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【短編小説 丘の上に吹いた風 7】旅立ち

7.旅立ち

一服するから、ちと待っとれ」
ようやく戻ってきた地蔵菩薩に促され、陽太と美月は地蔵堂の前に座った。
せっかく水守が供えてくれたのだから無駄にはできんと、地蔵菩薩はピンクのすあまをびよんと伸ばして嚙みきり、茶で飲み下した。
「お地蔵様って、毎日ここにいなくて大丈夫なの?」
「陽太は心配性じゃな。水守が供え物を持ってくるのは週に一度じゃ。その時におれば何の問題もない。たまにはあんのない菓子もいいものじゃのう」
地蔵菩薩はまた一口茶をすすり、ほうっと息をつくと、今度は白いすあまを食べ始めた。
呑気な地蔵菩薩を見ているうちに、陽太のはやる気持ちは不思議とどこかへ消えていった。
地蔵菩薩は二つ目のすあまを食べ終えると、湯飲み茶碗を茶托ちゃたくに戻して陽太と美月に向き直った。
手筈てはずは整った。わしが連れていってやろう。よっこらやっこら」
「またそれ持ってくの?」
脇に置いていた宝珠ほうじゅ錫杖しゃくじょうを手に取る地蔵菩薩に美月が聞いた。
「そうじゃった、そうじゃった。今回は置いていかねばな。なにしろお前たちの手を引かねばならんからのう」
地蔵菩薩は壁に錫杖を立てかけ、宝珠をその脇に置いた。
「ほれ、つかまりなさい」
陽太と美月は差し出された手を取った。
地蔵菩薩のこんにゃく色の手はぬるっとしてもいなければ、石のように冷たくも硬くもなかった。
「しっかりつかまっておれ」
陽太はきゅっと口を引き結び、地蔵菩薩の手を強く握った。美月を見ると、両手で地蔵菩薩の手を握っている。
「いざ!」
地蔵菩薩のかけ声で両足がふわりと浮いたかと思うと、あたりの景色がひゅんひゅんと過ぎ始めた。
「僕達飛んでるの?」
「ああそうじゃ。久々じゃのう、この感覚は」
地蔵菩薩は、はっはと笑った。
「最後にもう一度、みなの顔を見ていくとしよう」
言い終わらぬうちに、すぐに丘に着いた。
梅の木陰のベンチにはいつものように大島と会田が座っていた。腕を組んで何か考え込むように眉間にしわを寄せる大島の横で、会田が大きく伸びをしている。
「大島さん達、また困ってるね」
「それもどうにかなるものじゃ。次はホスピスじゃな」
丘を越えるとすぐにホスピスの屋根が見えた。
庭の池には水が張られ、三田と薗が睡蓮の鉢植えを据えているところだった。ちょうど庭の池の真上を通り抜けた時、何かに気づいたかのように薗がふと空を見上げた。
陽太の目の端に、水守の軽トラックがホスピスに向かう道をゆっくり進むのが見えた。荷台には大きなかめが括られていた。水面がたぽたぽと揺れるたびに赤と白の金魚はぴんぴん泳ぎ、メダカは水草に隠れあたりをきょろきょろとうかがっていた。
「池で泳ぐ金魚、見たかったな」
「お薗さん、こっち見てた」
陽太がぽつりと言うと、美月は薗を目で追った。
「前を見なさい。振り向いても揺れるだけじゃ」
何度もホスピスを振り返る陽太と美月の気持ちを振り切るように、地蔵菩薩は速度を上げた。
「次は陽太の家じゃ。むん!」
「わっ!」
急に進路を変えた地蔵菩薩に投げ出されそうになり、陽太と美月は必死にしがみついた。
地蔵菩薩は涼し気な顔で山道に沿ってくねくね進んだ。しばらくすると視界が開け、山間やまあいに広がる街が見えてきた。
「あれじゃな?」
陽太の家を見つけると、地蔵菩薩は速度を落とした。
父親の清は庭で水をやり、母親の夕子は縁側で編み物をしている。
「なんか、大丈夫そうだよ」
「そうじゃろうて。最後は美月の番じゃな」
今は家にはいないようじゃからと、地蔵菩薩はまたくるりと方向を変え、街から離れ始めた。
民家が数軒ある辺りにさしかかると、木々に囲まれた寺の境内が見えてきた。
「私のお墓だ」
寺の脇の四角く区切られたねずみ色の一帯に動く人影があった。
幼い妹を抱く父親の朝一と、何か話しながら供花を入れ替える母親の可澄だった。
「ああしてしょっちゅうお前と話をしておるのじゃよ」
「私、ここにいるのに?」
「会っている心持ちになっておるのじゃ。悪いことではなかろう? 寄るか?」
「ううん。ここでいい」
地蔵菩薩はうむとうなずき、緩めていた速度を上げ、今度は真上に昇り始めた。
「どこまで昇るの?」
「言ったじゃろ? あの世までじゃ。まあ、その一歩手前とも言うがのう」
「怖い所?」
