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【試し読み】『偽りの眼』(カリン・スローター/ ノンシリーズ)

偽りの眼
カリン・スローター
鈴木美朋

被告人から名指しされた、凄惨な連続レイプ事件の弁護。
それは葬った過去からの罠だった――
世界的ベストセラー作家が放つ、震撼ノンストップ・スリラー。

一九九八年 夏

 トレヴァーが指で水槽を叩くコツコツという音が、キッチンにいるキャリーに聞こえた。クッキー生地を混ぜているスパチュラを握る手に、思わず力が入った。トレヴァーはまだ十歳だ。キャリーの見たところ、学校ではいじめられている。父親には邪険にされている。猫アレルギー持ちで、犬を怖がる。かわいそうな魚をいたぶるのは振り向いてほしいという心の叫びだと精神科医なら言うだろうが、キャリーはいまにもどなりつけてしまいそうだった。

 コツコツコツ。

 キャリーはこめかみを指で揉み、頭痛をやわらげようとした。「トレヴ、やめてって言ったのに水槽を叩いてない?」

 音がやんだ。「叩いてないよ」

「ほんとに?」

 沈黙。

 キャリーはオーブンシートにクッキー生地を落としていった。ふたたびメトロノームのような音がはじまった。音に合わせて三拍子で生地をシートに落とす。

 コツコツ・ポトン。コツコツ・ポトン。

 オーブンの扉を閉めようとしたとき、まるでシリアルキラーのように、不意にトレヴァーが背後に現れた。彼はキャリーに抱きついて言った。「大好き」

 キャリーは同じくらい強くトレヴァーを抱きしめた。頭をぎりぎりと締めつけていた緊張がゆるんだ。トレヴァーの頭のてっぺんにキスをした。この蒸し暑さで、しょっぱい味がした。トレヴァーはじっとしているが、ガチガチにこわばらせた体はどこか蔓巻バネを思わせた。「ボウル、舐めたい?」

 尋ね終わったときには、すでに返事がわかっていた。トレヴァーは食卓の椅子をカウンターの前へ引っぱってきて、蜂蜜の壺に頭を突っこむプーさんのようになった。

 キャリーはひたいの汗を拭った。日が沈んで一時間ほどたつのに、家のなかはあいかわらず熱気がこもっていた。エアコンはほとんど効いていない。オーブンの熱でキッチンはサウナのようだった。どこもかしこも、それこそキャリー自身もトレヴァーも汗でべたついていた。

 水道の水を出した。冷水には抗いがたかった。まず自分の顔を洗ってから、ふざけてトレヴァーのうなじに水をかけた。

 くすくす笑いがおさまると、キャリーは水量を調節し、スパチュラを洗った。スパチュラを置いた水切りかごには、夕食に使った食器が並んでいる。皿二枚。グラス二個。フォーク二本。トレヴァーのホットドッグを小さく切り分けるのに使ったナイフ。ウスターソースとケチャップを混ぜるのに使ったティースプーン。

 トレヴァーが空(から)のボウルを差し出した。左側の口角をあげる笑い方が父親とまったく同じだ。彼はシンクの前でキャリーに腰を押しつけるようにして並んだ。

 キャリーは尋ねた。「どうして水槽を叩いてたの?」

 トレヴァーは顔をあげた。その目が一瞬ずるそうに光ったのを、キャリーは見逃さなかった。父親そっくりだ。「あいつらは水槽を立ちあげるための魚だって言ってたでしょ。たぶんすぐに死んじゃうって」

 キャリーは、いかにも自分の母親が言いそうな心ない言葉が、食いしばった歯の裏をぐいぐい押しているのを感じた─あんたのおじいちゃんだっていつか死ぬんだよ。だからってわざわざ老人ホームへ行って、おじいちゃんの爪のあいだに針を差しこんだりする?

