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露西亜の蟹[小説]

 露西亜の蟹 原稿用紙20枚

 上から見ると地図通りの形をした北海道、飛行機が着陸して空港に出ると、エントランスに見覚えがある。旅行で数回しか来ていない場所でも、記憶には残っている。今から会う幼馴染と面と向かうのは何年かぶりだった。時間調整でお土産屋さんに入ると、蟹の模型がある。昔、蟹をいくらでも食べられる旅館に泊った。年上の彼氏はよく私を旅行に連れて行った。彼とは色々な場所に一緒に向かった。金沢の兼六園を見た後に、泊まった旅館で蟹を食べた。彼は蟹の身をほぐして、私にと小皿に取り分けてくれた。二十歳の年の差である。父の姿を彼に重ねる時もあったが、彼とどこかに泊ったときは、必ず性行為を求められた。
 その男との思い出は、何年も前のものである。蟹の模型の隣にはたこの模型、その横にはさめの模型。お土産は見ているだけで楽しいものだ。そうこうしていると待ち合わせの時間になった。お店を出てエスカレーターに乗ると、遠くに万谷鳥子が見える。万谷さんはワンピースを着ている。私たちの通った中学、高校はともワンピースの制服だった。私と万谷さんは長い時間を二人で過ごしていた。
 万谷さんがこちらに手を振る。私はエスカレーターから降りると駆けて、彼女の目の前に来た。
「久しぶり、もう何年も前だよね、会ったの」
 万谷さんは色が白く、身体が細いので弱弱しいが、裏腹に運動が得意で、体育大会のバスケットボールで何度もスリーポイントシュートを決めていた。
「本当に久しぶり」
 空港にあるカレー屋で昼食を摂ると、バスに乗り彼女が住むアパートへ向かった。二部屋あるから、一部屋私が使ってもいい、掃除しておいたから清潔だと、万谷さんが言う。バスの外には知らない景色が映る。民家が少なく、不安になる。
 降りたバス停では私たち以外に、降りる人はいなかった。そこからしばらく歩いて着いたのは、綺麗なアパートでだった。
「しばらくここに泊っていいよ」
 階段を上り着いた部屋は、こざっぱりしてる。私は今日だけここで休ませてもらい、明日以降は駅前のネットカフェに泊りながら、アパートを探す予定にしていたのでありがたい。
「いいの。悪いから約束通り、今日だけでいいよ」
「何よ、泊りなよ」
 万谷さんは座布団を私の前に置いた。そこに座ると中身の綿に硬さがある。新しいものらしい。
「じゃあ、そうしようかな」
 万谷さんは嬉しそうだった。暮らして二週間経つと、二人で過ごす生活に慣れて、飽き始めた。私は親の仕送りで生活していた。万谷さんには貯金を切り崩していると説明したので、ある日、
「お金で困ったら話してね、貸せないけど、役所とかには一緒に行けるから」
 と冗談っぽく万谷さんは私に言う。
「実は、親に仕送りもらってるの。だから困ることはないわ」
「なら、いいんだけど」
 私はその日以降、歩いてすぐそこにある、職業安定所に通うようになった。職員になんでもいいから仕事を探していると伝えると、
「家から近くの場所で、警備員の募集がありますね。女性の採用実績もありますし、応募してみてはどうですか?」
 私はその職員のいう通り応募したら、採用されて働くことになった。
 それを万谷さんに伝えると、
「そう、よかったわね。お弁当作ってあげるよ」
 万谷さんは障害者福祉施設で、調理や盛り付けをしている。その余りを持ち帰り、私に食べさせてくれていた。
 数日して初出勤の日、万谷さんは弁当を私に持たせた。食費が浮くのでありがたい。商業施設は家から自転車ですぐだった。施設内を歩いて、何かあったら報告する、ということだか、
「実際はすることない、ただ歩いてるだけ」
 勤めて何十年という副社長が私にそう言った。この人は何十年も、この施設内をうろうろしているということである。
 昼休憩、事務所に併設されている休憩室で弁当を食べた。万谷さんが作ってくれたものだが、彼女が職場から持ち帰った余り物を、容器に詰めたのみである。
「弁当、自分で作ったの?」
 前に座る社員が聞いた。
「はい、そうです」
 私は万谷さんとの関係を話すのが面倒で、適当な返事をした。
「自分に頑張れって、面白いね」
 白米の上に乗せられた海苔は、カタカナで「ガンバレ」と表していた。
「はい、初日だったから」
 その日の仕事を終えた後、商業施設の中にある事務所で副社長に聞いた。話しかけてきた男は井野口寿史という名らしい。入社して三年ぐらいで、人付き合いが悪いと副社長が称していた。
「でも、悪い奴じゃない。真っ当だよ、それに大真面目で嘘つけない」
 副社長はにやけてならがそう、そう教えてくれた。
 定時が来て、帰宅すると夕食が準備してある。
「これじゃ、新婚の夫婦みたいだね」
 万谷さんは中学一年の四月に、私がいたクラスに転入してきた。担任の先生に仲良くしてあげて、と頼まれたので、放課後の学童クラブで一緒にかるたをした。スーパーボールを投げて遊んだり、けん玉の練習を一緒にしたりした。
「うん、なんか変」
 夕食を食べ終えたら、私が片付けをする。なんとなく決まったルールだった。万谷さんの持ち帰った食事にお世話になることも多く、私は片付けをすることに不満はなかった。万谷さんはアクセサリーを作るのが得意らしく、ネットで通販をしているとこの前聞いた。テレビを見ながら手芸に勤しむ万谷さん。今の暮らしには、人間らしい生活を楽しむ、余りのような部分があった。その時間に彼女は、きらびやかな装飾品を作るわけである。私は皿洗いが終わると、何もすることがない。テレビ台には蟹の模型がある。北海道へ来た時に土産物店で見たものと同じものだった。万谷さんは部屋にものをほとんど置いていない。昔、かばんや服、お土産の小物を増やしすぎて、処分に困ったからだと、部屋に来たばかりの時に教えてくれた。
「ねえ、職場どうだったの?」
 私は万谷さんに職場で起きたことを喋った。母と話しているみたいだった。

