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“書く”ことは言葉を“選ぶ”ことであり、それはいずれ生き様となる。

独りきりで書いていた頃には悩まなかったことで、定期的に頭を抱えている自分がいる。

私が書いているものは、どうしてもテーマが重い。虐待や過去の体験を書く際、その重さの割合にいつも頭を悩ませている。


自身のモチベーションによって、他人の言葉が鋭い棘となって突き刺さることがある。

「他人の不幸話なんて聞きたくない」
「不幸話はつまらない」
「不幸話は面白く話せる(書ける)話術がないと相手は苦痛なだけ」

挙げればキリがない。キリがないくらいの頻度で、こういう言葉を見かける。直接言われた言葉ではない。たまたまネット上で見かけただけだ。気にしなきゃいい。私が言われたわけじゃないし、人はみんな思いたいように思う。見たいものを見る。普段ならそう思って流すことができる。
でも、そうできないときがある。

自身がひどく疲れていて、他者との境界線が曖昧になっているとき。もしくは、言われている人が昔の自分と重なるときだ。


辛かったことを笑いに変えて書ける人が高い評価を受けることがままある。それ自体はとても素敵なことだと思う。そのようなカタチで想いを表現できるようになるまでに通ってきた道のりは、どう考えても平坦なものではない。笑える文章を書いている人が泣いていないわけではない。むしろ見えない場所でたくさん泣いている場合もあるだろう。その想像力を忘れたくない。


ただ、だからといって辛かったことを辛かったままで書くことに罪悪感を覚える必要は微塵もない。どう書きたいか、どう表現したいか。どう伝えていきたいかは、自分で決めていい。

誰かと比べて自分はだめだ、なんて思う必要はない。あなたの文章はあなたにしか書けないし、私の文章も私にしか書けない。その価値を決めるのは読者だという考えもあるだろう。でも読者ありきの前に、まずは自身がその文章に納得できるかどうかが一番大切なのではないだろうか。


私はこの先何があっても、過去の「不幸な体験」を面白おかしく書くつもりはない。これはあくまでも私自身のスタンスの話であり、笑いに昇華して書いている書き手さんを貶めるために書いているわけではない。


虐待も性犯罪も、笑える要素なんて一ミリもない。むしろどうやって笑えっていうんだ。

私が伝えたいのは私の経験そのものではない。その経験を通して失ったもの、知ったもの、他人がくれた優しさ、地獄の景色、そこから這い上がれたきっかけ。そのうちのどれか一欠片でもいい。わずかでも誰かに届けばいいと願いながら書いている。尚且つ、ことの深刻さ、過酷さを知ってほしいと思いながら書いている。

誰しもが「笑い話にしなければ生きてこれなかったんだろう」と解釈してくれるのならまだいい。そうではない以上、その可能性を私は少しでも潰したい。
「笑い話にできる程度のことなんだね」なんて、曲がった解釈をされては困るのだ。ひたすらに地獄だったあの日々を、誰にも笑われたくない。消費されたくない。


もちろん苦しいだけではなく、そのなかで感じた光を伝えることも忘れたくない。見えるところで書く以上、読み手への配慮も必要だろう。ただ正直、これでも相当柔らかく書いている。何も不幸自慢がしたいわけじゃない。虐待の現実は、私が書いてきた文章の何倍も過酷なものだという現実を知ってほしいだけだ。


閉鎖病棟に入院していたとき、私はオムツを履いていた。排泄のために身体を起こすことすらできなかった。人間をそこまで壊す。それが、虐待だ。
(*重度のうつ病などの場合も同じような状態になることはある。私は虐待による後遺症でそうなったが、同じ状態の方がみんな同じ原因、症状なわけではない。)


苦しみを苦しみのままに書くことが間違いだなんて誰が決めた。面白く「書けない」と悩む私は、一体誰のために書いている?


「書けない」んじゃない。「書きたくない」んだ。

私は私の過去を、苦しかったものとして「書きたい」んだ。


評価されることに意識が向き過ぎていたのかもしれない。そして、誰かを尊敬するあまり、その人の発言に左右され過ぎていたのかもしれない。

そもそもの前提から考え直してみようと思っている。


私は「書く」仕事がしたいのか。それとも自身の思うように「書きたい」のか。どちらが偉いとか正しいとかいう話じゃない。私がどうしたいかが大切であり、逆にそれ以外優先すべき項目が見当たらない。


虐待が減ってほしい。

性犯罪の被害に生涯を食いつぶされる人がいなくなってほしい。


人間一人にできることは少ない。でも、ゼロじゃない。


子どもを救えたとき、それはわざわざニュースにならない。でも救われている子どもは現実にいる。だから、「何もできない」なんて思いたくない。できることはある。どんなに小さなことでも。


今一度、考える。私は、誰のために書いている?何のために書いている?

欲しいのは評価か。正直に言えば評価はほしい。生活に必要なぶんのお金もほしい。ただ、私が「書く」上での最優先事項はどれだ


誰かの言葉に左右されないもの。私は何に怒っていて、何に傷ついているのか。そこに答えがあるような気がしてならない。

まずは心身を休める。情報から少し離れる。自身の頭と心で、しっかりと考える。


目指したい場所も、やりたいことも、目的も、みんな違っていい。(他者への攻撃以外は)書きたいことを書いていい。やりたいようにやっていい。行きたい場所に行って、自身の呼吸をすればいい。

誰かに委ねた価値は、簡単に移ろう。他者からの評価なんて、容易に引っくり返る。


言葉は魔物だと、そう感じることがある。そういう側面があるということを忘れず、私はどこまでも自分の文章を書いていたい。


笑える文章も、涙する文章も、穏やかな気持ちになれる文章も、痛みのある文章も。等しく、価値はある。求める人が違うだけだ。どんなものを読みたいかは人によって異なる。例えば私はピーマンが大好きだけど、長男は嫌いだ。その代わり彼は刺身と白米が大好きだ。それと同じことだ。


文章も言葉も生き様も、みんな違う。だからこそ伝え合うんだろう。

「私はこう思うよ」と。「僕はこう考えているよ」と。

それこそが”書く”意味であり、私たちが言葉を”選ぶ”意味なのだと私は思っている。





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