 声に出してそう言っていないのに、トレヴァーのなかのバネはさらにきりきりとねじれたようだ。キャリーの気持ちに波長を合わせてくる彼の敏感さには、いつも落ち着かない気分にさせられる。

「よし」キャリーは両手の水気をショートパンツで拭い、水槽のほうへ顎をしゃくった。「あの子たちの名前を当てっこしようか」

 冗談のわからないやつになることをつねに恐れているトレヴァーは、とたんに用心深い顔つきになった。「魚に名前なんかないよ」

「あるに決まってるでしょ、おばかさん。学校の初日にはじめて会った子同士で〝やあ、ぼくの名前は魚だよ〟なんて言うわけないし」キャリーはトレヴァーをリビングルームのほうへそっと押した。二匹のフタイロカエルウオが水槽内を落ち着かない様子で泳ぎまわっていた。海水の水槽を立ちあげるのは根気が必要で、トレヴァーは何度も飽きかけた。魚が入ると、彼の興味の焦点は針の先ほどに絞られた。

 水槽の前にしゃがむと、膝の関節がぽきりと鳴った。ずきずきする痛みより、トレヴァーのべたべたする指紋で曇ったガラスのほうが耐えがたかった。「この小さい子は?」キャリーは小さいほうの魚を指さした。「なんて名前にする?」

 トレヴァーは左側の口角をあげて作り笑いを浮かべた。「餌(ベイト)」

「ベイト?」

「サメが来て食べられちゃうからだよ!」トレヴァーは耳障りなほど大きな声で笑いだし、興奮のあまり床をごろごろと転がった。

 キャリーは痛む膝頭をさすった。いつものように、鬱々とした気分で部屋のなかを見まわした。汚れたカーペットの毛足は八〇年代後半あたりからへたったままだ。皺の寄ったオレンジ色と茶色のカーテンの隙間から街灯の明かりが差しこんでいる。部屋の隅にはバーカウンターがあり、背面にスモークミラーを張った棚は酒瓶でいっぱいだ。吊り戸棚の下のラックに吊したグラス、L字形のべとつく木のカウンター、その前に隙間なく並んだ四脚の革のスツール。部屋で目立つのは、キャリーより重たい巨大なテレビだ。オレンジ色のソファは、夫婦それぞれの定位置である両端がへこんでいる。黄褐色の革の安楽椅子の背は汗染みでまだらになっている。アームには煙草の火の焼け焦げ。

 手のなかにトレヴァーの手がするりと入りこんできた。またキャリーの気分を感じ取ったのだ。

 トレヴァーは言った。「もう一匹はなんにする?」

 キャリーはほほえみ、トレヴァーの頭に自分の頭をあずけた。「そうねえ……」おもしろい答えを探した─アン・チョビーとか、チンギス・鯉(カープ)とか、海水(ブライン)・オースティン・グリーンとか。「ミスター・ダー・シーはどう?」

 トレヴァーは鼻に皺を寄せた。ジェイン・オースティンは好きではないらしい。「パパはいつ帰ってくるの?」

 バディ・ワレスキーは、帰りたいときに帰ってくる。「もうそろそろかな」

「クッキーはまだ?」

 キャリーは顔をしかめて立ちあがり、トレヴァーを追ってキッチンへ戻った。オーブンの扉越しにクッキーを眺めた。「まだ焼けてないけど、お風呂からあがったころには─」

 トレヴァーはすぐさま廊下を駆けていった。バスルームのドアがバタンと閉まった。キュッという水栓の音がした。バスタブに当たる水しぶきの音。トレヴァーは鼻歌を歌いはじめた。

 素人ならうまくいったと思いこむところだが、キャリーは素人ではない。しばらく待ってから、バスルームのドアをほんの少しあけ、トレヴァーがちゃんとバスタブに浸かっているかどうか確かめた。ほとんど同時に、彼が湯に頭まで浸かるのが見えた。

 まだ勝利は決まったわけではない─石鹸を使っている様子がない─が、くたびれているし、腰はこわばっているし、廊下を歩けば膝がずきずきするし、どうにかこうにか痛みに耐えながらバーへ行き、マティーニグラスにスプライトとキャプテン・モルガンを半々に注いだ。

 二口飲んだところで身を屈め、バーカウンターの下でライトが点滅しているのを確認した。そのデジタルビデオカメラを偶然発見したのは数カ月前、停電が起きたときのことだ。非常用の蝋燭を探していたら、視界の隅で点滅する光に気づいた。

 キャリーが真っ先に思ったのは─ぎっくり腰をやって、膝を痛めて、おまけに今度は網膜剥離か─だったが、光は白ではなく赤かったし、バーカウンターの下に並んだ二脚の重たい革のスツールのあいだで、赤鼻のトナカイの鼻よろしくピカピカ輝いていた。キャリーはスツールをどけた。そして、バーカウンターの下部に取りつけてある真鍮の足置きに反射している赤い光を凝視した。

