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差別ではないもの・障害について

注意書き?

 この文章は、札幌学院大学2019年度後期の障害学における私の課題レポートを、一般向けに編纂したものです。少々の内輪話や、堅苦しいレポート向けの言葉遣いにご注意ください。ですが、本稿を読むにあたって、特別な専門知識などは必要ありませんので、気軽にお読みください。

はじめに

 差別とは、何なのだろうか。

 誰もが「差別は良くない」と考えている。

 しかし、その憎むべき対象は果たしてはっきりしているのだろうか。差別と区別の境界線はどう引かれればいいのだろうか。本稿では、札幌学院大学障害学第12講から13講にかけて深められた議論に基づき、差別の定義について考察する。

 障害学第12講の中では、三つの事柄に関してあることが問われた。まずその三つの事柄とは以下の通りである。

 (1)精神障害者は、原則として飛行機の搭乗はできません。

 (2)当社はマイカー通勤禁止であるため、車いす利用者もマイカー通勤は認めません。

 (3)バニラエアの対応(バニラ・エア熱海空港が、車いす利用者にタラップを自力で上らせたという事件について)。

 (1)と(2)に関しては仮定上の例え話である。実際にそれらが起こっているかは議論に関係していない。しかし、(3)は実際の案件なので読者にはネットニュースなどで軽く調べてから本稿を読むことを勧める。

 そして、講義では「これらの事柄は差別であるか」と問われた。この問いに際し、受講生の中でも意見は割れ、第13講でも様々な意見が見受けられた。教授は、概ね「差別である」という立場を取り、「差別ではない」とする学生の意見に反論していた。

 本当に、これら三つの事柄は差別なのだろうか。

 もしも差別ではないのだとしたら、何なのだろうか。本稿は、これらの事柄は差別では無く、不平等だと主張する。まず、次章から差別の定義について考察を始める。

差別⊂不平等

 差別の定義について、広辞苑では、差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこととある。では、上記の三つの事柄は、対応に差をつけて障害者を扱い、不当に扱ったものなのだろうか。

 扱いの差に関しては、差そのものが出ていることは明確であり、当てはまるようにも思われる。しかし、本当に差をつけて扱っているのだろうか。

 三つをよく読み解いてみると、差が出ているのは対応後の結果においてであり、対応自体に差はないといえるのではないだろうか。

 (1)の件においては、他の乗客の迷惑になる者は乗せられない、などの要件に基づいた対応と予測される。よって健常者であっても同様に、他の迷惑になる者の搭乗は認められないだろう。(2)では、社則は等しく健常者にも障害者にも適用されており、対応は平等である。(3)もタラップの上り方に関する安全規約に則った対応といえる。

 つまり、三事例ともそれぞれの法の下においては平等に扱われているのである。しかし、その結果として障害者だけ飛行機に乗れず、通勤に難を抱えている。差をつけて扱っているわけではないが、差が生じているのである。

 対応が不当か正当か、という視点から見るとどうだろうか。(1)や(3)の要件や規約は、乗客の安全を守るために綿密に考慮されたものであることは間違いないといえる。しかし、実際に起こった例である(3)に関しては、バニラ・エアの対応に対し、国の法の観点から批判が起こっている。障害者差別解消法により、(3)のような事態でも、「合理的配慮」が必要であるとされているのである。しかし、その配慮が何かは曖昧なものであり、現場では、その場の客室乗務員達の対応に委ねられていた。したがって、不当か正当かの線引きも必然的に曖昧になる。(2)の社則も、全うなものである。単純に駐車場が無いから車を置いておけないのだろう。

 もちろん、これら三つの事柄に関して、他にも違う対策、より良い対策を考える余地はあるが、これらの対応が不当であるとは言えないのではないだろうか。

 以上の考察により、上記の三つの事柄を、本稿は差別ではないと結論づける。では、差別ではないのならば、何なのだろうか。非意図的に差が生じている状態かつ、是正の余地がある状態。

