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せめて「自分」になりたい

わたしはずっと、個性的なひとになりたかった。

そういうものにならなければいけない、みたいな義務感さえあった。

好きでもないものを好きだと言ってみたり、似合いもしない個性的なファッションを着てみたり。

いうなれば「守破離」の破ばっかりやって、何一つものにできなかった。

でもそうやって偽物の「個性」を身につければ身につけるほど、わたしは埋もれて溺れていった。

自分にはなにかあるはずと信じていろんなものに手を出してみたけど、気がつくと誰かの真似をして安心していた。

高校生の頃、とても個性的で憧れた人の「きみは普通だよ」という言葉は、何者になれないわたしを未だに縛っている。

わたしはずっと、普通になりたかった。

話すのは好きだけど、周りの友達と上手く話せない。絵を書いている方が楽。よかれと思って何かをするたび「先生に媚びてる」と陰口を叩かれる。

いつしか学校からは遠ざかり、家ではネット世界で顔の見えない相手とのコミュニケーションに没頭し、同い年の子と、社会と、価値観は乖離するばかり。

2000年代、小6〜高校卒業までという長期間に渡る不登校は、就学生の全体の1%にも満たないとかなんとか。

学校には意味を見いだせなくとも、責任ある立場ならと、働きに出てもみたけれど、そこでも何故か浮いてしまった。

たくさんの人に嫌われて、少しの人に苛烈に愛されるよりも、平均的な価値観が理解できる人になりたかった。

身の丈に合わない無茶をして身に余る評価をもらって苦しむよりも、目立たなくてもコツコツと努力できる人になりたかった。

褒め言葉もなんにも嬉しくなかったんだ。


個性的になりたいと思えば思うほど、自身の平凡さを思い知らされ。

普通になりたいと思えば思うほど、自身の非凡さを思い知らされ。

普通にもなりきれず、個性的にもなりきれず。

うろうろ。うろうろ。

空っぽ、自分がない、偽物、そんな言葉ばかり浮かんでは消え。

でも散々自己分析をしてようやく気付いた。

ただ自分が見えていなかっただけだった。

自分から目を背けてきた代償は、手付かずの原石だ。

今から磨くのは遅いのか。

いや、そうではないと思いたい。

望んだ成功の形じゃなくっても。

磨けば何かにはなるはずだ。

そうやって自分の傷を自分で舐めながら必死で生きてる。

でも傷が治ったあとの皮膚ってきっとキレイだから。

それを待ってるよ。

何者にもなれないなら、せめて「自分」になりたいから。

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