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小さな幸せを見つける

「その日よかった事を3つ、手帳にメモする」

この習慣をはじめてもうすぐ3週間経つ。
できれば好きな色のペンやインクでメモするといいらしいのだけど、文房具をあまりたくさん持っていないので、せめて書き心地が気に入っているペンで書いている。

実は今年の頭にも、同じことを習慣化しようとしたけど、一ヶ月半で投げ出してしまった。

精神的に不安定で、何かを意識的に習慣化させる事が本当に苦手だ。そして、それができない事がコンプレックス。裏目に出た完璧主義もあいまって、一度その習慣化に挫折すると、もう一度同じ習慣をやっても無駄だと遠ざけ続ける。

そんな私が、何故もう一度同じ習慣に取り組もうと思ったかというと、自分を苦しめているのは自分自身だと改めて気付いたから。

私が苦しいのは、苦しい状況があるからではなく、傷つくことを恐れて必要以上に未来を悲観しているから。変わる事を恐れてネガティブに逃げているからなんだと。

追い込まれて(自分を追い込んで)、行き詰まりを感じる中で、「いい加減、このパターンはやめなきゃな」とようやく思う事ができた。

時期を同じくして、『幸せになる事から逃げないで。ささいな事で傷ついてしまう敏感さを、ささいな幸せを見つける事に向けて行きましょう』というメッセージもオラクルカードから受け取った。

だから、この習慣をもう一度再開する事にした。

そして現在。9月の半ばから、毎日手帳に書いている。2日分ためる日もあったり、思いついたらすぐメモったり、ペースにムラはあるけれど、とりあえず一日3個埋めることはできている。

取り組む中で、前回続かなかった理由にも気付いた。それは、「幸せを頭で考えていたから」。

大前提として「幸せ」とは湧き上がる喜びであり、安堵であり、心や身体で感じるものだ。

かつての私は「自分が何を幸せだと感じるか」ということにかなり無自覚だった。それなりに色々内省してきたつもりだけれど、だからこそ「こういう事が幸せ(だろう)」という、頭で考えた自分の中のブロックや自己イメージに囚われていた。

これは頭で考えている状態で、「幸せ」という感覚からは最も遠い。

半年前の時点で、少しずつ心で感じられるようになっていたとはいえ、まだまだこの傾向が強かった。

そのため「こうあるべき」にどんどん傾いていって、とても苦しかった。結果的に自分の心に嘘をついていることになるので、幸せを感じる事ができないし、メモを読み返してもワクワクしたり、嬉しくならない。

それに、思考に囚われていると、仮に心から湧き上がってきたものをメモできていたとしても、それに対して「こんな程度で幸せを感じられるなんて、安い人間だな」とか「小学生の日記かよ」とケチをつけ出す。

その言葉は、ほかでもない自分自身を傷つける。

何かしようと行動した時、いきなりダメ出しされたら誰でも嫌になるだろう。それを自分自身でやっているんだから、そりゃモチベーションも下がるってものだ。

それに加えて今よりも焦りが強くて「これをやらなければ幸せになれない」くらいの気負いがあったように思う。そんな気持ちで続けていたら、息切れしてしまうのも無理はない。

今回も、これらの気持ちがまったくなかったわけじゃなくて、やっぱり最初は「ごはんが美味しかった」とか、「夕焼けがきれいだった」とか、そんな内容が並ぶメモに対して恥ずかしくなり「小学生の日記かよ」というツッコミが顔を出した。

けれど、すぐに「いや、幸せってそういうささやかな事だし、それだって当たり前じゃない」と思い直す事ができた。

この半年の、自分の変化を実感した。「幸せは、いつでも、どこでも、自分次第で感じることができる」と腹落ちさせることができつつあったのだ。

そして、何より大事で、前回とは大きく違うのは、「自分の中に意識を向けながら書く」という事。

自分の内側で「幸せ」と感じられた事だけを書くようにしている。

一見成功に思えるような事や、特別な体験でも、自分が「うれしい」「たのしい」「あんしん」など、ポジティブだったり穏やかな感情で受け取れなかった事を、無理矢理「幸せ」と定義するのをやめた。

代わりに、自分にとって幸せと感じられたなら、どんなささやかな事でも否定しない。

そこを意識すると、自分が「何に」幸せを感じたかをつぶさに見るようになり、おかげで、感情の解像度が上がった。そして、もともと受け取る情報量は多かったので、その質が変わった事で、充実感が増した。