 それは「不平等」であると言えるだろう。差別ではないが、不平等ではある。 

 このことは差別と不平等が完全な別物、ということを意味しない。本稿は、差別と不平等の関係を「差別⊂不平等」と位置づける。この記号は「不平等は差別を含む」という意味である。不平等の中に入れ子構造のように、差別が位置している。つまり、差別は全て不平等だが、不平等の全てが差別とは限らないのである。本稿の文面で分かりにくければ、部分集合などと調べれば図とともに解説されているので、参照することを勧める。しかし、本稿では差別ではない不平等の部分、つまり、不平等から差別を取り除いた残りの部分を、単に不平等として略して扱うので注意されたい。

不平等は生じてしまうもの

 前章では、障害学での問いに対し、それらは差別ではなく不平等である、という答えを出した。しかし、このような言葉の定義は、まどろっこしいと捉えられても仕方ないだろう。全部差別と呼んでしまえばいいと思う人もいるかもしれない。

 ここで、新たな問いが生まれるのである。「差別」と「不平等」を分けることで何が変わるのだろうか。このように、まどろっこしいほどに言葉を丁寧に扱って、何か良いことはあるのだろうか。たしかに、結局三つの事柄とも、是正の余地があることに変わりはない。しかし、差別という言葉には、不平等という言葉だけでは表しきれない要素が含まれている。

 それは、「主体と客体の関係」である。どういうことだろうか。 

 差別は、「する」ものである。私たちは「差別する」と言うことができる。もちろん「差別される」とも言うことができる。主語である誰かが差別をすれば、当たり前だが、差別をされるものが同時にでき、主体と客体の関係が成り立つのである。言い換えて能動と受動の関係とも言えるだろう。

 一方で、不平等は「する」ものではない。「生じる」ものである。不平等自らが現れ出たかのような文になるのである。「不平等が生じる」においては、不平等という語が主語と目的語を兼ねたように、主体と客体を切り分けることが出来ない。つまり、不平等は、私たち人間など、他の主語が関わらずとも、自分で出現するのである。

 これは単なる文法上の話だけではない。人間の意図なしに、不平等は生じている。先の三つの事柄においても、意図せずに不平等が生じている。これは、一度よく考えると至極当然のことなのである。

 今、本稿を読むために眼鏡をかけている人(日頃からかけている人もいるだろうが)が眼鏡をかけているという状況は、差別だろうか。これには誰もが差別ではないと答えるだろう。しかし、ファッションとして利用でもしない限り、眼鏡とはただ不便なものである。繊細に扱わなければならないし、寝るときには外し、定期的に拭き、洗浄し、時には買い替えるなど、費用もかかるだろう。

 それでも目の悪い人たちは、文句も言わずに眼鏡をかけて生活している。彼らは、裸眼でのびのびと暮らす人々と自分たちの間には、明らかな不平等が生じていることを分かっていながら、それらを差別とは言わない。

 なぜなら、誰のせいでもないと理解しているからである。目が悪いのは誰のせいでもない、むしろ、暗い部屋でゲームばかりして目が悪くなった人に至っては、自分のせいだともいえる。眼鏡をかけざるを得ないのは裸眼の人々から差別をされているからではない。様々な科学者達の研究の成果と、多くのエンジニア達の技術の結晶が眼鏡なのである。その進歩の過程には裸眼で暮らせる人も大いに貢献してきたことだろう。

 人類は出来る限りをつくして視覚における不平等の溝を埋めてきた。その溝を埋めているのが眼鏡なのである。この例から分かるように、私たちの意図があろうとなかろうと不平等は起こる。それだけではなく、眼鏡の不便さのように、私たちがどんなに力を尽くそうとも埋めることの出来ない不平等も存在することが判明した。

差別が「いけない」理由

 これまでで、差別と不平等の違いが明らかになった。では、上記のような不平等を差別と言ってしまうと、どうなるのだろうか。「主体と客体の関係」が含まれると、何が変わってくるのだろうか。