「心配するでない。行けばわかる」
また手を強く握り直した陽太と美月に地蔵菩薩はにっと笑い、更に加速した。
目の前に大きな白い雲が現れた。
その中にぼっと入ったかと思うとあっという間にそれも終わり、一面見たこともないほどの青空になった。
耳元でびゅうびゅうと唸っていた風も、ぱたぱたとはためく地蔵菩薩のころもの音も静かになっていた。
長いこと真っ青が続いたが、重々しい灰色の雲がいくつも見えてきた。
「じきに着く」
地蔵菩薩は徐々に速度を緩め、一際ひときわぶ厚い灰色の雲に突っ込んだ。
「違う」
言うや否や、別の雲に飛び込んだ。
「これも違う」
あっという間にその雲からも抜け出して、その隣の雲に潜り込んだ。
陽太と美月は目がまわり、ぱちぱちと目をしばたかせた。
「これじゃ、これじゃ。分かりにくくてのう」
地蔵菩薩は目当ての雲を見つけたのか、今度はひたすらその中を前に前に進んだ。
しばらくすると雲が切れ、眼下に大きな川が見えた。
「川の上を飛んでいたの?」
「いかにも! さて降りるとしよう。ここまで来れば、嫌なものを見なくて済むじゃろう」
地蔵菩薩は川に沿って伸びる道の脇に降り立った。
陽太と美月も後に続いた。
「ほぅ、ちと息があがったな。こんなに飛んだのはいつ振りじゃろう」
「曇ってるんだね」
「今日はそうでもない」
立ちこめる深い霧に目を凝らすと、道の先を歩いている人が何人かみえた。振り向くと後ろからやってくる人もいる。皆そろいの白い着物を着てとぼとぼと歩き、誰も陽太達に気づいていないようだった。
きりは時に便利でのう。色々と隠してくれるのじゃ」
不安になった陽太を察したのか、地蔵菩薩はほっほと笑った。
「これなに?」
いつの間にか白い着物姿になった美月が、たもとを引っ張って地蔵菩薩にみせた。陽太は自分も白い着物を着ていることに気づいた。
白装束しろそうぞくと言うものじゃ。まあ、作法とでも言うのかのう」
「裸足で歩くの?」
陽太は足の裏についた小砂利こじゃりをもう一方の足の甲にこすりつけて落とした。
そでの中を見てみなさい。足袋たび草履ぞうりを持たされておるはずじゃ」
たもとの中をまさぐると何かが手に当たった。引っ張り出すとまっさらな白足袋と草履だった。
地蔵菩薩に教えられながら足袋と草履をはき、陽太と美月は地蔵菩薩に向き直った。
「さあ、行きなさい。手をつないでな。じきに橋が見えてくる」
「そしたら?」
「あとはなるようになる」
「うん、わかった。お地蔵様ありがとう」
陽太と美月はお辞儀をし、真っ直ぐに伸びる道の先を見据えた。見据えた先は霧が立ちこめ、少し先もはっきりは見えなかった。
「ほれ」
二人の背中を地蔵菩薩がぽんと押した。
「じゃあ、行こう」
陽太は美月の手を取り、一歩踏み出した。
美月も一歩踏み出した。
一歩一歩進むうちに、歩いていた頃の感覚が戻ってきた。
「ふり向くでない。揺れるだけじゃ」
そう言いながら地蔵菩薩も、何度も振り返る陽太と美月にずっと手を振り続けていた。
時々大きなあぶくをぼこんぼこんと吐きながら滔々とうとうと流れていた川の水がゆったりとしてきた。霧も薄くなり、あたりの景色も見え始めた。
「陽太、見て!」
赤く霞む何かが見えた。
「橋だ!」
弓なりの赤い橋は一面に金銀の吉祥模様きっしょうもんようをまとい、その間を縫うようにして大きな龍と鳳凰ほうおうらしき鳥が施されていた。
「ねえ美月、足痛くない?」
「平気」
「僕、ちょっと痛い」
美月が笑った。
陽太はつないだ手をぶんぶん振り、早足になった。
橋の手前まで来ると、紺色の法被はっぴを羽織った男が縁台に座っていた。休憩でもしているのか煙管きせるの煙で輪っかを作り、ぽっぽと空に送り出している。
「こんにちは。僕、陽太。こっちは美月」
「お前さん達がそうかい。話は聞いてるぜ」
にかっと笑った男の両眉は赤い橋と同じ様な弧を描いた。
「ちょいと待ってな」
煙管を灰皿にぶつけて灰を落とし、ひょいと河原へ降りると、男は川岸にどしりと構える大きな木に向かって歩いて行った。
四方に張り出す枝が地面に届きそうなほど垂れた木の下に、動く人影が二つ見えた。
空には黒を帯びた鼠色の雲が低く垂れこめ、川は濁った水をゆっくり運んでいた。赤い橋の金銀の飾りは、まるで意思を持つかの様に時々ぎらりと光った。
それでも陽太は何も怖くなかった。


潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)