 ◆

 井野口寿史がよく話しかけてくる。モテるのはいくつになっても悪い気分ではないものだ。ある日、帰り際に夕食に誘われて、迷ったが彼についていくことにした。万谷さんの家とは逆の方向へ進み、到着した店は綺麗な蕎麦屋だった。そこで色々井野口さんの話を聞いた。食べ終えると店を出て、彼にまた明日と別の道を進んだ。一人で歩きながら、会話の内容を思い返した。彼が三人兄弟の三男である。大学に七年間通って卒業した。私よりも五歳年上である。自宅に着くと万谷さんが手芸をしている。
「あ、帰りました」
 私の発言で、顔を私に向けた万谷さん。
「ねえ、他には?」
 井野口さんと夕食へ向かう前に、帰るのが遅れます、とメッセージで伝えた。
「なんで遅れたの?急に困るよ」
 同じ理由で、高校生の頃よく怒られた。
「ごはん作ったのにさあ」
 私が万谷さんの立場なら、同じような感情になるだろう。どうすれば彼女の機嫌が直るのか。
「実は、男性に食事に誘われたのよ」
「え、そうなの」
 万谷さんが机に並べているのは、肉じゃがである。それにごはんと豚汁、キャベツのサラダ。
「それならしょうがないかあ」
 万谷さんと恋愛の話をすることがなかった。万谷さんに恋愛経験があると思えない。その彼女に、恋人はいるのかと話を振るのは、気が引けるわけである。
「じゃあごはん、明日のお昼にするね」
 万谷さんは食器を片付け始めた。私はそのまま浴室に向かった。
 翌日、万谷さんが持たせてくれた弁当を職場で開くと、海苔で「イロイロガンバレ」と表記してあった。

