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【試し読み】トラベル令嬢ミステリー!ヴィヴィアン・コンロイ『プロヴァンス邸の殺人』

「祖父の遺言で探偵になった令嬢」という主人公のキャラクターが際立つ、かつ、どこか古き良き匂いのするクラシカルなミステリーが登場!
上流階級を舞台にした謎解きはもちろん、世界各国の情景や1930年代の文化を楽しめる点にもご注目ください。

プロヴァンス邸の殺人
ヴィヴィアン・コンロイ[著]
西山志緒[訳]

1

一九三〇年六月 

 ミス・アタランテ・アシュフォードの人生を一変させる運命の報(しら)せが届けられたのは、彼女がスイスでごつごつした山道をのぼっている最中だった。その道の先にある城塞跡がただの灰色の残骸ではなく、パルテノン神殿の真っ白い大理石の柱だと空想しているところだったのだ。

 アタランテはとても豊かな想像力の持ち主だ。彼女には山々の斜面で草を食(は)む羊たちの鈴の音さえ、世界じゅうから訪れた旅行者の話し声のように聞こえてしまう。傍らには、アタランテの語るギリシャ神話をぜひ聞きたいという若者たち。ほんの数メートル離れた場所を歩く深い茶色の瞳の男性も、レルネーのヒュドラーについて説明する彼女のほうを興味深そうにちらちらと見ている……。

 きっと彼は誘ってくるだろう。マンドリンのもの悲しい調べが奏でられる中庭へ彼女を連れていき、一本の古い巨木の下に置かれたテーブルにつかせ、甘いお菓子バクラヴァをふたりで試しながら、うっとりしたようにこう言うのだ。「九つの頭を持つ怪物について、こんなにも情熱たっぷりに話す人を初めて見たよ、ミス・アシュフォード……」

「ミス・アシュフォード!」空想の世界の声と重なるように誰かの声がした。でも男性の声ではないし、うっとりした調子でもない。女性の声。しかも若くて、かなりいらいらしているようだ。

 アタランテは足を止め、ゆっくりと振り返った。険しい山道ののぼり口に、教え子のドロシーが立っていた。手に持った白いものを振り回している。「ミス・アシュフォード! あなた宛ての手紙です。すごく重要な手紙みたい」

 アタランテはため息をつくと、輝かんばかりにまぶしいパルテノン神殿の空想をあきらめ、山道を下りはじめた。現実の世界へ戻らなければ。いままで何度同じことを繰り返してきただろう。そのたびに胸を鋭くえぐられるような悲しみを覚えてしまう。あんなにも幸せでいられるのは空想の世界でだけ。所詮、白昼夢にすぎないと思い知らされるせいだ。

 でも今日は、一歩下るごとに新たな決意がふつふつと湧きあがってきた。いつの日か必ずアテネやクレタ島、イスタンブールをこの目で見よう。やっと父の借金を払い終え、自分の旅行のために貯金できるようになったのだから。

 ただし、それもあの手紙が別の債権者からのものでなければの話だ。何年もかかって父の借金を完済し、ようやく本当の意味で自立した女性になれたばかり。その自由を心ゆくまで謳(おう)歌(か)したい。今年の休暇は近場の渓谷へ出かけるだけだが、それでも初めて自分のためにお金を自由に使えることに変わりはない。父の墓前に立ち尽くし、これからは天涯孤独なのだと思い知らされたあの日、自分にはふたつの選択肢があると気づかされた。ひとつはすべての責任を放り出して逃げる道。もうひとつはどれほど時間がかかっても借金を返済し、再出発する道だ。結局ふたつ目の道を選んだが、また新たな債権者に給料を奪い取られるかもしれない。そう考えただけで心がずしりと重たくなる。

「封筒に紋章みたいなものがついているの!」ドロシーが手にした封筒を眺めながら叫んでいる。「きっと公爵か伯爵からよ」

 アタランテは思わず笑みを浮かべた。人は単調でつまらない毎日がいっきに変わるような変化の風を期待するものだ。そういう気持ちはとてもいいと思う。とはいえ、自分に公爵か伯爵から手紙が届くことなどありえない。父は貴族出身ではあるけれど、一族とはいっさい縁を切り、自分の道を切り開こうとした。生まれながらに与えられた権利を利用することなく、自らの手で何かを達成して名を成したいと考えたからだ。父は自分の父親に対して、先祖代々受け継がれてきた爵位を相続するためだけの存在ではないことを証明したいと切望していた。

