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【短編小説】 寝過ごす者をゆらすこと (1900字)

「力になりたい」

 二段ベッドの上、布団を被り潜んだ。部屋にいる誰もが僕がここにいると知っていた筈だが、誰も気に留めない。この存在は二つの耳となり、布団の外、形作られる不格好な曲線だった。

 隠れる感覚に幼少期から親しんだ。誰かは見つけてくれる。だからこそ自由。世界の内外、そこはいつも母だった。

 母の一言で兄は一層、閉じ籠った気配を感じる。二人の息づかいを間接に想像する。母はいつもの表情をするだろう。見据える視線、口許には少しの笑み。真正面、母の強さだ。
 病める時も健やかなる時も、彼女は前を向いていた。あの季節から多く時間が経ったからこそ、かけがえの無さを知る。

 兄は何を見ていただろう。遠く現実を見ただろうか。自らは何をも干渉できず、一方的に自らを定義し、行く方を限定し、決定していく側の現実。彼に逃げ場はなかった。気持ちは痛いほど分かる。追体験するのが弟の定めだった。

 なぜも、どうしても、要らない。
 薄い暗闇で思う。まるで誰かの体内で。

「決められたことだ、全て。ここにいるのも、誰にとっての誰かなのも。今ある人間関係とやらも、今日も明日も、今は」

 惨めな思いは、僕自身が過ごす思春期の通奏低音だ。それでもベッドの上の暖かみを感じた。三人でいることを言葉にせずに感じた。これが随分、忘れたい過去になろうとも良い。弱さを寄り添った日と記憶する。

 居間から歌が聞こえた。遠い国の歌。
 逃げられない現実。
 僕が死んでも歌は残り、
 恋する人の鼓膜さえ揺らすかもしれない。

 消え行く時間だけはある。13才、自分が最も不確かな存在。

「行きたい所とかない?」
 優しい声。兄に対して勿体ないと感じた。
 ここにいたくない、と言うだろうか。
「ツタヤとか」
 人の集まる場所は大丈夫か、と少し驚く。

「アキは?欲しい本とかないの?」
 母は本を読まない。いつも人の話をよく聞く人だった。
「まだ図書館にある」と僕は伝える。
「雑誌は?」
 ごみになるだけだ、僕の興味関心なんて。
 だが、うまく言葉にできない。

 行きたくない、とは言わなかったし、母も訊かなかった。ましてや、兄は何も言わなかった。

「美味しいもの食べよう」
 母は諦めず音頭を取る。
 呼応するものはいないと思われた。

 いつもの想像。兄は僕がいないと、もっと違う風だろうか。違う人生を生きてた?
 もっと尊厳のある、自由な誰か。

 漠然とした美味しいものは何を意味するだろう。「ねえ、アキ」布団からやっと顔を出す。もう子供ではなく。

「マックとか」と僕は提案する。
 三人で行った。むしろ幸福な思い出。
「行かない」
 僕は彼を見た。兄と言葉のキャッチボールをするのは久しぶりだ。

 目を逸らした。兄は僕を見なかった。見て欲しかったんだとその夜、眠りに就く時に気付いた。少し、名前の知らない感情に襲われた。

「かえでパンのカフェは?」
 母はいつも適切な提案をする。言われてみると妥協点であり、選択肢における最高点の気がするから不思議なものだ。兄は何も言わない。僕も言わなかった。

 感じた空気は、親密の気もしたし、無色透明のようにも、果てしなく濁ってもいた。蒸し暑い初夏の夜。真夏の夜の夢と言い切れたら、どんなに幸せだろう。明日も続くことは経験上、分かっていた。

 普段だって日々を憂うことは簡単に出来た。それだけ大人になった。
 それでも当時は物凄い迷路に嵌まり込んだ気がした。人間関係の、現在の立ち位置の、将来の進路の答えもない問題。どれも見定められないし、選択さえ出来ずにぬかるむ。

 午前、2時38分の記憶。
 何分か前に起きた。どれだけ夜にいたのかは分からない。一人きりではない。引き裂かれる思いも感じない。自分自身を感じ、誰も一人だと知った。

 兄の歌声だった。言葉にならないメロディー。明日を知らない音の連鎖。つまるところ僕はそれを追う二つの耳であり、一つの存在だった。

 知ったメロディーではない。だが、素人が作る平板な音楽でもなく。抑揚があり、展開があり、構成があった。複雑さが簡易な鼻唄から聞こえた。こんな音楽を常日頃、聴いていたのかと納得する。僕の知らぬところで、彼は経験を積み、音楽を重ねる。誰のためにも、誰に感心されなくても。
 これが兄だ。

 豊かな世界にいる、と僕は感じた。調べは長くは続かない。それで良かった。良い季節はいつでもリフレインするのだ。これが歌の役目だし、僕は笑った。
 今でも笑っている。

 今も、僕の知り得ぬ世界で彼は過ごす。時に、兄が鼻唄混じりで日々を過ごすことを願う。取りあえず、この文書が僕にとっての今日の歌だ。
 

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