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音楽と僕にとっての綺麗事になってしまうこと

鑪ら場で演奏したのは、昨年12月末の自分企画のイベントの時以来でした。5ヶ月ぶり。

なんか家みたいになってしまった。家のお風呂に入っているような気持ちになった。だから、ここにはいちゃいけないような気もした。いろんな意味でいちゃいけないような気がした。


みんな、鑪ら場が好きだって言う。あそこのハコ、気になるなあって言う。きっとすごくいい場所なんだと思う。例えば僕が北海道に生まれていたとしても、きっとそう思うんだと思う。


今はやっぱり、遠くへ行きたいなって思った。まだ、こんなあたたかい場所へ帰ってきちゃいけないなと思った。あたたかい場所と言っても、鑪ら場の2人にはしっかりディスられて帰ってきた。(ありがたいアドバイスとして。)僕はヘコんでいるわけじゃあない。それでも、自分が何者なのか、もっと知りたいと、4Kよりは8Kで見たいとも思った。


共演者を褒めてもつまらないです。だけど、とてもよかった。神の領域入ってるなーって思った。でも、僕は僕でしかないから、同じ方法で同じような場所へは行けないのだ。

それが改めてわかった。だから、そう考えると、この今日、そこで歌えてよかった。


すべてがじれったいなって思う。もしかしたら、僕は焦っているのかもしれない。やりたいことばかり頭に浮かんでくる。曲も、これからのことも。だけど、時間は同じ。日々は大体同じことを繰り返す。それは愛しくもあり、つまらなくもなるものです。つまらないように見えるものが本当は愛おしいのかもしれないけれど。


音楽は、僕を連れていってくれる。知らない場所へ。それはすごくエキサイティングなことなのです。だからやっているのかもしれない。そういう場所へ、行きたいだけなのかもしれない。誰かに呼ばれたり、自分で決めたりを往復しながら。


落ち着いている。なんでか分からないけれど、すごく落ち着いている。


眠いのかもしれないな。でも寝れそうにもない。


僕は誰かに愛を与えるような人間ではないのかもしれないなとも思った。もっと、ずっとわがままなやつなのだと思った。だけど欲張りにも、そういう人間になりたいとも、思っています。だけど、やっぱり、きみという人に寄り添うことも励ますことも芯からはできないから、彼彼女の代わりに、その靄(もや)を劈き(つんざき)たいと思った。そこがたぶん僕の人の前に立つことの精一杯の意味なのかもしれないです。

でも、そんなことも綺麗事だよ。
本当は、いい曲を書きたい、あの人のように歌いたい、そういう自分になりたい。それだけだよ。お客さんは、どうぞそれを楽しんでくださいというのが毒々しいかもしれないが、本当のところです。

なぜわざわざ嫌われに行くのか、分からないですね。だけど、やっぱり嘘は気持ちが悪いのだ。


来週日曜日は、京都、サーキットフェス「いつまでも世界は…第八回」です。CHAMというカフェで夕方頃に演奏する。

誰のためでもなく、自分のためにやるよ。
なんてやつだって思われても、よろしくお願いします。付いて来てくれるなら、誰も拒まないだけ。

クソみたいな気持ち、読んでくれてありがとう。おやすみなさい。


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