めんどくさいという病

気が付いたらもう梅雨入り。ここ数週間何やら結構バタついて、久々にnote書こうというモードになりました。6月は父の命日があったり、会社の決算があったりと、元から公私でスケジュールが埋まる月。ついでに自分と奥さんの誕生日月でもあるという。そこで出てくるのが、“めんどくさい”という病です。別に何か疾病を抱えている訳ではありませんが、「あ、めんどくさいなぁ…」という、誰にでもあるアレです。

自律する人と飲み込まれる人

さすがにこの年になれば、“めんどくさい”の波もある程度コントロールできるようになります。ただ、周囲を見ていると、行動原理の最上位に“めんどくさい”が来ている人もいて。総じて「仕事だからやっています」感が出てしまうので、正直パフォーマンスは良くありません。で、この波をコントロールできている人と、飲み込まれている人との差について考えてみたんですが。

【Why】の重要性

めんどくさいに飲み込まれている人たちを見ていると【Why】がないんですよ。「なぜこの仕事をしているのか」「なぜ自分はそれをやるのか」あたりがごっそり欠落しています。

かつては、企業へ労働を提供して、その対価をもらう、というサイクルでよかったと思うんです。めんどくさかろうが、やる気があろうがなかろうが、単に「労働力」として機能していればさほど問題はなかったはずなんです。個の考えやモードは関係なかった時代、とも言えます。

そして、いま。企業や雇用する側が求めているのは、労働力を提供してくれる人ではなく、「価値」をもたらしてくれる人なんだと思うんです。とっくにその時代に突入していると感じるんですが、そんなことを誰かがアナウンスしてくれる訳ではないので、気付いているかいないか、の差です。

自分がいることで、相手(ここでは会社としますが)にどんな価値を提供できるか?その思考の人には自然と【Why】が生まれてくるはずです。一方、労働力を提供していると考えている人には【Why】は生まれにくい。なぜなら、首から下「動かす手足」を提供しているに過ぎず、やることは上が考えて降ってくるものだと思っているため、です。

首から上も下もなく、全身を使って「価値を生む」こと=労働、という思考になっていかないと、いつまで経っても“めんどくさい”を克服できません。お気付きかもしれませんが、この方たちが“めんどくさい”と感じるときって、手足(労働力)以外の部分を求められているときなんです。

在宅ワークで淘汰が進む

満員電車に乗って、出社をして、労働力を提供して、帰宅する。企業が必要なのは「人」ではなく、「人手」。労働集約型の世界はそうして回っていました。一ヶ所に集まって、「人手」として管理される。管理する側もされる側もとてもラクです。

そして、今年。コロナによって否応なく状況が変わりました。在宅での業務へ切り替わった会社も多くあったと思います。表面上は「自宅で仕事をする」という事象の変化でしかありません。でも、大きく変わった本丸はそこじゃない。

どこで仕事をしていても、自己のミッションの達成によって「価値を提供している」と証明することが「労働」の定義へと変化している。ここの文脈に気付けている人は、恐らく明確に【Why】を意識し始めていると思うんですね。

自分は今日一日で、どれだけのバリューを生めたか?ということが、仕事をしたかどうかと同義になります。それを上げるためにはどうすべきか?同じ場所に上司も同僚もいなければ、なおさら自己でバリューの上げ方を思考するしかない。要するに「めんどくさい」が上位に来ている人は淘汰の対象になっていきます。

with めんどくさい

…と、職場に準えて書いてきましたが、ワタシ自身とて全く高尚な人間ではありませんゆえ。「めんどくさい」の波は必ずやってきます。子どもたちの相手をすることも、人間関係も、人付き合いも面倒だと感じることもあります。「いや、そんなわけない」といくら否定しても、感じるものは仕方ない。要は、人間誰しも「めんどくさい」という感情を無にすることもまたできない訳です。

「克服する」と前述しましたが、それは無にすることとはまた別だと思っています。言うなれば、“with めんどくさい”と考えて共生するより他ない。その感情自体は否定しようがないですから。

詰まるところ、めんどくさいと感じる原因を客観視して、観察して、なるべく論理的にめんどくさいの原因と向き合うようにしています。疲労や集中力の問題なら休む、興味や関心の問題なら一旦興味のある方面に手を付けるetc…といった感じです。

程度の差はあれど怠惰さは人間誰しもにあることで。それを乗りこなすのか、飲み込まれるのか。決めるのは自分自身でしかありません。特に労働の場面では“めんどくさい”という病が致命傷になる時代がやってきます。どうやって自分の中の“それ”と付き合っていくのか、コントロールの仕方を知っておく(または決めておく)ことが肝要かもしれません。

ただし、完治は無理なのであしからず。


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