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【“いつか”じゃなくて“今”、助けてほしいんだよ】

頭のなかに溢れる思考を書いて表に出す。私にとってそれは一種の儀式であり、書くことによってバラバラだったそれらが整理されていく場合も往々にしてある。

疲れたときほど、苦しいときほど、私の両手は止まらない。時間を忘れて書き続け、ふと気づくと日を跨いでいる。そんな夜は特に珍しくもなく、あぁそろそろ寝ないとなぁ…とぼんやり思いながらも、最終ピリオドを打つまで私の手は止まらない。

Twitterの140文字は短すぎるといつも思う。どうがんばっても言葉をぎゅっとまとめるしかなく、要点だけにしようとすると私の言葉は呆気なく尖ってしまう。

今日、こんなツイートをした。

昔に比べて、精神的に楽になってきたのは事実である。具体的に言うと、悩みを引きずる時間が格段に減った。「ここまで落ちたらこれくらいで這い上がれる」という目安がわかったのはもちろんのこと、「何だかんだでここまで生きてきたんだし」という開き直り精神が持てるようになったのが最も大きい。しかし、ツイートにも書いたように、それは「今現在苦しんでいる人」にとっては何の慰めにもならない。

「今」この瞬間、血だらけで倒れている人が目の前にいたら、きっとほとんどの人が救急車を呼ぶだろう。しかしその傷が「目に見えない」心の傷になった途端、人は簡単に対応を変えるのだ。

「いつか楽になるよ」
「あと10年したら生きやすくなるよ」

前述した例えで当てはめて考えてもらえば、この一言がどれだけ残酷なものであるか、理解していただけると思う。

見えないものを想像するのは、きっととても難しい。私にも想像しきれないもの、理解しきれないもの、そもそも「知らない」事柄は山のようにある。だからこそ、「こうなんだよ」と言われたら、「そうなんだね、わかったよ」と素直に応えたい。

「私の場合は…」というアドバイスは、ときに容易く刃になり得る。アドバイスそのものが悪なのではなく、相手側の訴えに耳を貸さずに自分の話にすり替えてしまう行為が人を傷つけるのではないかと私は思っている。

20年かけて通ってきた獣道は、とてもじゃないが人には勧められない。すきで通ったわけではなく、それ以外の道を知らなかった、無知で無力な当時の自分の精一杯の結果である。そのなかで己が傷ついた数、人を傷つけた数、幾度となく命を落としかねなかった深刻さを思うと、簡単に「どうにかなる」とは言えないのだ。

過去のエッセイでも書いたことがある。

助けを求められる機関。援助体制。周囲の理解。何一つ知らず、得られず、ただただ地べたを這いずるようにして生き延びた。だからこそ、伝えたい。

「私はどうにか自力で生き抜いた。だから頑張れば他の人にもできるはずだ」

そういう持論だけは、死んでも言いたくない。

通りすぎた過去の痛みが自分のなかで薄れていくのは、むしろ回復の兆しであり良い傾向であると思う。しかしそれを他者に向けて「大したことじゃなかった」と言いきってしまうのは、少し立ち止まったほうがいい。その他者が現在、地獄の真っ只中にいたのなら、その言葉は果たして本当に救いになり得るだろうか。

感覚は人によって異なるし、もちろんそういう言葉に救われた人もいるだろう。でも、そうではない人もいるのだということ、また、“良かれと思って言ってくれているからこそ”違和感を直接口にできない言葉であることをまずは知ってもらいたい。

乗り越えた側が「私は大丈夫だった」と言ってしまえば、周囲は“そういうものだ”と判断する。どんなに「辛いんだよ」と訴えたところで、「でもあの人は大丈夫だったって言ってるよ」と言われてしまうのだ。

同じ経験であったとしても、全く同じバックグラウンドの人はこの世にいない。元々持っている基礎体力、学習能力、性格や特性、家庭環境、経済格差など諸々の要因が重なって“今”の自分がいる。他者と比べて己を鼓舞する。その方法を選択していいのは、“本人”だけだと思う。周囲に「あの人はこうなのだからあなたもがんばって」と言われるのは、思いの他苦しいものだ。

がんばってきた道のりや努力そのものを否定したいわけじゃない。そこは胸を張っていいし、誰に遠慮する必要もない。ただ、当時の痛みを忘れ去った状態で真っ只中の人に不用意な言葉をかけるのだけはやめてほしい。
「あなたが大丈夫だった」からといって、「目の前の人が大丈夫である」保証はどこにもないのだ。

根性論だけじゃ乗り越えられない事象は山のようにある。支援体制が整っていない現状もさることながら、未だに精神疾患や虐待の後遺症への理解は浸透していないのが現実だ。

10年後の話ではなく、「今」の話をしている。未来を見据えたうえで、長期戦になるとわかったうえで、それでも今このときに苦しんでいる人から目を背けたままで成し遂げられることなんて何もない。

被害者の数は、虐待に限らず想像以上に多い。水面下にいる被害者がどれほどいるのか、私だってもちろん把握しきれていない。ただ一つだけ言えるのは、私自身、2年前までは沈黙していたのだ。被害を受け続けていた期間、私は「被害者」としてカウントされていなかった。そういう人が、世界中にいる。

強い言葉は、書いている側も読んでいる側も消耗する。だからなるべく使いたくないのだけど、深刻さを伝えるためには必要なこともある。やさしい言葉だけですべてを伝えきれたらいいのにと思うけど、そうもいかない。抱えるジレンマに直面するたび、言葉の扱い方の‟正解”は一体どこにあるんだろうと途方に暮れる。

文章で当事者のリアルを伝える。そこにはどうしても深い痛みが伴う。だから私は、その頻度を調整しようと心に決めている。書き手、読み手双方のためにも、そうしなければ身が持たない。

しかしその決断を下せるのは、私が今、被害の「真っ只中」にいないからなのだという事実を忘れたくない。安全な場所にいる人間にしか選ぶことが許されない選択肢というものが、この世にはある。

とは言え、自分が倒れたら元も子もない。また、後遺症という観点で見ると私は現状、残念ながら「真っ只中」である。だから決して、無茶はしない。

「今」と「未来」両方の視点を持って物事に当たる。そのために必要な「聴く」姿勢を忘れず、これからも書き続けたい。文章だけで何かを変えられるとは思っていない。でも、文章をきっかけに知ってもらった先に、道の続きがあると信じている。

「いつか楽になるよ」に代わる、本当の意味での救い。その実現に向けて、自分にできることを諦めずに探し続け、手を動かし続ける。



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