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なぜ牛は食べてもいいのに、人間は食べちゃいけないの?〜我が家の食育と、あらゆる差別

子どもに、何をどう教えるか。
息子が1歳になるくらいまでは、目の前の小さな生きものを今日も死なせずに済んだ、という毎日。そんな日々をなんとか乗り越えて、笑ったりしゃべたり、息子もずいぶんと人間らしくなってきた。
2歳にもなると、親が言っていることをかなり理解している。適当なことは言えないな、と思う。だが大人の常識をそのまま理解できるわけではない。適度に簡略化して、とか、無用なトラウマは与えないように、と思うのだが、その度合いがなかなか難しい。

どう話せばよいかわからない、と私が常々思っていることのひとつは、動物と植物、その命に関することだ。

絵本を見ながら「牛さんはモーモーって鳴くんだよ、かわいいね」などと言った直後に、私は牛をミンチにして焼いたハンバーグを息子に食べさせている。花壇の花を摘もうとする息子に「お花さん痛い痛いだよ、見るだけね」と言ったその口で、細かく刻んだ野菜のスープをおいしいおいしいと食べている。
矛盾している、と我ながら思う。

命は、種類によって重さが違うのか。
なぜ牛や野菜は食べてもいいのに、人間は食べてはいけないのか。
この問題はずっと私の中に居座っていたが、子育てをするようになって、消えないものとなった。

今まだ息子は、単語しか口にできない。けれどいつか、「ぼく、うしさんたべてるの? うしさんしんじゃったの?」とか「トマトちゃん、たべられたら、いたいんじゃない?」とか言い出す日が来るかもしれない。そしてさらに成長すれば、「なんで牛は殺していいのに、人間は殺しちゃいけないの?」と母親に聞いたりもするのだ。かつての私のように。

私が母にそう聞いたのは大学に入って少ししたころだったと思う。母の答えは「はあ? ちょっとあんた、人殺しとかやめてよね」だった。私は絶対にこんな母親にならない、と決めたのをよく覚えている。
息子が私みたいな子どもになるかはわからないけれど、少なくとも彼の問いには真剣に向き合う親でいたい。彼が私に同じことを問うたら、私はなんと答えればよいのだろう。

私が動物や植物との向き合い方について考え出したのは、哲学科の授業で、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーの著書『動物の解放』を読んだのがきっかけだった。
簡単にいうと、シンガーの主張は「相手が苦しむことをしてはいけません」ということだ。家畜を屠殺すると、彼らは泣いたり暴れたりして苦しむ。だから殺して食べるのはやめましょう、人間はベジタリアンであるべきです、とシンガーはいう。

ベジタリアン、という言葉は当時の私も知っていたが、特定の宗教のルールとして語られる場合しか知らず、自分には無関係なことと思っていた。だが、共同体のルールに従った結果でなくとも、自分ひとりの思想・信条として自らの行動を決めるという選択肢もあるのだ。今では当たり前に思えるこのことに、そのとき大人への入り口に立っていた私は感銘を受けた。

かといって、私がシンガーの主張を受け入れてベジタリアンになったかというと、そうではない。野菜も食べてはならないのでは? と思ったからだ。確かに野菜は収穫されても叫ばない、暴れない。だが「叫ぶ」「暴れる」という行動が苦しみの表現だとするのは人間の尺度で、植物には独自の苦しみ方があるかもしれない。それを人間が理解できないからといって、「植物は苦しんでいない」と決めつけることは傲慢なのではないか。動物は人間と同じ、植物は人間と違う、だから扱いも変える。それは人間中心主義、そしてシンガーのいうところの「種差別」ーー種類によって生命の扱いを変えることーーにあたるのではなかろうか。
肉も野菜も食べてはいけない、と思う。しかし何も食べずにいれば餓死する。結局私は、肉も野菜も食べて生きている。