 ◆

 宗谷岬から帰る途中の車の中で、井野口さんに交際しないかと伝えられ、私は承諾した。井野口さんと出かけるのは三回目である。二度目は札幌で蟹を食べた。彼は蟹の身をほぐしてはくれなかった。商業ビルの二階にあるお店に入り、半個室でふたり向き合った。私たちはその時点で打ち解けていたが、女性と同居していると彼に言えていなかった。私はそれに後ろめたさを感じており、今回、絶対に話すと心に決めていた。
 蟹が運ばれてきた。トレイにはさみ等、蟹の身をほぐす道具が二人分載っている。井野口さんは私に蟹の身を剥く道具を差し出した。私はそれらを手に取って、蟹の脚を取り、自分で殻から身を剥がした。井野口さんは素早く脚一本剥き、それを二人の真ん中に置かれた鍋に、数秒間曝した。しゃぶしゃぶである。半透明だった蟹の身は、湯に浸かると白濁色に変わった。彼はその身をぽん酢につけたのち、自らの口に運んだ。
「あー美味しい」
 井野口さんが言った。私は蟹の身を剥けないでいるのに、彼は私そっちのけで蟹を食べている。
「この蟹って、どこの海で採ったんだろ?北海道じゃなくて、ロシアの海だったりするのかな?日本の海で採ってても、ロシアから移動してきてたら、ロシアの蟹だよね。そうだったら、面白いね」
 生の蟹の身を、鍋の中の湯に浸ける井野口さん。
「何が面白いのよ」
「なんか、日本じゃなくて、外国だったら面白くない?そういう感じがする」
 彼は熱心に蟹の身を殻からはがしていた。二週間前の話である。
 私は今、助手席にいる。井野口さんは運転席でハンドルを握っている。
「こっからちょっと長いよ、寝ててもいいよ」
 彼は昔、トラックドライバーだったらしい。朝に出て昼、目的地について、そこから帰ると夜である。確かに宗谷岬に行ってみたいと話したことがあったが遠すぎる。車で何時間もかけていく価値のある場所だとは感じられなかった。
 しばらくして、休憩とコンビニに車を停めた。お店の中に入り、彼はお手洗いへ向かった。私は少しだけ買い物をして、店の外で待っていると、遠くまで建物が見えないと気が付いた。今住んでいる場所も、何もないと感じたものだが、この付近は本当に何もない。何もない。そう考えると恐怖を感じた。私は宇宙空間に投げ出されたような気になった。背中がすっと寒くなった。気温が低いから寒いわけではない。身体の中から寒くなっている。私は助手席に戻り飲み物を飲んだ。寒気は戻らず、苦しさは増す。心拍数が増して気が狂いそうになる。コンビニ以外、何もないここで、おかしくなってしまったら、救急車が来る前に窒息してしまうだろう。落ち着こうと助手席から景色を見ると地平線が見えて、より恐ろしくなった。扉が開いて彼が車に入る。
「これ珍しいよ。カニカマの唐揚げだって」
 目の前の揚げ物が、ホットスナックのコーナーに、それが置かれているのを私も見た。美味しそうだと思ったが、胸やけがしそうなので買わないでおいた。
「一個あげるよ」
 井野口さんが揚げ物用の紙袋の、上部半分を開け、中身を私に向けたが、私は上半身や腕にしびれを感じて、それを受け取れない。
「あれ、いらないの?」
 吐き気もする。寒気がする。井野口さんはカニカマの唐揚げを再び揚げ物用の袋へしまった。
「大丈夫?」
 そう言い、私の手を握る井野口さん。
「車酔いかも。もう少し休もうか」
 彼は後部座席にある、かばんを膝の上に乗せた。チャックを開けて中をあさり、小袋を出した。そこから出るのは白と青の、小さい箱だった。
「これ、ロキソニン。治るかも」
 同じものを私も持っている。私は自分の肩掛け鞄からロキソニンを出して飲んだ。すると眠くなった。車が走り出した。道中何度か目が覚めたが、うとうとしてすぐにまた眠った。
「もう着いたよ」
 彼の呼びかけで目が開いた。よく見た街並みが窓の外にある。ロキソニンを飲む前の恐怖感は、完全に過ぎ去っていた。彼が自宅まで送ると言ってくれたが、駅前で降ろしてと伝えた。私はバスターミナルで車から降り、ベンチに座った。
 宗谷岬で何をしたかというと、ロシアの方を向いて井野口さんと話した。その時初めて彼に、万谷さんと二人で暮らしていると伝えた。彼は特に驚くわけでもなく、
「友達となら、寂しくならなさそうでいいね」
 と私に言う。どうして私は、万谷さんと二人暮らしをしているということを、彼に隠そうとしてしまったのだろう。全くやましいことはないわけである。
 夜中であり疲れている。万谷さんがいる家に、真っ直ぐ帰る気になれなかった。街といえど栄えているわけではない。立ち上がり向かうのはイオンである。そこ以外にどこへ行けばいいのかわからない。建物に入ると中をぐるぐる回った。疲れているのに歩けはする。勤めている商業施設よりも広い。いくら歩いても、時間は過ぎてくれなかった。
 イオンシネマの前に着いていたので、足を踏み入れると、部落問題を扱うドキュメンタリー映画の宣伝が目に入った。私の家の近所には、過去に、部落飛ばれる地域があったのは知っていた。
