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「当たり前を疑う」のが難しいなら

冬休みの宿題のひとつ、
書き初めを今日終えた長男。

「書き初め」ではなく
「書き納め」になったらしい。


その長男が、
「書き初めって
いつまでするんだろうね」
と、疑問を投げかけてきた。


鉛筆ができるずっと前は
筆で文字を書いていたのは
もちろん知っている。


今は鉛筆、シャーペン、ペン
それにキーボードでも
文字が書けるのに

なぜ、学校で習字をするのか。


夫はそれに
「日本人だから…、伝統が…」
と答えようとするけど

それってだたの
思考停止じゃない?
と、私は思ってしまう。


そこで、長男に聞いてみた。


_学校で、
なぜ書き初めをするのか
どういう意味があるのかって
習ったことある?

長男の「ない」という返事は
興味が無くて聞いていないだけ
かもしれないので、

ついでに長女にも同じ質問。


やっぱり
教えてもらったことは
ないらしい。


ネットで検索してみたところ
書き初めはもともと
「書の上達を祈願するもの」
だったらしい(初めて知った)。

それを、新年に行うことから
一年の抱負などをしたためるのが
定番になったのだとか。
(こっちは知っていた)


たしかに私も、
小学生のころに先生から
教えてもらった記憶はない。

あるとすれば
当時通っていた書道の先生か
母親からだと思う。


じゃぁ、学校では
「なぜ?」という疑問は
あがってこないんだろうか。


1年生からある書き初め。
低学年の子なら
「なんでやるんー?」
「えー大変~」など
素直に言いそうなもの。


それをさらりとスルーして
「書きましょうね」
とでも言っているんだろうか。


と考えると、
3学期に開催される
「書道展」のため?
などと思えてくる。



先生には先生なりの
目的があると思うし
指導要領で定められてるから
と言うかもだけど


時代は変化しているというのに
なにも疑うことなく

決まっているから
例年やっているからと

本来の目的や意味も伝えずに
やっているのなら
「思考停止」と同じ。


その指導にしたがって
疑問を持たずにやるのも
「思考停止」。


長男はそこに疑問を持ったわけで、

それを「反抗」と捉える大人も
いるかも知れないけど、

私はむしろ安心する。


目的の分からない作業を、
意義を感じない作業を、

ただ淡々と消化するのは
つまらない気がする。


とはいえ、
学校から習字をなくすべき
と言いたいわけじゃない。

やってみなきゃ、
それが楽しいかどうかや
好きかどうかも分からないから。


その機会を家で作るには
限界があると思うから、
学校が与えてくれるのはありがたい。

問題はその先。

やってみて、
楽しいと思えば
書道を習えばいいし

習わなくとも
自由に書を楽しめばいい。

本来、誰かと比べて
評価したりする対象じゃないから。


苦手・嫌いと分かっても、
「ふーん、こんなものか」
と分かっても

当たり前のように続けるのが問題。


これは、
お習字に限ったことじゃなくて。

体育だって、
なわとび、鉄棒、とびばこ。

大人になったら
やるのはボクサーか体操選手?


やらなくても困らないことなら
子どもの頃からもっと
選択肢があっても良いのにな。


長男は
「小学校は不自由だ」と感じてる。

私もそう思う。

だから子どもたちには
こう伝えている。

「経験すること自体は
 良いことだと思う、
 好き嫌いがわかるから」

「大人になるにつれて
 自由になってくるよ」

「自分で選ぶということは
 責任もセットだけどね」

「大人になるまでは
 ママもサポートするよ」

こんな感じ。


とりあえず、
中学生になったら
百字練習帳がなくなる。

それは非常に楽しみな様子…


「当たり前を疑う」のが難しいなら
子どもの素朴な「なぜ?」について
本気で考えてみよう。



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