 格好の隠し場所だ。バーカウンターの前面はカラフルなモザイク仕上げになっている。鏡の小片と、青と緑とオレンジ色の小さなタイルがぎっしり貼られた面では、裏側の棚まで貫通した直径二センチほどの穴はほとんど目立たない。ワインのコルクが詰まった紙箱の奥に、キヤノンのデジタルビデオカメラが隠してあった。バディは電源ケーブルを棚板にテープでとめて隠していたが、充電は切れかけていた。カメラが作動していたのかどうかはわからなかった。レンズはまっすぐソファのほうへ向いていた。

 キャリーは自身にこう言い聞かせた。バディはほぼ毎週末、友人たちを招く。バスケットボールやフットボールや野球の試合を観ながら、くだらないおしゃべりをしたり仕事や女の話をしたりするのだが、たぶん友人たちはバディが得をするようなこと、たとえばあとで取引に使えるようなことをうっかり口にするのだろう、たぶんそのためにカメラを隠してあるのだろう。

 たぶん。

 二杯目はスプライトで割らなかった。スパイスト・ラムが喉から鼻を焼いた。キャリーはくしゃみをし、手の甲で鼻水を受け止めた。キッチンにペーパータオルを取りに行く気力もなかった。布巾で手の甲を拭った。モノグラム刺繍が肌を引っかいた。ロゴに目をやった。バディという男を簡潔にあらわすロゴだ。アトランタ・ファルコンズではない。ジョージア・ブルドッグスでもない。ジョージア工科大のものですらない。二部リーグのベルウッド・イーグルス、つまり昨シーズンは〇勝十敗だったハイスクール・チームを後援することが、バディ・ワレスキーの信念なのだ。

 お山の大将。

 キャリーがラムの残りを一気に飲み干しているところへ、トレヴァーが戻ってきた。彼はまたかぼそい両腕でキャリーに抱きついた。キャリーは彼の頭のてっぺんにキスをした。あいかわらず汗くさかったが、今日はもう充分闘った。とにかくトレヴァーにさっさとベッドに入ってもらい、体の痛みをアルコールで追い払いたかった。

 ふたりで水槽の前に座り、クッキーが冷めるのを待った。キャリーは、はじめて水槽で魚を飼ったときのことをトレヴァーに話して聞かせた。数々の失敗体験。魚を健康に育てるには世話が必要であり、責任が伴うこと。トレヴァーはおとなしくなった。それは温かい風呂に浸かったせいだ、バーカウンターのなかで酒のお代わりを注いでいるあたしに気づくたびにこの子の目がふっと暗くなるのとは違う、とキャリーは思いこもうとした。

 後ろめたい気持ちは、トレヴァーがベッドに入る時刻が近づくにつれて薄れていった。ふたりで食卓に座っているうちに彼がピリピリしはじめたのが、キャリーには感じ取れた。いつものことだ。食べてもいいクッキーの枚数で一悶着ある。ミルクをこぼす。クッキーの枚数でもう一悶着。どっちのベッドで眠るか話し合う。パジャマに着替えさせるのに一苦労。読んでやる本のページ数の交渉。おやすみのキス。もう一度、おやすみのキス。水を一杯持ってきてほしいという要求。このコップじゃなくてあのコップがいい。この水じゃなくてあの水がいい。わめく。泣く。またバトル。さらなる交渉。明日の約束─ゲーム、動物園、ウォーターパークへ遠足。約束に次ぐ約束のあげく、ついについに、キャリーはふたたびカウンターのなかでひとりきりになれた。

 切羽詰まった飲んだくれのようにすぐさま酒瓶の栓をあけたいのを我慢した。両手が震えていた。静まりかえった薄暗い部屋で、キャリーは自分の両手がぶるぶるとわなないているのを見つめた。この部屋はほかのなによりもバディを連想させる。重苦しい空気。何千本もの煙草の煙が染みついた低い天井。隅に張った蜘蛛の巣さえオレンジ色がかった茶色だ。キャリーはこの家のなかで靴を脱いだことがない。べたべたするカーペットに足を包まれる感触に胸がむかつくからだ。

 キャリーはラムのボトルの栓をゆっくりとひねった。ふたたび香料が鼻腔をくすぐった。期待によだれが湧いてきた。三杯目を思い浮かべただけで、感覚を麻痺させる効果を感じることができた。これでおしまいにはならない一杯。肩の凝りと腰のこわばりをほぐし、膝の疼痛を止めてくれる一杯だ。

