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「前衛と韜晦〜花田清輝を再読する」を読む

先週、登戸で悲惨な事件があった日の夜に書いた「沈黙から生み出されることばを」と題した文章で、

ことばというのは怖い。だから、ことばよりも、沈黙が強い。いや、そうではない。沈黙も、またことばだ。
沈黙の中から生み出されるようなことばで話すことができたらよいのだ。
どうすれば、人を生かすことばを生み出してゆけるだろう。どうすれば、あらゆる人の生を肯定する音楽を、ことばで奏でられるだろう。

と書いた。その翌日の朝、朝日新聞の「折々のことば」で鷲田清一さんがこんなことばを紹介しているのを見た。

そのことばは四方田犬彦「前衛と韜晦(ねこかぶり)」という文章の中にあり、『すばる』最新号に載っているということなので、読んでみようと図書館に寄った。そこにはサブタイトルがあり、「花田清輝を再読する」だった。ここ「道草のススメ」には数日前にも花田清輝が出てきた。よく出てくる。

花田清輝の初期作品『復興期の精神』は、主に戦中に書かれた文章で成っている。

その時期の花田が、どんな生き方、書き方をしていたかを考えるにあたって、三木清、林達夫というふたりの思想家を挙げて比較して、花田が戦中・戦後を通じて「完璧なる無転向者」であったことを書く。

花田は戦時下において、けして謎めいた沈黙に耽っていたわけではなかった。花田はむしろ積極的に雑誌編集と執筆の活動を行い、戦後もそれを一字も修正することなく、書物として刊行した。

「折々のことば」に取り上げられた箇所は、ファシズムが本当の意味で「勝利」する時とは、どんな場合だろうか、という問いかけに応えるかたちで書かれている。

ファシズムにおいて禁じられているのは反ファシズムの発言などではなく、沈黙なのだ。

ファシズムにおける本当の脅威は、言論を弾圧し反ファシズムの発言を取り締まることではなく、むしろ「人をして語らせること」にあり、人びとが「とりわけ命令されたわけでもないのに、いっせいに似たような言説を口にする」こと、それを疑問に思わなくなることだ、と言う。

『復興期の精神』に収められた(ある意味、過激な)文章が、当時の検閲にまったくと言っていいほど引っかからず、スルーされた(初版のあとがきで花田自身「良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された」と書いている)のはなぜか、「前衛と韜晦」は鮮やかに見せてくれる。

ま、"表向き"には、ダンテやレオナルド・ダ・ヴィンチやマキャベリ、コペルニクス、ジョット、コロンブス、ポー、ルター、etc.を論じた本である。

しかし当時、こんなことを書かれたら、むむ、とならなかったか。

生に憑かれ、死に魅いられた人間にのこされていることといえば、駆りたてられるもののように、ただ前へ、前へとすすむことだけであり、海だの、平原だの、動物だの、花々だの──行くさきざきに次々に展開する一切のものを、水を酸素と水素に分解するように、生と死とに分解し、これにただひとつの韻律をあたえるということだけなのだ。生の韻律を。或いはまた、死の韻律を。

『復興期の精神』の一編「歌──ジョット・ゴッホ・ゴーガン」から。単純な文章ではないから、よく読まなければ、わからないかもしれない。しかし、よく読めばわかる。この後、詩人のことを述べているのではない、と言いつつ、さらにこう書く。

つねに正義はわれにありと信ずるもの、対立するものの眉間(みけん)を割ることばかり狙っているもの、党派のために万事を放擲(ほうてき)して顧みないもの、絶えず一切か、無か、と考えているもの──要するに、誰でもいい、殉教の傾向のある、すべての人間のことをいっているのだ。

これを読んでぼくはいま、思い浮かべることがいろいろある。今日の問題について、彼ならどう考えるだろうかと思うのだ。

明日につづく)

アフリカキカク、6月は幾らか(お見せできる)動きがある予定で、たのしみです。広島にいる『アフリカ』も引き続きよろしくお願いします(ちなみに、府中の珈琲焙煎舎にはずーっとおりますヨ)。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月2日。今日は、かぐや姫のような「あの子」の話。

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