 そのことを思うと悲しくなる。父は人生に失敗したと感じながら息を引き取った。父自身ではなく、ひとり娘であるわたしを幸せにできなかったことを後悔しながら。

 父に伝えられたらいいのに。いま、すべてがうまくいくようになったことを。

 悲しみをこらえ、ドロシーに注意を戻したが、すぐに眉をひそめた。「ドロシー、どうしてまだここに残っているの? お父様の運転手が迎えにきているはずでしょう?」

 ドロシー・クレイボーン=スマイスは英国人外交官の娘だ。これから始まる夏休みをトスカーナの別荘で過ごさないとすれば、家族が住むバーゼルの屋敷で一緒に過ごすに違いない。ドロシーが絵葉書を送ってくれたらいいのに。そうしたら、その絵葉書を眺めて空想に浸れる。これまでも絵葉書や新聞から切り抜いた写真をアルバムに貼って、それを眺めては憧れの海外旅行への思いを募らせてきた。〝いつか絶対にこの光景を自分の目で確かめよう〟と誓いながら貼り続けるうちに、そんなアルバムがもう何冊にものぼっている。物事がうまくいかないときでも、これまで完成させたアルバムを生きるよすがにして頑張ってきた。

 ドロシーは表情をこわばらせた。「わたし、家に戻りたくない」

 反抗的な物言いではない。ひどく悲しげな言い方だ。

 かわいそうなドロシー。アタランテは大きな岩から飛びおりて、教え子の隣へ着地すると、一瞬だけ少女の細い両肩に片腕を巻きつけた。「そんなに悪いことにはならないわ」

「ううん、そうなるはず。パパはわたしのために時間を取ってくれたことなんて一度もないし、わたしは継母が大嫌いなんだもの。あの人、わたしの着るものからそばかすまでいちいち口出ししてくるの。本当のママが恋しい」

 アタランテは胃がきりきりと痛むのを感じた。どうしてこの少女を元気にするような言葉をかけられるだろう? かつての自分も同じような気持ちでいたというのに。アタランテは母親をよく知らない。母は若くして、父と娘を遺して突然この世を去った。父が浪費を止められなくなったのはその寂しさを埋めるためだったのかもしれない。家にはお金があるときもないときもあって、ある月はふたりして本や服、甘いデザートを好きなだけ買って楽しむ余裕があったけれど、ない月はアタランテが家にやってくる借金取りの相手をした。すり切れたドレスを着た小さな女の子の姿を見たら、さすがの借金取りたちも不(ふ)憫(びん)に思うだろうからだ。

 アタランテはのみ込みが早かった。彼らの態度や目つきから、交渉次第で返済期間を延ばしてくれるかどうか、支払いの一部としてすぐに屋敷にある品物を差し出すべきかどうかを見抜けるようになったのだ。

 母の宝石が持ち去られるときも表情ひとつ変えなかった。でも扉が閉じられた瞬間、赤ん坊のようにすすり泣かずにはいられなかった。母の遺した宝石は何ひとつ残っていないが、一緒に過ごしたぼんやりとした記憶ならある。それにベッド脇に置かれていた母の写真も。

「少なくともあなたには家族がいる。我が家と呼べる場所がある」アタランテはドロシーに優しく言った。どんなに寂しくても、ドロシーの家なら住所がしょっちゅう変わることはないだろう。それに〝今度こそ状況がいいほうへ変わるのではないか〟という希望と〝父の仕事の計画がうまくいくことなど絶対にないのではないか〟という絶望の境界線を綱渡りするような日々でもない。父は何か計画しはじめると熱に浮かされたようになり、結局リスクに気づけないたちだった。

「我が家?」ドロシーはしかめっ面をした。「あの家にわたしは要らないんじゃないかって思うことがあるの。あの男の子たちだけで十分じゃないのかって」

 あの男の子たちとは、ドロシーの継母が産んだ手に負えない双子のことだ。特に領地の後継ぎである長男は何をやってもたしなめられることがなく、罰せられることもないという。これまでもよくドロシーからそう聞かされてきた。