 先ほどの文法における考察から分かる通り、差別は誰かがするものである。「ナチスがユダヤ人を差別する」。「黒人が白人から差別される」。というように、主体と客体、主語と目的語、そして、能動と受動が分かれる。

 これらを言い換えると、「加害者と被害者の関係」になるのではないだろうか。差別とは、不当に扱うことだった。よって、差別という語を使えば、不当に扱うことによる不利益を与える者と、被る者ができるのである。この加害と被害の関係を、先の三つの事柄や眼鏡の例にあてはめてみると、いかに差別という語が用いられるべきでないかが分かる。

 障害者らを被害者として扱うのは悪いように思えないかもしれない、しかし、それでは空港や会社、そして裸眼で暮らす人々が加害者ということになってしまうのである。

 このような加害と被害の関係に当てはめると出てくるのが「罪」の概念である。差別をする側として認定された人々は、悪い人、罪を犯している人として捉えられてしまうのである。

 事柄の(3)、バニラエアの件で言えば、飛行機のタラップを自力で上った本人である木島英登さんは、この件についてブログで「同業者の手伝いで乗るのも認めないのは、ひどい」と綴っている。木島さんの嘆きは全うだ。しかし、これによって、規則に則って行動したバニラエアの係員、客室乗務員らは「ひどい人たち」あるいは「ひどいことをする人たち」にされてしまうのである。

 この件を報じたネットニュースなどのバニラエアに対する風当たりは更に強く、ネットは炎上した。この際のネットユーザーたちは、間違いなくバニラエアを悪い人たちとして非難していただろう。このように、加害者として認定された人々は社会的に制裁を加えられ、罪の意識を背負いこまされるのである。

 加害者とされる側への弊害は判った。しかし、不平等に苦しむ障害者らを被害者と呼ぶこと自体には何の問題もないのだろうか。一見、彼らは被害者のように思えるが、彼らを被害者と呼ぶことにも弊害はある。

 ここで、能動と受動、加害と被害の関係をもう一度考えてみてほしい。この関係に落とし込むと、更なることが言える。

 それは「加害者が差別さえしなければ、不平等、被害者は生まれなかった」と言えてしまうことである。

 不平等が誰かのせいになり、その責任は全て加害者とみなされた側が背負う。上記の三事項や眼鏡の例は、差別ではなく不平等なのだった。つまり、誰かのせいではない

 では、眼鏡の例が差別だとされていたら、どのような事態になっていたかを考えてみてもらいたい。上記のように、加害者とされる裸眼の人々は罪の意識を背負う。そして、被害者となった障害者らは彼らを公然と非難し、加害者が自分たちの暮らしを普通と同じにしてくれるのを待つのである。その状況下では、加害者とされた裸眼で暮らす人々だけが眼鏡開発や目の研究に取り組むだろう、まるで贖罪かのように。

 この思考実験はあまりに極端すぎるが、現実に近い例も考えられる。例えば、あなたが酒に酔いすぎた、ふざけすぎたなどの理由で大きな事故に見舞われたとしよう。その事故で脊髄を損傷し、車いす生活になったとする。そのせいで行きつけのカフェの段差を乗り越えられず、店に入れなくなってしまう。

 その時、あなたは障害者差別解消法などを叫びながら店を非難する自分を想定してしまわないだろうか。「店に自分が入れないなんておかしい、差別だ」と。しかし、その不平等の原因を作り出したのは、羽目を外しすぎたあなたなのである。

 この例にもどれだけの人が自分を重ねられるかは分からない。しかし、重要なのは、不平等をすべて差別と呼ぶことにより、その不平等に苦しむ本人が、事態の改善を他人に任せることができてしまうという点である。被害者になってしまうと、自分の苦しみや困難を、自分で背負えなくなってしまうのである。言い換えると、被害者となった者たちは無力になっていくのである。差別をする加害者たちに怒り、非難しながらも、彼らに全てが委ねられることで、被害者が加害者に依存して生きるという構造が出来上がってしまう。つまり、自分では何も出来なくなるのである。