 突然、裏口のドアがあいた。バディが痰の絡んだ咳をした。カウンターにブリーフケースを放り出した。トレヴァーの椅子を食卓の下へ蹴り戻した。クッキーを何枚かつかみ取った。片手に煙草を持ち、口を閉じずに咀嚼)した。クッキーの屑が食卓から彼のすり減った靴に跳ね返り、リノリウムの床に散らばる音、極小のシンバルを打ち鳴らすような音が、キャリーには聞こえるような気がした。なぜなら、どこだろうがバディがいるところでは騒音、騒音、騒音の連続だから。

 しばらくして、バディがキャリーに目をとめた。とたんにキャリーは彼に会えてうれしくなり、彼が両腕で抱きしめてくれ、また特別な存在になった気分にさせてくれるような気がした。ところが、彼の口からはまだクッキーのかけらがぼろぼろこぼれた。「おれにも一杯くれ、お人形さん」

 キャリーはグラスにスコッチを注ぎ、ソーダで割った。煙草のにおいが部屋の向こう側から漂ってきた。ブラック&マイルドというシガリロ。彼のシャツのポケットから煙草の箱が覗いていないところなど見たことがない。

 バディは最後に残った二枚のクッキーを平らげてから、バーのほうへのしのしと歩いてきた。重たい足取りで床板がきしんだ。カーペットにクッキーの屑が落ちた。皺くちゃで汗が染みた作業着にもこぼれている。無精髭にもこびりついている。

 彼の身長は背すじをのばしてまっすぐに立てば百九十センチだが、つねに猫背だ。肌は一年中、赤く焼けている。同年代の男たちにくらべて髪の量は多いが、白いものが交じりはじめている。運動はするが、ウェイトトレーニングばかりやっているので、人間というよりゴリラのように見える─短い胴体、もりもりと筋肉がついているせいで体の脇にぴったり沿わない腕。キャリーは彼の両手が拳に握られていないところを見たことがほとんどない。どこもかしこも荒くれ者そのものだ。通りで彼を見かけると、みんなくるりと踵を返す。

 トレヴァーが蔓巻バネなら、バディはスレッジハンマーだ。

 バディは灰皿に煙草を置いてから、スコッチをすすって飲み干し、グラスをカウンターに手荒く置いた。「今日はいい一日だったか、お人形さん?」

「まあまあかな」キャリーは脇にどき、バディに二杯目を注がせた。

「おれは最高の一日だった。スチュアート沿いに新しくショッピングモールが建つのを知ってるか? だれが建設工事をやると思う?」

「あなたでしょ」彼は返事など待っていなかったが、それでもキャリーは答えた。

「今日、頭金が入った。明日から基礎工事だ。ポケットに金があるって最高だろう?」バディはげっぷをし、胸板を叩いた。「氷を持ってきてくれないか?」

 キャリーは冷蔵庫へ行こうとしたが、彼の手にドアノブよろしく尻をつかまれた。

「ほんとにちっこいなあ」

 ひところは、キャリーも自分の体の小ささにバディがこだわるのをおもしろがっていた。彼は片方の腕でキャリーを抱きあげたり、手のひらを広げてキャリーの背中に当て、親指とそれ以外の指が腰骨の両端に触れそうになることに感心したりした。そして、キャリーを〝おちびさん〟とか〝お嬢さん〟とか〝お人形さん〟とか呼ぶのだが、いまではそれも……。

 それも、彼の鬱陶しいところのひとつになった。

 キャリーはアイスバケツをおなかの前に抱えてキッチンへ向かった。水槽に目をやった。魚たちは落ち着いていた。フィルターが吐き出す泡のあいだを縫うように泳いでいる。キャリーは、アーム&ハンマーの重曹と冷凍焼けした肉のにおいがする氷をバケツいっぱいに入れた。

 スツールの上でくるりと振り返ったバディのほうへ戻っていった。彼は言った。「うーっ、お嬢さん、その腰つきを眺めてるとたまらなくなる。くるっとまわってみせてくれ」

 キャリーは両目が上を向くのを感じた─バディではなく自分にあきれたのだ。なぜなら、自分のなかの愚かでちっぽけなさびしがり屋は、いまでも彼のお世辞を心地よく感じているから。バディは正真正銘、心から愛されていると生まれてはじめて思わせてくれた人だ。それまでずっと、自分は選ばれた特別な存在だ、だれかにとって大事な存在だと思えたことは一度もなかった。バディはキャリーに、守られている、かわいがられていると感じさせてくれた。

 けれど、最近の彼はキャリーとファックすることしか考えていない。

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続きは本書でお楽しみください。


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