 たしかに、世継ぎとなる男子が大事にされる事実は否(いな)めない。裕福な家にはよくある話だ。それでも、自分の教え子がこれほどしょんぼりしている姿を見るのはしのびない。人生は必ずしも自分の思いどおりにはいかないもの。でも自分の見方を変えれば、そういった不愉快な状況も改善できる。常に新しい状況に適応できる能力は、これからの人生の財産となるはずだ。

「だったらあなたは別のやり方を試す必要がある」アタランテはドロシーの肩に手を置いた。「義理のお母様があなたによくしてくれないときは、どこか別の場所にいる自分を想像してごらんなさい」

「別の場所ってどこのこと?」少女はやや困惑したように尋ねた。

「あなたが好きな場所ならどこでも。本で読んだことがある場所や前に行ったことがある場所。それにあなたの好みどおりに作りあげた場所でもいい」アタランテは熱を込めて続けた。「世の中が寂しい場所に思えるときには、あなただけの秘密のお城に逃げ込める。その場所では、あなたが必要としているものすべてを持つことができる。お友だちでさえもね。そこが想像力のすばらしいところよ。想像力には限界がないんだもの」

 ドロシーは疑わしげな表情だ。「それって本当に効果があるかしら? わたしは学校のお友だちをひとりだって家に招いてはいけないの。あの継母が、あなたたちの騒ぐ声がうるさすぎて頭が痛くなるって言うんだもの。あの男の子たちが一日じゅう叫んでいてもちっともうるさがらないのに。ものすごく不公平だわ」少女はため息をついて頭を傾けると、アタランテの頭にそっと押しつけた。「先生と一緒にここにいられたらいいのに」

 ドロシーの何気ないしぐさと言葉に、アタランテは喉に熱いかたまりが込みあげてくるのを感じた。もしこんな妹がいて揺るぎない絆(きずな)を感じられたら……。でもこの寄宿学校の校長はとても厳しい。教師と生徒は親しくなりすぎてはいけないという信条の持ち主だ。感情は抑えるべきであり、共感は認められない。アタランテも生徒たちと一定の距離を保ち続けなければならない。たとえそうしたくなくてもだ。

「でもわたしはここにはいないの」アタランテは温かな笑みを浮かべ、その発言の衝撃を和らげようとした。「少し離れた渓谷にある小さな村を見つけてね。夏休みはそこで思う存分、山登りや探検をするつもりよ」

「だったら先生に手紙も書けないのね」ドロシーは顔をこわばらせた。「悲しい気分になったり、あの男の子たちにからかわれたりしたらいつでも先生に手紙を書きたいのに」

「だったらそのすべてを書きとめて、わたしに手紙を送ったと考えるのはどうかしら」少女時代、アタランテも母親に宛てて数えきれないほどの手紙を書いたものだ。ピアノをどんなふうに習ったか、芽吹きの季節を迎えた庭園がどれほど美しく見えるか。父の仕事について手紙を書いたことは一度もない。母の宝石が持っていかれたことについても。そんなことを書いてもママを悲しませるだけだから。

 ドロシーは話を聞いていなかった様子で続けた。「でも、どうせ手紙に大事なことは書けないし」唇をすぼめて続ける。「ミス・コリンズに読まれちゃうもの。ミス・コリンズが封筒を蒸気に当てて開けて、糊(のり)をつけてまた閉じていること、知っているでしょう?」

「他の人についてそんなことを言うのは礼儀正しいとは言えないわ」たとえそれが本当だとしても。アタランテは心のなかでこっそりとつけ加えた。ミス・コリンズはこの寄宿学校の家政婦であり女郵便局長でもあり、他にもいろいろな役割をこなしている。少女たちには優しいし、アタランテがやや変わった教育計画を立てたときも応援してくれるのだが、飽くなき好奇心の持ち主でもある。

 ドロシーの言葉が気になり、アタランテは少女から自分宛ての封筒を受け取ると、念のために開封されていないか確かめてみた。大丈夫。送り主が昔ながらの赤い封(ふう)蝋(ろう)を施していたおかげだ。ご丁寧にその上から自分の指輪まで捺(お)している。ただドロシーが先ほど言ったような紋章ではなくイニシャルだ。古木に巻きつく蔓(つる)のようにIとSが絡み合っている。いったい誰のイニシャルだろう?