「牛やトマトや鮭や蚊は殺してもよくて、人間は殺してはいけない」というのは、状況による例外は数多くあるけれど、私たちがある程度守っている今の世界のルールだ。
どうして私たちはこのルールを守っているのだろうか。牛とトマトと鮭と蚊と人間とで、絶対的な命の重みが違うのだと説明されても、私は納得できない。「人間を殺してはいけない」のは、私たちが人間で、他の生命よりも人間の苦しみを最も具体的に想像できるからなのではないか、というのが今の私の見解だ。また、そのルールは自分自身が誰かに殺されるリスクを減らすことにもなる。

私たちが人間である以上、人間と他の生きものを区別して、人間を特別視してしまうのはある程度仕方のないことなのかもしれない。
だが、諦めてはいけない、と思う。私たちは他の生きものを思いやることもできるのだ。

植物を刈り取ったとしても、私たちは植物が痛がっていることを実感できない。植物は私たちが切りつけられたときのように、泣きも叫びもしないからだ。
でも、もしかしたら彼らも、私たちとは違う仕方で苦しんでいるかもしれない。私たちと同じように「生きたい」と思い、「傷つけられたくない」と思い、「自分で選んだ場所にいたい」と思っているかもしれない。私たちは、人間は、そのことを想像できる。実感はできなくても、他の命に思いを馳せることはできる。

自分と異なる相手の痛みは実感しづらく、それゆえ無かったことにしてしまいがちだ。そしてこのことは人間と植物、人間と動物だけの話ではなく、人間同士のあらゆる問題、あらゆる差別が起きてしまう原因なのだと思う。

実感できないからといって、考えることをやめてはいけない。私たちは、相手の痛みを実感できなくても、想像することができる。相手が自分と違ったとしても、理解することを諦めてはいけないのだ。

私が息子に教えたいのは、「牛は食べてもいい」「牛は食べてはいけない」という私や世間の思想ではなく、きっとこの「相手を理解しようとする姿勢」だ。

親は日々、子どもに世の中のことを教えてゆかなければならない。私たち人間が動物をかわいがりながらも殺して食べることを、いつかは教えてあげなければならない。
息子には、多くの大人が「当たり前だ」と思考停止してしまっていることも、「なぜなんだろう」「本当はこうなんじゃないか」と自分の頭で考えてみてほしい。その上で、自分がどう行動するかを自分で選んでほしい。
親である私にできるのは、考えるための材料を与えてあげることだ。そして彼の考えを尊重してあげること。もしそれが道理に背くと思われれば、私は私の意見をもって彼と対話すること。

ひとまず、食事のときには息子に中身を説明するよう心がけることにした。一口ごとに、「トマトちゃんだよー」「牛さん、よくカミカミしてね」など。
牛は絵本に出てくるもの、牧場で会えるもの、モーと鳴くもの、草を食べるもの、そして人間に食べられるもの。2歳の息子に私が与えられる「材料」は、こんなところだろうか。



<読書案内>
ピーター・シンガー『動物の解放』

昨今では動物の権利への配慮もだいぶ一般的になってきましたが、原著が出版された1975年には、たいへんセンセーショナルな一冊だったようです。現在とは異なる状況や、少々極端な思想も含みますが、いのちについて考える基本が学べると思います。
Amazonには中古しか出ていない模様。在庫のあるサイトで買うにしても、専門書というのは定価が高いですね。ベストセラーなので、図書館には置いてありそうですが…。


鯖田豊之『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』

食生活と思想の関係に興味を持った人におすすめです。
キリスト教は、「牛や豚は人間が食べるために神さまが創った」と人間中心主義を唱えていますね。このような教えがあるから欧米では肉食が一般的なのだ、と思われがちですが、実は逆ではないか、というのが本書のテーマです。
日本は農耕に向く気候、欧米は牧畜に向く気候で、それぞれの条件に合わせて食生活が営まれてきました。その食生活から、必要に駆られて、宗教やあらゆる思想が生まれたのだというのです。
著者は歴史学者なので、(哲学書と違って)データが豊富で読みやすい文章です。



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