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「時間がかかる」ということ

昨日の「学びの"深さ"はどこに」のつづき。

ようするにぼくがイメージする"深い学び"は、「時間がかかる」のである。時間がかからないものは、"深い"と言えないような気すらしている。

水に潜るのを想像すれば簡単で、深ければ深いほど、潜るのには時間がかかるわけで、金さえ払えばどんなに深くても一瞬で潜れるというわけにはゆかない。

どんなものにも過程があり、"学び"はその中にある。

というか、その過程こそ面白い。何のために生きてるとかではなく、生きていること自体が面白いというか…

生きものを相手に仕事している人は、何事も「時間がかかる」ということを当然知っている(木に向かって「金を払うから、すぐに実を実らせてくれ」と言ったって無理な話だ、木は嬉しくもない)。

ほんとうは人間も生きものなのだけどね…

未来には何が起こるかわからない。どんな出合いがあるかわからない。──当然といえば当然だけれど。でも、そんな感覚すら、「ここに来れば、こういう出合いが得られます」といったコピーに犯され過ぎていないか。

と、ここまで書いて思うのは、"学び"というのは、「〜について勉強しよう」とか「〜を調べてみよう」とか、そういうことの先にあるということだ。

いまいる場所、いま見えている場所の、その先まで行くのにも、また時間がかかる。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月18日。今日は、この季節ならではの、まろやかな時間の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

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