 アタランテは封筒をひっくり返し、宛名が書かれた表部分をじっくりと眺めた。整った字で彼女の名前と、国際寄宿学校の住所が記されている。

 だけど送り主の住所は記されていない。とても謎めいている。

「ドロシー・クレイボーン=スマイス!」ミス・コリンズの声だ。文句を言いにここまでやってきたのだろうが、息切れしているせいで燃料切れのエンジンのようにしか聞こえない。彼女は肉づきのいい両手を腰に当てて、ふたりの隣に立った。「お父様の運転手があなたをずっと待っていますよ。なぜ荷造りをして出かける準備をしていないの? それにあなたの帽子はどこ? 帽子をかぶらないままで走り回ってはだめですよ」ミス・コリンズはなかば非難するように、なかば面白がるようにアタランテを一(いち)瞥(べつ)した。「それにあなたもですよ、ミス・アシュフォード」

 アタランテは空いているほうの手を頭にかざし、帽子をかぶっていなかったことに気づいた。「はい、ミス・コリンズ」すなおにつぶやきながら心に刻みつける。〝何かの奇跡が起きて、パルテノン神殿に行けたときには、絶対に小粋な日よけ帽をかぶること〟

 ドロシーが口を開いた。「それじゃさようなら、ミス・アシュフォード。話を聞いてくれてありがとう」それから学校へ通じる舗装された幅広の歩道を一目散に駆けていった。

 アタランテはふとむなしさを覚えた。つい先ほどまで少女が頭を休めていた部分にはもう温もりしか残っていない。教え子たちはこの自分を信頼してくれ、いろいろな話を打ち明けてくれる。アタランテにとってはかけがえのないひとときだ。でも、そんなすばらしい瞬間を生徒と過ごすたび、痛切に思い知らされる。かつての自分には気にかけてくれる人など誰もいなかった。自分ひとりの力でなんとか生きていくしかなかったのだ。

 ミス・コリンズはその場から立ち去ろうとせず、アタランテが手にしている手紙を興味深そうにちらっと見た。「郵便配達人が来たのに気づかなかったわ」

 それはドロシーのせいだ。父親の運転手から逃げ回ろうとうろうろしている間に、たまたま届けられた手紙をこの女郵便局長さえ気づかないうちに受け取ったに違いない。

「問題なく受け取ったから大丈夫、ありがとう(メルシー)」アタランテは笑みを浮かべた。「さあ、やりかけていたことを済ませてきます、それではまた(オー・ルヴオワール)」ふたたび城塞跡へ向かう山道をのぼりはじめる。ミス・コリンズは常々〝崖をはいのぼる〟なんてレディらしからぬ行いだと公言してはばからない。だから絶対についてこないだろう。てっぺんにたどり着いたらひとりきりで謎の手紙を読める。もし悪い報せなら、学校へ戻る前に気持ちを落ち着ける時間も持てるだろう。

 もしいい報せなら……。でも、いい報せってどんな?

 数分間ひたすらのぼり続け、小高い山の頂(いただき)にたどり着いた。かつて眼下に広がる村を見おろす城塞だった場所に、いま残されているのはひび割れた岩と苔(こけ)むした土台の残骸だけだ。

 石の間にはピンクや白の野の花が咲き乱れ、数匹のハチがまわりを舞っている。頭上では、アカトビが暖かな空気をつかもうとするかのように両翼を大きく広げ、甲高い鳴き声をあげながら、抜けるような青空に輪を描いている。

 アタランテは髪から一本のピンを引き抜いて封を開けると、そのピンを急いで上着のポケットへ滑り込ませた。早く手紙が読みたい。

 封筒のなかから最高品質の紙を取り出して広げ、最初の数行を読む。力強い筆跡だ。おそらく男性のものだろう。いかにも高価そうな青インクで手書きされている。

親愛なるミス・アシュフォード
お元気でお過ごしのことと思います。この手紙であなたのおじいさまであるクラレンス・アシュフォード様がお亡くなりになったことをお伝えしなくてはならないのは痛恨の極みです。心から哀悼の意を表します。