今こそ解決思考で

 これまで、差別という言葉を誤って用いることがいかに危険かを考察した。ここではっきりさせておきたいのは、本稿は全て世界で差別とされているものは不平等でしかない、と主張しているわけではないということである。ナチスによるホロコーストなどは、明らかに不当であり、意図的な差別である。

 しかし、私たちの身近で差別と呼ばれる小さな事象一つ一つについて言えば、本当は差別ではないものが多いのではないだろうか。これから、差別と不平等の関係をはき違えることによる、最も大きな弊害を提示し、本稿を終えることとする。

 前章では、間違った事象に差別の枠を当てはめることで、加害者とされる側にも被害者とされる側にも、友好的、自立的ではなく、望ましいとは言えない結末が予想されたのだった。最後に提示する問題点は、肝心な不平等の溝が埋まりにくい、という点である。

 本当は不平等でしかない事象を差別と捉える、ということは、原因を無理やり人間に帰属させるということである。これまでの考察から分かる通り、人間が意図せずとも、自然発生的に不平等そのものは起こりうる。しかし、その誰のせいでもない問題を誰かのせいにすることで、問題の解決は更に遅れてしまうだろう。

 例えば、単に無くしただけの物を、誰それに盗られたと非難しても、なくしたものは戻ってこない。それどころか、交番に行けば見つかるかもしれないという可能性を見失うのである。問題の原因を誤ったものに帰属すれば、解決への道は遠ざかっていく。障害学で問われた三つの事柄に関しても同様に、それらを差別だと声高に叫んでも、問題解決は早まらない。誰かのせいにしても、犯人捜しをしても、新たな航空システムや、駐車場を設置する資金、画期的なタラップは生まれないのである。なぜなら、人間だけが不平等の原因ではないのだから。

 それよりも、問題解決やアイデア産出を皆で行うべきではないだろうか。加害と被害の関係を作り、敵と味方のように分かれるよりも、皆が味方として協力することだってできる。障害のあるなしに関わらず、私たちが生きていく以上、不平等は必然的に生まれ、私たちは上手くいかない不満を抱えることになる。そこで、全ての事象の原因は人間にあると驕ってはいけない。私たちにどうしようもないことは世の中に溢れている。それら全てを捉え尽くすことは難しいかもしれない、しかし、少しずつ私たちはそれらを捉えつつある。あなたが眼鏡をかけ、本稿を読み終えたのがその証である。

終わりに

 現代の障害観は大きく変わりつつある。特に「障害とはその当人が持つものではなく社会にある障壁のようなもの」という考え方が近年広まっている。一見響きは良いが、この考え方における社会という言葉を噛み砕けば、それは健常者のことを指していると分かる。健常者が作り上げた社会に障害があるという事だ。それならば、健常者が全部悪いのか、いいやそうじゃないだろうと声を上げるのが本稿の目的である。

 本稿では、差別、不平等の定義から始まり、それらの言葉をどう扱うべきかの検討に取り組んだ。本稿の能動と受動に関する考察や、人間の及ばない自然原因に関する考察は、17世紀の哲学者スピノザに依拠している。彼の神概念は、私たち人間が有限な存在であることを証明してみせた。その私たちの有限性、無力さを認識した上で、障害とどう向き合うかを検討するのが本稿の課題でもあった。

 この地球上はもはや人間が全てを支配し、地球そのものを人間が回しているかのように思えるかもしれない。しかし、2011年に東日本を襲った大震災、それに伴う津波は、いとも簡単に私たちが築いたものを崩していった。あの震災は、人災だったのだろうか。東電さえしっかりしていれば、皆安全だったのだろうか。スピノザならば、違う、と言うだろう。地震のみならず、私たちが自分の人生をコントロールすることすら難しいことは、自身が一番分かっているはずである。私たちは全知全能ではないのだ。しかし、何も分からないということもないのである。私たちは眼鏡を開発し、震災から学び、日々進歩している。本稿が、その進歩の一端となることを願う。

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