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お母さんにしかなれない

  「結婚して家庭に入ることだけが女性の幸せとは限らない」
大好きだった父の言葉です。私がどれだけ父のことが好きだったかというと、母の存在が邪魔だと思うくらいでした。父はすごい人なんだと疑わなかったのは、母がいつも誉めていたからだということに気がついたのは、随分大人になってからでした。

今考えるといい時代だったと思いますが、昭和という時代のお母さんといえば、ワイドショーを見ながら、横になってせんべいを食べている、というイメージがありました。また、私が学生時代にアルバイトをしていたファミリーレストランには、昼間だというのにお母さんたちが集まって、何時間も誰かの悪口を言い合っていることがありました。父の言葉を妄信していたわけではなくて、仕事も持たずに狭い世界の中で無駄な時間を過ごす女たちの姿に辟易し、こんな風にだけはなりたくないと思っていたのです。

生涯を通して働くつもりだった私は、真剣に就職活動をしました。
新卒で採用されたのは、仕事内容や条件に男女の差別がないという「総合職」で、大手の建設会社でした。同期の男の子たちが入社後まもなく現場に出て、知識と経験を積んでいる中、女性はずっとオフィスで図面や仕様書を読んでいる状況で、私はとても苛立ちました。大学を卒業するまで、私は自分の性別など意識したことはありませんでした。でも、社会に出たら突然「女の子」と呼ばれ、「女の子」として一括りにされることは不愉快でした。やらせてくれさえすれば何だってできる、そう思って、現場に出たいと上司に言ってみたら、
   「女の子のトイレがないんだよね。更衣室もない」
という答えが返ってきて落胆しました。また、
   「この仕事を引き受けてもマイナスにしかならないんだよねえ」
と職務の大変さを甘えた目で訴える上司の、
  「あなたの言うことはもっともなんだけど、色々あって断れないんだよ」なんていう言葉には、到底納得できませんでした。旧態依然とした業界で、    
 「開拓者としてあなたが女性の道を切り開いてみなさい」
などと言われても、そんな不確実なことに私の貴重な時間を費やすわけにはいきません。当時の私は同期や友人と比べて、とにかく焦っていました。

結局その会社は辞めました。
建設業界では女がキャリアを積むのは難しそうだと、メーカーに転職しました。ある時、アジアの顧客が集まることがありました。貿易部の私には、彼らをディズニーランドに連れて行ったり、食事会に招待するなどという役が回ってきました。電話やファックスでしかやりとりをしたことのない人たちと直接会って、慣れない英語であたふたと立ち回りながら案内するのはとても楽しい仕事でした。

そんな中、驚くことがあったんです。
私がちょっと席を外して戻ってみたら、彼らが互いに中国語で会話をしていたのです。色々な国から来ていたのですが、みな中華系の人たちだったんですね。中国語ができれば、こんなにたくさんの国の人と渡り合えるんだと気づいて、中国留学を考え始めました。

私にはコンプレックスがありました。それは英語です。英語は好きで学校では得意な方でしたが、英語圏で生活したことがありません。例えば、会社の製品を輸出する際、英語で名前をつける必要があったのですが、どうしたらいいのか全くアイディアが浮かびませんでした。膀胱などの炎症薬、小林製薬の「ボーコレン」や、水を含ませて軽くこするだけで、茶渋や水垢を落とす洗浄スポンジ、レックの「激落ちくん」のように、分かりやすくて覚えやすくて、ちょっと面白くてかつ目立つネーミングをつけるセンスを、私は持ち合わせていません。貿易英語については週末講座に通ったりしてどうにか追いつけても、このセンスについてはどうにもできなそうでした。男性より何か秀でたものがないと勝ち抜けないビジネス現場で暗中模索していた私は、中国に留学する決意をしました。27歳になってすぐの事でした。

中国語を勉強してしばらく経って、自分はビジネスで中国語を使いたいのだから、仕事で使える中国語を身につけなければならないと思い、働き口を探しました。そして、学校に通いながらローカルの下着工場に出入りするようになりました。当時の中国ではブラジャーを買う人はあまりいませんでしたから、商品を売るために、「ブラジャーをつけるとスタイルが良くなる」というポスターを作ったりしました。でも、「良いスタイル」が何たるかを啓蒙することから始めなければなりませんでした。商品を宣伝するためのモデルを探すのも簡単ではありません。下着姿の写真を撮らせてくれて、それを広く掲示してもかまわない、という人はなかなかおらず、飲み屋のおねえさんくらいしか協力者はいないと言う業者に任せていたら、床にペタンと座って上目遣いでしなをつくる、どこか艶めかしい画になってしまうのでした。

29歳を過ぎ、日本での自分の市場価値がどれくらいあるのか試してみたくなって、一時帰国し就職活動をしてみることにしました。意外なことにたくさん内定がもらえました。中国人と働いた経験を評価してくれたそうです。

再就職先に選んだのは、大きな会社の中国と関係のある部署でした。しばらくして、上司がステキな場所でお寿司をごちそうしてくれました。そして私にこう言いました。
 「大きなプロジェクトがある。あなたに頑張ってもらいたい。だから5年は結婚しないでほしい」
当時私は30歳だったので、結婚して子どもができて、途中で辞めてしまうことを心配したのでしょう。ようやく面白い仕事ができるようになった、チャンスが舞い降りてきたというのに、「子どもが欲しいわけではないけれど、子どもを持たない人生を選ぶ決断もできない」と悩むことになりました。

悩んでもすぐに答えは出ません。このままでは仕事に集中できないので、 まず子どもを産んでしまおうと決めました。結婚をし、すぐに出産しました。数年してまた産むとゼロからやり直しになるので、立て続けに二人目を産みました。年子の男の子二人と一日中家にいる日々がはじまり、生活が一変しました。うさぎさんやタヌキさんが身近になり、おなかがポーン、車がビューン、なんていう擬態語ばかりの世界になりました。出かけたくないと言っては泣き、帰りたくないと言っては泣く子を相手に、すべてが計画通りになりませんでした。想像していた以上に子どもの成長は遅く、お母さんにしかなれないことに私は焦るばかりでした。「家庭に入らない幸せなんて漠然としたことを言ってほしくなかった」「女に最も大事なのは愛嬌だと教えてくれればよかった」そう親を恨んだりしました。
 

当時は苦しかったけれど、今考えてみれば、それでもやりようはあったんじゃないかなと思います。図面の中の溶接個所を数えながらでも、港のパンフレットを整理しながらでも、それぞれの場面で、もっと俯瞰して観ることもできた。そこから何かを読み取ることもできたかもしれない。お茶を毎朝配るのが嫌だったけれど、会話を交わすチャンスと思えば、何気ない交流から信用を得て、次の一手をつかむこともできたかもしれなかった。仕事が大変だと嘆いて甘える男性上司に対しても、寛容に微笑んであげればよかったと思います。仲間というものは、そうやって作っていくものだと、今なら理解できます。

お母さんにしかなれないことを私は恐れていましたが、お母さんにはなれたことで、当時のことをそう思えるんだと思います。私はまだ人生の途中で、挑戦は続きますが、お母さんという経歴を活かして、私の道を開拓していこうと思っています。





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