今のところ幸せの大半を占めるのは食事なので、その都度、味わって食べようと思うようになった。しんどくなったらとりあえず空を見上げたり、外に出る頻度も少しだけ増えた。

家事はめんどうだと感じる中でも、晴れていて洗濯物がよく乾いて心地よいなと感じたり、ピカピカに磨いた蛇口を気が済むまで眺めてみると、達成感が湧いたりした。

また、自分の内側に意識を向ける事で、今まで意識していなかった、自分ならではの幸せを感じるポイントに気付く事もできた。

ある日、どうしても一つしか浮かばなかった事があった。

頭を悩ませ、うーん、うーん、と唸ってしばらくして、「あ、今頭で考えているな」と我に返り、すぐお腹に意識を向けてみた。

すると、その日食べた某コンビニの新商品がふっと浮かんできた。

それが浮かんできた時、「えっ?」という気持ちになった。

それは、私が買ったのではなく旦那が買ってきてくれたもので、正直、まずくはなかったが、また食べようと思うほどの味ではなかったので、幸せカウントから除外していた。

しかし、よくよく聞いてみると、どうやら味ではなく「おもしろい新商品を試せた」という体験そのものが嬉しかったらしい。確かにそれは、今までにあまりない面白い形をした商品だった。

もしかしたら、「そこ?」と思う人もいるかもしれない。私自身もはじめはそう思った。

でも考えてみると、確かに、と思った。私は、ひといちばい強い好奇心を持っているし、新しい情報に触れる事や、未知の体験に飛び込むことをとても楽しく思う。興味のある事を学ぶのが楽しいし、前々から行きたかった場所にはじめて行けた時などはとてもワクワクする。

しかし、そういった経験にはお金がかかるからと我慢してしまいがちなのもある。

また、好奇心が強すぎて、「たかがコンビニ程度で満たせるものではない」と、どこかでたかをくくっていたのかもしれない。けれど私の心は、そんな「日常の小さな未知」でも幸せを感じられていたみたいだ。

その事に気付いて、まだ知らない自分の側面に出会えた事も嬉しかったし、「なんだ。そんな事でいいのか」と少し肩の荷が下りた気がした。

逆に、この「たかがコンビニ」というパターンで、これまでもささやかな自分の好奇心を潰してきたのかもしれない、とも。こういう細かい我慢が、知らないうちにストレスになっていたんだろうな。

ちなみに、「小さな幸せを感じられるようになると、より大きな幸せを引き寄せる」という事があるらしい。そのおかげかはわからないけど、この3週間のあいだに、既に一つ、面白い体験をした。

ある眠れなかった夜。気分転換にと近所の公園まで散歩にでかけたとき、なんとフクロウの鳴き声を聞いたのだ。

その公園には比較的背の高い木が集まっている場所があるので、その中のどれかに止まっていたのだと思う。

私が住んでいるのは都市郊外の住宅地なので、フクロウがいるなんて思ってもみなかった。一応、近くに野鳥の住む森が残っているらしく、もしかしたら、そこに住んでいて飛んできたのかもしれない。もしくは、近所の飼っている人の家から出てきたのかも。

理由は何であれ、フクロウの鳴き声を聞いたのは生まれて始めてだったし、しかもこんな近所で偶然、というのはとてもワクワクした。

そんなこんなで、続けられた期間はまだ短いけれど、前回より気付きと充実感をもって続けられている。

ちなみにこういった習慣は、いろいろなところで細かな形を変えて語られていると思うけど、私が見たのは「開運のおまじない」といったていのツイートだった。

取り組んでみて感じたのは、この話における「開運」とはつまるところ、幸せを見出す自分の心/意識を作る事だという事。

「幸せはすぐそこにある」「いつでもどこでも見出すことができる」「自分の行動で生み出すことができる」ということを、自分の中に落とし込む。

「毎日3つよかった事を書く」というのは、そのためのやり方のひとつ。

少なくとも私は、この方法に取り組む中で、色々な気づきがあって、やってよかったなと感じている。

不安になる事も、落ち込む事も、苦しい事も、ゼロにはならない。けれど幸せも、きちんと意識を向ければ、なかった事にはならないから、今日もいい一日だった、って終わる事ができる。

まあなんていうか、文章にすると、つい大げさになってしまいがちだけど、ようするに「小さな幸せ」ってのはすぐそこにあって、それに気付くことができると幸せだよっていう話がしたかったんだ。

多くの人が、すぐそこにある小さな幸せを感じて、心穏やかに過ごせますように。

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