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議論を巻き起こす場と人が…

今年も夏がやってきた。蒸し暑さ自体は早くからやってきていたが、それは夏とは違う。本気度が違うというか。今年は夏が遅いと思っていたが、数日前、一気に押し寄せてきて、今日はもう何年も前からずっとこんな暑さだったようなウンザリ感に包まれて過ごしている。

参院選は終わったが、Twitterを覗くと、政治の話題が熱を下げずに(むしろ上げつつ)続いていて、これはいいな、と思って眺めてる。良くも悪くもこれは「れいわ新選組」効果で、「れいわ新選組」に批判的な者も、熱狂しているような者も、評論しようとしているような者も、みんな「れいわ新選組」がなければそのような思いの丈を放出することはなかったのだろうから、それだけでも「れいわ新選組」の仕事は大きい。いまは、自民党はもちろんだが、共産党でもそこまでは議論を巻き起こせていない。

ぼくがはじめて雑誌をつくった頃(2003年くらいかな)、小川国夫さんに送ったら、「議論を巻き起こす文学者というのが、最近はいないね、君のつくった雑誌を見て思った」と言われたのを懐かしく思い出す。ぼくは何かのアンチで雑誌をやったわけではないと思うが(いまでもたぶんそうじゃない)、議論が湧き出しそうな"場"というのはある。

意図してそうできる部分と、そうじゃない部分がある。それがまた面白い…はずだ。

この記事は、「れいわ新選組」に救いを求めて盛り上がっている人たちには水を差されるような内容かもしれないが…

ある定義づけによる「ポピュリズム」を切り口に見たら、安倍自民も維新もれいわ新選組もN国も同じ性質のものになってしまうというのは、まぁそうなのかもしれない(し、違うのかもしれない、ぼくには詳しい知識がなくて何が正確か判断する材料を持たない、それは保留して書いてる)。

しかし、「ポピュリズム」の定義はいま揺れていて、だからあえてこの記事ではその定義づけから始めた、とこの記事を書いた田中信一郎さん自身もTwitterでは言っていた。そう聞くと、その揺れ動いている定義のことばを連呼して何かを論じ、記事を書くのはかなり嫌らしいなぁと思ってしまうのも確かだ。

そう思っていたら、「れいわ新選組」から立候補して、落選した安冨歩さんがブログでいろんな楽屋話を書いていて、これがまた面白い。田中さんの文章と比べてみたらより面白いはず。話の中身の前に文章自体を見てみて。

政治学者の記事と楽屋話を並列に見るのもどうか? いや、われわれ一般市民は全てを並列に見て、読めばいいんじゃないか。そうやってこそ見えてくるものもあるような気がする。

田中信一郎さんは、れいわ新選組を「ポピュリズム政党」の一種として書いているんだけど(もしかしたらそうかもしれない、ぼくにとってはそうであっても構わないのだが)、安冨歩さんは「政党」ですらないと書いている。

「政党」でないものが、「ポピュリズム政党」であるはずがない。

それどころか、「政党」を「その目的を「綱領」という形で明文化し、何らかの「政策」を掲げて選挙を戦い、議席を獲得して綱領の実現を目指す、という共通の目的を持った集団」であるとしたら、いま日本に「政党」は日本共産党しか存在しないと言っている。

それ以外は何かというと、「「選挙に当選して議員になりたい」と思う人が集まって、票を得られる方法をいろいろ考え、それを綱領や政策として出し、「政党」のフリをしている集団」だって。

それを言っちゃ〜おしめ〜よ?(でも、だからダメだそれは止めろとは言ってない)

日本共産党だけ、と言われたら、忘れられている者たちがいるのではないか…? と思うところもあるけれど、それだとズバッと言えないのでそういう言い方になるのかもしれない。

批判を必死で排除しようとしている人(安倍晋三とかいう日本の王様、いや亡霊か)がいる一方で、批判されたらされただけ輝く人もいる。

昔、すごーく若い頃、寺山修司の本を読んでいたら、

英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要としている時代はもっと不幸だ。

といった誰かのことばが紹介されていたのを、思い出す。

いまは、まさにその「不幸」を背負った時代なのかもしれない。

(つづく)

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