 アタランテははっと息をのみ、足に力を込めてどうにか体のバランスを保とうとした。祖父には前に一度だけ会ったことがある。たしか十歳くらいだった頃、突然うちを訪ねてきて父の借金返済を手助けしたいと申し出てくれたのだ。立派な馬車と身なりのよいその紳士を見て、ついに自分たち親子の祈りが聞き届けられたのかと思ったのもつかの間、父はその訪問者にけんもほろろな対応をした。ひどい非難の言葉を投げつけ、訪問者を侮辱したあげく、二度と訪ねてくるなと言い放って追い出したのだ。

 その後状況がさらに絶望的となり、父親の健康状態が悪くなると、アタランテは祖父に援助を請う手紙を書こうかと何度も思い悩んだ。でも結局、一度も出さなかった。祖父から冷たい返事が届くのが耐えられなかったせいだ。以前あんなに屈辱的な追い返され方をされた祖父が、こちらの頼みごとを快く聞き入れてくれるはずがない。父にあれほどひどい対応をされたのだから、何をお願いしても断られて当然だろう。

 そのうえ娘が勝手に祖父に連絡を取ったと知れば、父がどうなってしまうか不安だった。激怒するあまり、心臓発作や脳卒中を起こしたらどうすればいい? そんな危険は冒せない。幸せな結果が待っているとはとうてい思えなかった。

 いまとなっては何もかも遅すぎる。

 祖父は亡くなってしまったのだ。

 首筋に吹きつける風が突然冷たくなったように感じられた。まばたきをして込みあげてきた熱い涙を振り払い、気を引き締めて手紙の先を読み続けた。

 あなたのおじいさまは遺言として非常に詳細な指示を残されており、それをあなたに直接お伝えしなければなりません。わたしは駅の向かい側にあるホテル・べーレンに居を定めており、そこであなたをお待ちしております。ご都合のよいときになるべく早くお目にかかりたく存じます。そうすれば、あなたにご自身の利益となる情報をお知らせできるでしょう。
  敬具 
 I・ストーン弁護士 

 アタランテはその短い手紙をもう一度、さらにもう一度読み返した。胸が痛いほどどきどきしている。どういう人物だったのか知らないまま祖父が亡くなったことだけでも衝撃なのに、その祖父がこの自分に遺言を残したと知らされたのだ。

 しかもこの手紙によれば、その遺言は自分の利益となるものらしい。でもどうして? わたしの父にひどい態度を取られて以来ずっと、祖父はいかなる方法によっても孫娘を助けようとはしなかったのに?

 これはいったいどういうことなのか?

 ほてった頬に片手を押し当て、どうにか頭を働かせようとする。無視しなければ。祖父の死を知らされた動揺も、次々と脳裏に浮かんでくる一度だけ目にしたことがあるその姿も。銀髪で散歩用ステッキを持った堂々たる紳士だった。威厳を感じさせるバリトンの声の持ち主だったが、孫娘に優しい笑みを向けてくれていた。

 父があんなひどい言葉を投げつけるまでは。

 アタランテは唇を噛(か)みしめた。自分がこの世に生まれてくる前に父と祖父との間に何があったのか、勝手に判断すべきではない。それに父が過去にどれほど傷つけられてあれほど冷たい態度を取ったのか、理解することもできない。

 もう一度手紙を読み返す。〝ご都合のよいときになるべく早く〟と書いてある。明日の朝、少し離れた渓谷へ旅立つ予定だ。つまりこの手紙の送り主と会えるのは今日だけということになる。

 時計を確認し、心を決めた。午後三時がちょうどいいだろう。自分がすべきは、来たるべき面会に備えて着替えることだけだ。

 遺言の件で見も知らない弁護士と会う─ものすごく特別な感じがする。祖父の死は悲しいし、彼の遺言に自分がどう関わっているのか不安ではあるけれど、このまたとない体験を楽しむべきだろう。きっとこんなことはもう二度と起こらないはずだから。

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続きは本書でお楽しみください。

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