ的存在です。

この地球というシステムにひとつのユニークなストーリーを創造した存在です。その多次元的な視点のまま、わたしたちのそれぞれのユニークな体験を、人生そのものを、なにを遺せるかという視点で捉え直してください。

自分が嫌いだったら嫌いなままで。そのままで。
嫌いだから不要だと消さないで。
どうかそのあなたの表現を遺してください。

それも愛だとわたしは思います。

* * *

お写真は谷本惠美さんからお借りしました。
「最後の一葉」で検索して唯一提供されていたお写真です。感謝しかないじゃないですか!
本当にありがとうございます。


ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡ お預かりしたエネルギーが人と地球のために廻っていくよう活動します!