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言葉の温度

何だか気持ちが疲れている。そんなに大した疲れではないけれど、明らかに先週以前の自分と比べてどっと疲れている。急に夏の終わりが顔をのぞかせて気温が下がったりしたことも少し関係があるのかもしれない。

ささやかな楽しいこと、嬉しいことは日々あれど、流れてくるひどいニュースやモヤモヤする言葉のあれこれに、着実に心が削られているのもあるだろう。深く考えずにやり過ごそうとしても、心が削られているという事実は消えてなくなったりはしてくれない。

そんな時は、まずちょっと静かにしてみる。誰かが書いた詩やエッセイを読んでみるのもいい。最初はいつものように少しTwitterを眺めていたけど、疲れている時にTwitterを見るのはやはりしんどい。

結局エッセイや詩が好きなのは、他人のささやかな思考が静かに流れてくるのが面白いからなんだろう、と思う。心地いい、と言ってもいい。現実の世界ではどうあっても自分は自分でしかいられず、自分から見る世界とそこから得た言葉や思考の中でしか生きられない。でもそれらを読んでいる間だけは自我が消えるというか、一瞬でも自分が自分から離れられているように錯覚する。未知の世界がぱっと目の前に広がるような、誰かの現実を追体験できるような非現実的な自由がそこにはある…気がする。そんな感覚までセットで好きなのかもしれない。

そんなわけで何か読もうと、本棚から出しっぱなしにしていた文芸誌を手に取り、文字を目で追う。2017年刊行の「早稲田文学増刊 女性号」だ。責任編集を務める川上未映子さんの巻頭言の素晴らしさに感動して当時すぐに購入したこの文芸誌には、82名の女性による小説、詩、短歌、俳句、エッセイ、論考、対談などが556ページにわたって掲載されている。

夜寝る前などに少しずつ読み進めよう、なんて思っていたけど、購入してからもうすぐ丸5年もたつのに実はまだ半分も読み終えていない。楽しみが半分以上残っていると思えば幸せだけど、もう少し手に取る頻度を上げたい気もする。

そして5年たってもなお、私はこの巻頭言の言葉に鼓舞され続けている。

「どうせそんなものだろう」、そう言ってあなたに蓋をしようとする人たちに、そして「まだそんなことを言っているのか」と笑いながら、あなたから背を向ける人たちに、どうか「これは一度きりのわたしの人生の、ほんとうの問題なのだ」と表明する勇気を。(早稲田文学増刊 川上未映子責任編集「女性号」巻頭言全文より

こういう本は最初から順番に読むのではなく、ぱっと適当に開いたところから読むのが好きだ。(そのタイトルが気分に合わなければちょっと前後に移動したりもする。)しばらくページをめくってからその分厚い本を閉じ、考えるテーマを決めずにぼーっとしてみて、何が浮かんでくるだろう、としばし待ってみた。あまり待たずにふと浮かんできたのは、居心地がいいと思える場所や人のことだった。

風が通り抜ける街路樹、空が近くなる公園、夕方のベランダ。
同じ温度で話す人、適当だけどいいかげんじゃない人、真面目で面白い人。

そのどれもが身近にあるのは幸せなことだ。実際はこの中には物理的には近くにないものもある。それでも確かにこの世に存在していて、目を閉じれば現実の距離を越えて"近くにある"と思えるのもまた幸せなことだろう。

単純なことだけで生きていけたら、とたまに思う。疲れている時は特に、何も難しいことは考えずに。でも何も考えたくないわけじゃなくて、思考を放棄したいわけではなくて、しっかり考え続けながらいろんなものから少しずつ自由になりたいのだ。

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それにしてもなぜこの「居心地がいいと思える場所や人」というテーマが浮かんだんだろう、と不思議に思い、さっきまでめくっていたページをパラパラと読み返したら、「言葉の海の中で(中略)居心地のいい場所を探しているのです。」という文章があった。ほとんど無意識に、でも「すごくいいな、分かるな」と思いながら読んでいた箇所だった。

無意識に取り込む誰かの言葉は、やっぱり自分の思考にさりげなく食い込んでくる。これは本当に良くも悪くもで、後者には本当に気をつけなければいけないと定期的に思う。自分が日々摂取する言葉の影響力には意識的でいたい。

例えばTwitterでフォローしていた人の発言にだんだん「おや?」と違和感を持つことが増えてきたりして、「日々流れてくるこの人の言葉をこれ以上無意識に摂取し続けて、ほんの少しでも自分の思考に影響を及ぼしていたら嫌だな」という警報が鳴ってパッと離れたことが最近もあった。

自分の心が察知する違和感を見逃さないことは本当に大切だ。

***

私にとって小説など本の中で紡がれる言葉やその世界は、これまでずっと静かに心を癒やしてくれる存在だった。そういう意味で言うと、最近は日々音楽に癒やしてもらっていることが多く、あまり昔のように頻繁に言葉による癒やしを必要とはしなくなっているのかもしれない。

それでもやはり、少しずつ世間に降り積もる悲しい/悪意のある/論理の破綻した言葉によって心が疲れてしまった時は、もっと別の、温かく力強く、嘘のない言葉に癒やしてもらいたいと思うようだ。

しばらく離れていても、それを必要とした時に手を伸ばせばそっと寄り添ってくれる大切な本が本棚にはたくさん眠っている。何年も前に引っ越してきた時から押し入れの中に入れたままの段ボールの中にも、まだまだ眠っている。そしてこれから出会って大切になる本もきっとたくさんあるだろう。

心地いい言葉の温度というものが確かにあって、それは私にとって一種のお守りのような存在だ。そんなふうに、これがあれば大丈夫、と思えるものがいくつかあるおかげで、たまに落ち込んだりはしても何とか気持ちを立て直して日々を繋いでいくことができている。

そして、最終的にはこうして書いて気持ちを整理する、という行為もやっぱり私には必要なようだ。これを書き始めた昨日より、今日はいくらかすっきりした心持ちで書き終えることができた。

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