 中に入り、チケットを買い席に着いた。がらがらである。私以外の客は全員老人だった。映画が始まると、私の暮らしている地域近隣の、古い家々の映像が流れた。私が通ったことがある道や、見覚えがある公園が見える。ナレーションが話すには、映像の中の一帯は部落地域で、差別を受けていたらしかった。蟹の殻を砕いて、牧場や農場で利用する肥料を作る仕事をしていたので、においで嫌われて、街の端っこに追いやられていた、らしい。私は近くに住んでおきながら、そんな嫌な気持ちで生活している人たちに気を払うことなんてなかった。おそらく、井野口さんも、そんなこと知らないだろう。彼は、私より知識が少ないに違いなかった。
 映画が終わりスマホを見ると、万谷さんからメッセージが来ていた。
「何時に帰りますか。もうそろそろ眠るので、鍵を開けて部屋に入ってください。気を付けてくださいね、色々と笑」
 私は自分がこの先、どうしたいのかわからなかった。井野口さんと旅行へ行って、万谷さんと二人で暮らす。それが幸せなのかわからない。
 イオンを出て自宅へ向かう途中の道、飲み物を買おうとスーパーへ寄りると、生鮮コーナーに大きい蟹が一匹売ってあった。値段が高く手が出ない。三割引きされているが、それでも高い。北海道産とあるが、どの海で採れたのかは記載されいなかつた。オホーツク海で採れたのなら、ロシアで産まれて、北海道で網にかかったのかもしれない。そしたらこの蟹は、ロシアの蟹ということになるだろう。時間経過で傷んだらしく、色が悪くなっている。誰もこの蟹を買わないだろう。私はジュースを買って店を出た。道を歩きながら、万谷さんに今日の話をどう報告するか、考えていた。しかし、何もまとまらない。気持ちも落ち着かない。
 暮らしているアパートまで来ていた。万谷さんの部屋を目指して、階段を上がると太ももに疲れを感じる。いいわけなんてしなくても、そのまま出来事を話せばいいのではないのだろうか。何に悩んでいるのかわからなくなってきた。扉を開けて、リビングに入ると眠っている万谷さん。私は彼女の隣で眠った。起きると朝である。万谷さんは仕事へ出ていた。私は今日、休みだった。入浴を済ませるとパソコンを開き、ネットフリックスで映画を見た。しかし集中できない。井野口さんは、今日何をしているのだろう。
 私は昨日のお礼のメッセージを井野口さんへ送った。すぐに彼からの返信がきた。昨日の体調不良は大丈夫かと、心配してくれた。私は井野口さんを良い人だと思った。
 宅配便が来た。玄関へ向かい、荷物を受け取ると、万谷さんの名前が伝票にある。
 荷物を廊下に置いた。配達員から荷物を受け取った時、大きさの割に重かった。中身は何なのか。万谷さんはこの前、電気ケトルが欲しいと話していたので、それかもしれない。私は今日、まだ何も食べておらず、戸棚にある袋麺を調理しようかと考えていた。それには湯を沸かす必要がある。水を鍋に汲み、火にかけて少し待ち、沸騰したら麺の入った容器にその湯を入れる。こぼれないように気を配らなければならないのが嫌なので、電気ケトルを買ったのだ。万谷さんが。
 私は万谷さんと、同じ部屋に住んでいる。一緒に住んでいる仲で、万谷さんの荷物を開けるのは、ルール違反になるのだろうか。
 私はカッターナイフを持って、荷物の前に来た。電気ケトルで湯を沸かして、昼ごはんを食べるだけだ。カッターナイフの刃を出す時、チチチチと音が鳴った。小さい鳥の鳴き声のような音で、不思議と和やかな気持ちになる。私は刃を四角い段ボールのを止めているテープへ差し込んで封を開けた。中に入っていたのは手芸に使う、金属製の飾りだった。
 金属製の飾りを眺めて我に帰った。私は万谷さんの配達物の封を開いてしまった。とんでもないことをしてしまった。何で開けてしまったんだろう。袋麵を調理して食べた。開いた配達物を見た万谷さんは、私を信用できなくなるだろう。私はこの部屋から出て、一人暮らしを始めなければならないかもしれない。袋麺を食べながら色々考えていたが、井野口さんを誘って、二人で暮らすのもいいかもと結論を出した。結果オーライなのかもしれない。人生万事塞翁が馬、ということわざもある。もう万谷さんを怖がる必要もない。
 袋麺を食べ終えて洗い物を済ますと、テレビをつけた。そのまま時間が経った。扉が開く音がした。万谷さんだ。廊下を足音が進む。人生万事塞翁が馬、だから私は万谷さんに、部屋を出ろと言われるのも怖くない。
「ねえ、荷物開けた?」
 段ボールを持って部屋に踏み込み、私にそう言う万谷さん。
「うん」
「やめてよ、次、開けたら、あんたの荷物も勝手に開けるからね」
 そう怒って、中身の金属製の飾りを確認した。
「やっと来たわ。新しいやつ作れる」
 嬉しそうに飾りを見る万谷さん。案外、彼女は怒りに駆られていないようで、私は家を出なくてもよさそうだったが、それはそれでつまらなく感じた。<了>


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